スピンオフ:初デート温泉旅行編
【前編:特急列車と、高鳴る心臓】
喫茶店での運命の再会から、数ヶ月。
季節は巡り、セミの鳴き声が街を包み込む八月の終わり。
新宿駅の特急ロマンスカーのホームで、小林凌空(37)は、アイスコーヒーのカップを片手にそわそわと電光掲示板を見上げていた。
三十七歳、営業本部長。会社では数多くの部下を束ね、どんな億単位のコンペティションでも顔色一つ変えずに勝ち抜いてきた男が、今はまるで遠足前の小学生のように落ち着きがない。
(……一泊二日の、温泉旅行)
心の中でその単語を反芻するだけで、手のひらにじっとりと汗をかいてしまう。
今日は、二十歳になった友梨佳との、初めての「お泊まりデート」なのだ。
再会してからというもの、二人は休日のたびに食事に行き、映画を観て、少しずつ恋人としての時間を重ねてきた。しかし、お互いに仕事や大学で忙しく、丸一日ゆっくり過ごすのはこれが初めてだった。
しかも、行き先は箱根の高級温泉旅館。
大人の男として、絶対に彼女をエスコートし、最高に楽しませなければならない。変にがっついて引かれないよう、あくまで紳士的に——。
「リクさん!」
弾むような声に振り返ると、人混みの中から友梨佳が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
淡いブルーのノースリーブワンピースに、つばの広い麦わら帽子。足元は白いサンダル。風に揺れる長い髪から、ふわりと爽やかなシャンプーの香りが漂う。
そのあまりの眩しさに、凌空は一瞬、息をするのを忘れてしまった。
「ごめんなさい、待たせちゃいましたか?」
「い、いや。俺も今来たところだ」
十五歳の頃の彼女は、守ってやらなければ壊れてしまいそうな危うさがあった。だが、今の彼女は違う。大人の女性としての洗練された美しさと、恋する女性特有の甘い色香を纏っている。
凌空は平静を装いながら、彼女の小さなキャリーケースを自然な動作で受け取った。
「荷物、持つよ。行こうか」
「ふふっ、ありがとうございます。……あ、手」
友梨佳が、空いている方の手をスッと差し出してくる。
凌空は照れ隠しに小さく咳払いをすると、その白くて細い指に、自分の大きな指を絡ませた。ギュッと握りしめると、友梨佳の頬が嬉しそうに桜色に染まる。
特急列車に乗り込み、横並びの指定席に腰を下ろす。
列車が滑るように新宿駅を出発すると、窓の外の景色が徐々にビル群から緑豊かな郊外へと変わっていく。
「私、リクさんと旅行に行くの、夢だったんです」
友梨佳は車窓の景色を眺めながら、嬉しそうに足をパタパタと揺らした。
「五年前……ずっと部屋で一人で勉強してた時、いつか大人になったら、リクさんと色んなところに行きたいって、そればっかり考えてました」
「……俺は、お前をひどい言葉で突き放した最低な男だったのにな」
「最低じゃないです。世界で一番、不器用で優しい嘘つきです」
友梨佳がいたずらっぽく笑って、凌空の肩にコツンと頭を預けてきた。
肩越しに伝わってくる、彼女の体温と柔らかさ。凌空はドギマギしながらも、預けられた頭をそっと撫でた。
「……友梨佳。改めて言うけど、今日は本当に、ゆっくり疲れを癒すための旅行だからな。変な気は起こさないし、絶対に無理はさせない。安心しろ」
大人の男としての「紳士宣言」。
しかし、それを聞いた友梨佳は、口元を尖らせて少し不満そうに上目遣いで凌空を見上げた。
「……それって、私に『女性としての魅力がない』ってことですか?」
「は!? いや、そうじゃなくて! 大事にするって意味で……」
「嘘です、冗談ですよ」
ケラケラと笑う友梨佳に、凌空は盛大にため息をついた。
十五歳の頃はあんなに泣き虫で怯えていたというのに、すっかり立派な大人の女性(小悪魔)に成長してしまった。三十七歳の百戦錬磨の営業マンが、二十歳の女子大生に完全に振り回されている。
でも、それがたまらなく心地よかった。
駅弁をシェアして食べ、くだらないことで笑い合い、繋いだ手はずっと離さないまま。
特急列車は、夏の陽射しが降り注ぐ温泉街へと、二人を乗せて走り続けていった。
【中編:温泉街の散策と、浴衣の魔法】
箱根湯本駅に降り立つと、ふわりと硫黄の匂いと、川のせせらぎの音が二人を迎えた。
夏の終わりとはいえ、山間の空気は少しひんやりとしていて心地よい。
「わあ、すっごくいい景色!」
友梨佳は駅前の橋の欄干から身を乗り出し、澄んだ川のせせらぎを見下ろして目を輝かせた。
二人は温泉街のメインストリートをのんびりと歩き始めた。焼きたての温泉まんじゅうを半分こして食べたり、お土産屋さんでガラス細工を眺めたり。
すれ違う観光客たちが、時折チラチラと二人を振り返る。「歳の差カップル」というよりも、「素敵な大人の男性と、とびきり美人な彼女」という羨望の眼差しだ。
凌空はそれに気づき、少し誇らしいような、気恥ずかしいような気分で友梨佳の肩を引き寄せた。
夕方になり、二人がチェックインしたのは、山の中腹にあるひっそりとした高級老舗旅館だった。
部屋は、窓から箱根の山々を一望できる、露天風呂付きの広々とした和室。畳のい草の香りが、旅の疲れを優しく解きほぐしてくれる。
「すごい……! こんな綺麗なお部屋、初めてです!」
「気に入ってくれてよかった。とりあえず、夕食の前にひとっ風呂浴びてくるか」
凌空は仲居さんが淹れてくれたお茶を飲み干し、立ち上がった。
「俺は大浴場に行ってくるから、友梨佳はこの部屋の露天風呂を使いな。せっかくなら独り占めしたいだろ?」
「えっ、でも……」
「ゆっくり入っておいで。また後でな」
凌空はバスタオルを手に取り、逃げるように部屋を出た。
——危なかった。
あのまま同じ部屋にいて、彼女が着替えを始める気配など感じてしまったら、紳士の仮面が粉々に砕け散るところだった。
男湯の大浴場。
夕暮れの空を眺めながら熱い湯に浸かり、凌空は深く息を吐き出した。
五年前、ファミレスの向かいの席に座る小さな女の子だった彼女が、今は自分の「恋人」として、同じ旅館の部屋にいる。
夢のようだ、と思う。
自分の人生で、こんなにも穏やかで、幸福な時間が訪れるなんて想像もしていなかった。
(今日、ちゃんと伝えよう)
凌空は湯の中で拳を握りしめた。
保護者としての感情でも、ただの気まぐれでもない。一人の男として、彼女のこれからの人生をすべて背負い、永遠に守り抜くという絶対の覚悟を。
一方、部屋の露天風呂。
友梨佳は、ひんやりとした山の空気を顔に受けながら、肩までお湯に浸かっていた。
お湯の中で、自分の赤い顔を両手でパシッと叩く。
「……緊張、する」
今夜、リクさんと同じ部屋で寝るのだ。
彼は「何もしない」と言っていたけれど、友梨佳の心境は複雑だった。彼に大切にされているのは痛いほど分かる。でも、やっぱり「子ども」として扱われているのではないかという一抹の不安があった。
私はもう二十歳だ。彼に釣り合う、大人の女性として見てもらいたい。
友梨佳はお風呂から上がると、念入りにボディクリームを塗り、旅館に用意されていた色浴衣に袖を通した。
選んだのは、落ち着いた紺地に、色鮮やかな朝顔が描かれた大人っぽい浴衣。髪は緩くアップにまとめ、うなじを見せるようにセットする。
鏡の前で深呼吸をし、友梨佳は部屋のふすまを開けた。
「……お待たせしました」
湯上がりで火照った顔で、少し恥ずかしそうに俯き加減で立つ友梨佳。
部屋に戻って缶ビールを開けようとしていた凌空は、その姿を見た瞬間、手からビールを滑り落としそうになった。
「あ……」
「へ、変ですか……? 紺色、ちょっと地味だったかな……」
「——いや。めちゃくちゃ、綺麗だ。見惚れて、言葉が出なかった」
ストレートな賛辞に、友梨佳の顔がボフッと音を立てるように赤くなる。
凌空も自分の浴衣姿の胸元を直しながら、必死に動悸を抑えていた。
二人の間に、特急列車の時とは違う、少しだけ甘くて、湿度を帯びた沈黙が落ちる。
「……リクさん。ご飯の前に、少し外、歩きませんか?」
友梨佳が、窓の外を指差して言った。
「旅館の人に聞いたんですけど、今夜、近くの湖で『夏祭りの花火』が上がるそうなんです」
【後編:夜空に咲く花と、はじめての口づけ】
夜の帳が下りた温泉街。
旅館から少し歩いた先にある湖畔では、こぢんまりとした夏祭りが開かれていた。
提灯のオレンジ色の光が水面に揺れ、ヨーヨー釣りやりんご飴の屋台に、地元の家族連れやカップルが集まっている。
カラン、コロン。
下駄の音を響かせながら、二人は手を繋いで湖畔の遊歩道を歩いていた。
屋台の喧騒から少し離れた、静かな木立の下。人影がまばらになったその場所に、二人は立ち止まった。
風が通り抜け、友梨佳の浴衣の袖がふわりと揺れる。
「……リクさん。私、五年前は、大人になるのがすごく怖かったんです」
湖を見つめたまま、友梨佳がぽつりと口を開いた。
「大人は理不尽で、汚くて、自分のことしか考えてないって思ってたから。でも、リクさんに出会って……リクさんが、全部一人で泥を被って嘘をついて去っていった時、分かったんです。本当の大人っていうのは、自分の痛みを隠してでも、大切な人を守れる人のことなんだって」
友梨佳は振り返り、真っ直ぐに凌空を見上げた。
その瞳は、涙でうっすらと潤んでいるように見えた。
「だから私、必死で大人になりました。リクさんの隣に立っても恥ずかしくないように。もう二度と、リクさんを一人で泣かせないように」
その言葉は、凌空の胸の一番奥にある、五年間抱え続けてきた古傷を、優しく、温かく溶かしていくようだった。
——ヒュルルルル……!
不意に、夜空を引き裂くような高い音が鳴り響いた。
ドンッ!! という腹の底に響く轟音と共に、真っ暗な湖畔の夜空に、巨大な大輪の花火が打ち上がった。
赤、青、緑。
鮮やかな光の粒が夜空に散りばめられ、友梨佳の顔を美しく照らし出す。
友梨佳は「わあ……!」と声を上げ、夜空を見上げた。
しかし、凌空は花火など見ていなかった。ただひたすらに、目の前で光に照らされる愛しい女性の横顔だけを見つめていた。
「友梨佳」
花火の音に負けないよう、凌空は少しだけ大きな声で彼女の名前を呼んだ。
友梨佳が振り返る。
「俺は、立派な大人なんかじゃない」
凌空は友梨佳の両肩にそっと手を置き、その真剣な瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「五年前、お前を遠ざけたのは、お前の未来を守るためだなんて綺麗な理由だけじゃない。本当は、若くて眩しいお前に惹かれていく自分が怖くて、逃げ出しただけなんだ」
「リク、さん……」
「だが、もう逃げない。世間の目も、歳の差も、全部俺が引き受ける」
ドドンッ!!
再び大きな花火が上がり、周囲が真昼のように明るく照らされた。
その光の中で、凌空はゆっくりと、だがはっきりとした声で言葉を紡いだ。
「お前を、俺の人生のすべてを懸けて愛してる。保護者としてじゃなく、一人の男として。……俺と、一生一緒にいてくれないか」
ドクン、と。
花火の音よりも大きな心臓の音が、友梨佳の耳の奥で鳴り響いた。
それは、五年前からずっと、彼女が夢にまで見た言葉だった。
もう子ども扱いじゃない。大人の女性として、たった一人の愛する人から選ばれたのだ。
ポロポロと、友梨佳の目から大粒の涙が溢れ出した。
「はい……っ、はい……っ! ずっと、ずっと一緒にいます。私も、リクさんを愛してます……っ!」
泣きじゃくる友梨佳の顔を、凌空は大きくて温かい両手で優しく包み込んだ。
親指でそっと涙を拭ってやる。その手のひらの温もりは、十五歳のあの夜、絶望の中で頭を撫でてくれた時と何も変わっていなかった。
「……泣き虫なのは、五年前から変わらないな」
「だって……嬉しくて……っ」
凌空は優しく微笑むと、友梨佳の腰を引き寄せ、その小さな身体を自分の胸の中にすっぽりと抱きしめた。
そして、ゆっくりと顔を近づける。
友梨佳は少しだけ背伸びをし、そっと目を閉じた。
夏の夜風。微かな硫黄の匂い。
そして、夜空で弾ける花火の轟音。
それらすべてが最高潮に達した瞬間、二人の唇は、重なり合った。
とても柔らかくて、温かくて、少しだけ涙の味がする、はじめての口づけ。
五年間という長くて苦しい空白の時間を、完全に埋め尽くすような、深くて優しいキスだった。
ドドドンッ!! と、フィナーレを飾る連続花火が夜空を彩り、二人のシルエットを美しく浮き彫りにする。
唇を離し、額をコツンと合わせた二人は、どちらからともなく幸せそうに笑い合った。
「……愛してるよ、友梨佳」
「私もです。……私の、大好きなヒーロー」
最悪の出会いから始まり、残酷な別れを経て、ようやく手に入れた永遠の約束。
湖畔の夜空に咲く花火は、二人のこれからの輝かしい未来を祝福するように、いつまでも美しく咲き誇っていた。




