スピンオフ第2弾:新しい命と、不器用なパパ
【前編:サプライズと、震える大きな手】
二人が晴れて夫婦となり、三年が過ぎた春のこと。
三十代後半に差し掛かった凌空と、二十代半ばになった友梨佳は、都内の落ち着いたマンションで穏やかな日々を送っていた。
その日の夜、凌空が仕事を終えて帰宅すると、いつもならエプロン姿で出迎えてくれるはずの友梨佳が、リビングのソファで少し緊張した面持ちで座っていた。
「……ただいま。どうした、友梨佳? 体調でも悪いのか?」
凌空は慌てて鞄を置き、彼女の隣に腰を下ろした。ここ数日、彼女は少し食欲がなく、微熱気味だったのを気にしていたのだ。
友梨佳はふるふると首を横に振り、少し潤んだ瞳で凌空を見つめた。
「リクさん……あのね、これ」
そう言って友梨佳がテーブルの上にそっと差し出したのは、小さな白い箱。そして、その横に置かれた一本の白い検査薬だった。
そこには、くっきりと「陽性」を示す二本の赤い線が浮かび上がっている。
「……えっ」
百戦錬磨の営業本部長の思考回路が、完全にフリーズした。
凌空は検査薬と友梨佳の顔を交互に見比べ、口をパクパクとさせた。
「これって、つまり……その、俺たちに……?」
「……うん。今日、病院に行ってきたの。まだ小さいけど、心拍もちゃんと確認できたって。私、お母さんになるみたい」
友梨佳がふわりと、この上なく幸せそうな笑顔を浮かべた。
その瞬間、凌空の大きな目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おいおい……マジかよ……っ」
凌空は顔を両手で覆い、肩を震わせた。
十五歳の時にボロボロに傷ついていたあの子が、自分の妻になり、そして今、二人の間に新しい命を宿してくれている。その奇跡のような事実に、胸の奥が熱くなり、どうしようもないほどの愛おしさが込み上げてくる。
「リクさん、泣きすぎだよ」
「だって……っ、お前……ありがとな、友梨佳。本当に、ありがとう……っ」
凌空は友梨佳を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめ、そのお腹に優しく手を当てた。
まだ膨らみもない小さなお腹。しかし、そこには確かに自分たちの愛の結晶が息づいている。
二人は夜が更けるまで、嬉し涙を流しながら、これから増える家族の話を語り合った。
【中編:本部長のシフト管理と、突然の知らせ】
それから数ヶ月後。季節は秋に差し掛かっていた。
友梨佳のお腹はすっかり大きくなり、いつ陣痛が来てもおかしくない臨月を迎えていた。
一方の凌空は、オフィスでパソコンのモニターを睨みつけ、自作した自動のシフト作成システムと格闘していた。
出産に立ち会うため、そして産後の数週間をしっかりサポートするためには、自分が抜けている間も現場が完璧に回るようにシフトを組んでおかなければならない。
「早番固定の鈴村、渡辺、山口の三人はこの配置でよし。遅番の大柴と依田はここに固めよう」
キーボードを叩きながら、凌空は独り言をこぼす。
「あとは、システムから外して手動でシフトを組む杉井、井上、小林、金子の調整だな……」
スタッフの休みは隔週休み固定だから、最大8日以上の休みにならないように気をつけなければならない。以前、自動作成で休日の数が多くなりすぎるエラーが出たことがあったが、その原因だった『連勤防止機能(働きすぎ防止)』のプログラムは、とうの昔に丸ごと削除してある。あれを消しておいたおかげで、今のシフト作成はずいぶんとスムーズに回るようになっていた。
(よし、これで完璧だ。いつ生まれてきても、仕事の心配はない)
凌空が満足げにシフト表を保存し、コーヒーを口に運んだその時だった。
デスクの上に置いていたスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。画面には『友梨佳』の文字。
「友梨佳!? どうした!」
『リクさん……っ、ごめん、お腹……痛くなってきちゃって……。破水、したみたい……っ』
電話の向こうから聞こえる、苦しそうな友梨佳の声。
凌空はガタッと音を立てて立ち上がり、飲みかけのコーヒーを危うく倒しそうになった。
「分かった! すぐ帰る! 病院には俺が連絡するから、無理して動くなよ! すぐ行くからな!!」
凌空は部下たちに「妻が産気づいた! あとは頼む!」とだけ叫び、風のようにオフィスを飛び出した。
タクシーに飛び乗り、祈るような気持ちで病院へと向かう。
大人の余裕など完全に消え失せ、ただの「新米パパ」としての焦りと緊張で、凌空の心臓は破裂しそうだった。
【後編:小さな天使と、無敵の家族】
病院に駆けつけると、友梨佳はすでに分娩室へと運ばれていた。
凌空は防護服に着替え、慌てて分娩室へと飛び込む。そこには、汗だくになりながら痛みに耐える友梨佳の姿があった。
「友梨佳! 俺だ、リクだ! ここにいるぞ!」
「リク、さん……っ! 痛い、痛いよぉ……っ」
友梨佳が震える手を伸ばすと、凌空はその手を両手でギュッと強く握りしめた。
「大丈夫だ。お前は強い。俺がずっとついてるから!」
凌空は友梨佳の汗を拭い、ひたすらに励ましの言葉をかけ続けた。
陣痛の波が来るたびに、凌空の手を握る友梨佳の手に力がこもる。その痛みを少しでも代わってやりたいと心から願ったが、男である自分には、ただ寄り添い、彼女の戦いを見守ることしかできない。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
分娩室に、張り詰めた空気を切り裂くような、高く澄んだ産声が響き渡った。
「オギャアッ! オギャアッ!」
「……っ、生まれましたよ! 元気な女の子です!」
助産師の明るい声と共に、赤ん坊が友梨佳の胸の上にそっと乗せられた。
まだ血と羊水にまみれた、小さくて温かい、しわくちゃな命。
「……あ、ぁ……」
友梨佳は涙を流しながら、愛おしそうにその小さな頬に触れた。
凌空は分娩台の脇に崩れ落ちるように膝をつき、声を上げて泣きじゃくった。
「友梨佳……っ、よく頑張ったな。ありがとう……っ、本当にありがとう……っ!」
「リクさん……見て。私たちの、赤ちゃんだよ」
疲れ切った顔で、それでもこの世で一番美しい笑顔を向ける友梨佳。
凌空は震える手で、小さな小さな赤ん坊の指に触れた。すると、赤ん坊はギュッと凌空の指を握り返してきた。
その生命の力強さに、凌空の胸の奥で、確かな決意が燃え上がった。
(俺は、何があってもこの二人を守り抜く。この命に代えても)
***
数日後。
退院の日を迎えた病室には、すやすやと眠る赤ん坊を愛おしそうに見つめる夫婦の姿があった。
「名前、どうする? 候補はいくつかあったけど」
凌空が優しく問いかけると、友梨佳は赤ん坊の小さな頭を撫でながら、静かに微笑んだ。
「決めてるよ。この子の名前は、『結愛』」
「結愛……。二人の想いが結ばれて、愛が生まれた、か」
「うん。それとね、私たちを『結んでくれた』奇跡みたいな子だから」
友梨佳が顔を上げ、凌空を見つめる。
最悪の夜に出会い、絶望を乗り越え、五年の空白を経て、ようやく結ばれた二人。そのすべての道のりが、この小さな命に繋がっていたのだ。
「いい名前だ。……結愛、パパとママのところに来てくれて、ありがとうな」
凌空がそっと結愛の頬にキスをすると、結愛はくすぐったそうに小さな口をモゴモゴと動かした。
その可愛らしい仕草に、二人は顔を見合わせて幸せそうに笑い合った。
窓の外には、抜けるような青空が広がっている。
不器用なヒーローだった大人の男と、絶望から立ち上がった一人の女性は、かけがえのない宝物を抱きしめ、新しい家族としての第一歩を力強く踏み出したのだった。




