第5章:時を越えた約束
あれから、五年の月日が流れた。新宿の街は、相変わらず欲望と活気に満ち溢れ、行き交う人々の波は途切れることがない。
「友梨佳、この後のゼミの飲み会行くっしょ?」
「ごめん、今日はちょっと外せない用事があって。また来週ね!」
大学のキャンパスを抜け、地下鉄のホームへと向かう望月友梨佳の足取りは軽やかだった。二十歳。春から大学三年生になった彼女は、すれ違う人が思わず振り返るほど、目を引く美しい女性へと成長していた。かつて、新宿のネオンの下で怯えていた十五歳の面影はない。背筋をピンと伸ばし、淡いベージュのトレンチコートを上品に着こなしている。あの夜、いじめっ子に無理やり塗られた不自然な真っ赤な口紅ではなく、自分の肌に一番似合うコーラルピンクのリップが、大人の女性としての余裕と華やかさを引き立てていた。
地下鉄の窓に映る自分の顔を見つめながら、友梨佳はそっと自身のカバンに触れた。その中には、五年間、肌身離さず持ち歩いている「白い封筒」が入っている。中身は、あの夜に渡された五万円。五年前のあの日、部屋で一人泣き明かした夜から、友梨佳の目標はただ一つだった。「彼にふさわしい、誰にも文句を言われない自立した大人の女性になること」。
親の監視下でも絶対に隙を見せず、猛勉強を重ねて都内の難関大学に合格した。家庭教師のアルバイトで学費の足しを稼ぎ、教養を身につけ、メイクやファッションも研究した。すべては、いつか必ず彼と再会し、対等な立場でこのお金を返すため。
(リクさん……元気にしてるかな)
スマートフォンの連絡先は消され、SNSを探しても彼の痕跡は見つからなかった。彼がどこの会社の人間だったのか、あの時名刺を叩きつけられた父親しか知らない。それでも、友梨佳は月に一度、必ず新宿に足を運んでいた。あの夜、絶望の淵にいた自分を強引に連れ込み、温かいココアを飲ませてくれた、あの駅前の老舗喫茶店へ。いつか偶然、彼がそこに現れる奇跡を信じて。
同じ頃、新宿のオフィス街を、小林凌空はひどく重い足取りで歩いていた。三十七歳。数年前に本部長へと昇進し、着ているスーツも時計も、五年前よりずっと高級なものになった。会社での地位は確固たるものになり、部下からも厚く信頼されている。社会的に見れば、誰もが羨む成功した大人の男だ。しかし、その瞳の奥には、どこか空虚で冷たい色が張り付いていた。
「……降ってきたか」
空を見上げると、ポツリと額に冷たい雨粒が当たった。天気予報では晴れだったはずの春の空が、急に黒い雲に覆われ始めている。折り畳み傘など持っていない。次のクライアントとの打ち合わせまで、まだ一時間以上ある。どこかで雨宿りをしなければ。周囲を見渡した凌空の足が、不自然にピタリと止まった。
視線の先にあるのは、レトロなレンガ造りの外観。オレンジ色の温かい照明が漏れる、駅前の老舗喫茶店。
五年前、真っ赤な口紅を塗ってガタガタと震えていた小さな女の子を、強引に座らせた場所。この五年、新宿に来るたびに無意識に避けて通っていた場所だった。あそこに入れば、絶対に「あの子」を思い出してしまうから。自分が冷酷に切り捨てた、まばゆい光を。
(……ただの、雨宿りだ)
凌空は自嘲気味に息を吐き、足を踏み出した。カランカラン、とドアベルが鳴り、懐かしい珈琲の香りが鼻をくすぐる。店内は五年前と何も変わっていなかった。クラシック音楽が静かに流れ、客もまばらだ。凌空は無意識のうちに、あの日二人が座った一番奥のボックス席へと視線を向けた。
――そして、呼吸が止まった。
一番奥の席には、一人の若い女性が座っていた。淡いベージュのコート。整った長い髪。開かれた本に視線を落とし横顔は、ハッとするほど大人びていて、美しい。だが、その顔の輪郭に、伏せられた長い睫毛に、凌空の脳細胞が警鐘を鳴らす。
あり得ない。そんな偶然があるはずがない。凌空が立ち尽くしていると、ウェイトレスが女性のテーブルに注文の品を運んできた。
「お待たせいたしました。ホットココア、クリーム多めでございます」
その言葉に、女性がパッと顔を上げ、花が咲くような笑顔を見せた。間違いない。
(友梨佳……?)
三十七歳の心臓が、まるで少年のように激しく跳ね上がった。
店内に案内され、凌空は友梨佳から少し離れた席に逃げるように腰を下ろした。メニューも見ずにブラックコーヒーを頼み、ネクタイを乱暴に緩める。
見間違いじゃない。彼女だ。あの時十五歳だった彼女は、二十歳になっているはずだ。高校の制服姿で泣きじゃくっていた少女が、たった五年で、あんなに洗練された美しい女性になるなんて。声をかけるべきか? いや、絶対にダメだ。自分はあの日、彼女を「騙して遊んでいただけ」と突き放し、最低の裏切り者として泥を被って別れたのだ。今さら顔を合わせる権利なんてない。万が一彼女が自分に気づけば、過去のトラウマを呼び起こし、怯えさせてしまうかもしれない。
凌空はコーヒーを一口飲み、コートの襟を立てて顔を隠すように俯いた。早く雨が止んでくれ。そう願いながら息を潜めていた、その時だった。
「……あの、相席、よろしいですか?」
頭上から降ってきた、鈴を転がすような澄んだ声。ビクリと肩を跳ねさせ、凌空が顔を上げると、そこには自分のテーブルの前に立つ友梨佳の姿があった。両手でココアのマグカップを包み込むように持ち、凌空を真っ直ぐに見つめている。
「ゆ、友梨佳……っ」
名前を呼んでしまった瞬間、凌空は激しく後悔した。赤の他人のふりをするべきだったのだ。だが、友梨佳の顔に恐怖や軽蔑の色はなかった。彼女はふわりと微笑むと、凌空の向かいの席に、ごく自然に腰を下ろした。
「お久しぶりです、リクさん」
落ち着いた、大人の女性の声。その堂々とした振る舞いに、凌空は完全に呑まれていた。頭の中で必死に営業本部長としての理性をかき集め、五年前に作り上げた「冷酷な大人」の仮面を被り直す。
「……なんのつもりだ。俺はもう、二度と会わないと言ったはずだが」
「偶然ですよ。雨が降ってきたから、雨宿りに入ったんです。リクさんも、そうでしょ?」
友梨佳はクスリと笑い、ココアを一口飲んだ。かつての彼女なら、凌空が低く冷たい声を出しただけで肩を震わせて泣き出していたはずだ。しかし今の彼女は、凌空の威圧感を柳のようにサラリと受け流している。
「大きく、なったな……」
「二十歳になりましたからね。もう、女子高生じゃないですよ」
友梨佳はそう言うと、持っていたカバンから『白い封筒』を取り出し、テーブルの上にスッと滑らせた。
「あの夜の五万円。返しに来ました」
「……」
「リクさんが『当分は出世払いで、借金は継続だ』って言ったから。私、五年間ずっとこのお金をお守りにして、生きてきたんです」
凌空は封筒を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。ダメだ。ここで絆されてはいけない。彼女は輝かしい未来を歩むべき女性だ。自分のような、もうすぐ四十に手が届く薄汚れたおっさんが、これ以上関わっていいはずがない。
「……金は受け取る。これで、本当に終わりだ。もう俺に構うな」
凌空が封筒に手を伸ばそうとした瞬間、友梨佳の手がパシッとその手を上から押さえた。滑らかで、温かい手のひら。凌空が驚いて顔を上げると、友梨佳の大きな瞳が、逃げ場のないほどの強い光を放って凌空を射抜いていた。
「終わりになんか、しません」
「友梨佳、いい加減にしろ。俺があの時、ホテルでお前に言ったことを忘れたのか? 俺はお前を――」
「嘘ですよね」
ピシャリと、友梨佳が凌空の言葉を遮った。
「私が子供だから、本当のことを言ったら私が親や学校に迷惑をかけると思ったから。私の未来を守るために、自分が最低のクズになって泥を被ったんでしょ」
「……っ」
心臓を素手で掴まれたような衝撃。凌空の目が大きく見開かれる。完璧だと思っていた大人の嘘が、とうの昔に見破られていたという事実に、頭が真っ白になった。
「私、ずっと悔しかったんです。リクさんが私を守るために傷ついてくれたのに、私は子どもだから、守られることしかできなくて、何も返せなかった」
友梨佳の目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。それは五年前の絶望の涙ではなく、積年の想いが溢れ出した、美しく熱い涙だった。
「だから、死ぬ気で大人になりました。もう、リクさんに庇ってもらうだけの無力な子どもじゃありません。世間の目も、親の言うことも、自分で責任を取れる大人になったんです」
友梨佳は凌空の手をギュッと強く握りしめ、真っ直ぐに想いをぶつけた。
「リクさん。五年前からずっと、あなたが大好きです。あのファミレスで笑い合った時から、ずっと」
「……バカ野郎」
凌空の声は、ひどく掠れていた。必死に築き上げてきた理性の防壁が、彼女の真っ直ぐな言葉の前に、音を立てて崩れ去っていく。
「俺は、三十七歳だぞ。お前より十七も年上で、仕事ばかりで、可愛げも何もない、ただの疲れたおっさんだ。お前みたいに綺麗で、未来がある女が、わざわざ選ぶような男じゃない……っ」
言い訳を並べ立てる凌空に向かって、友梨佳はふわりと、この上なく優しく微笑んだ。
「でも、世界で一番、不器用で優しくて、私のヒーローなのは、リクさんだけです」
その一言で、十分だった。五年もの間、自分自身にかけ続けていた呪いが、氷が溶けるように消え去っていく。
もう、大人の建前も、年齢差の言い訳も必要ない。目の前にいるのは、守るべき十五歳の少女ではない。自分のすべてを懸けて愛したいと願う、一人の自立した女性だ。
凌空は大きく息を吸い込み、友梨佳に握られていた手をゆっくりと裏返し、今度は自分から、彼女の細い手を強く、力強く握り返した。
「……あの夜、ホテルでお前を突き放して家に帰った後。俺は一人で、声を殺して泣いたよ」
ぽつりとこぼれた凌空の告白に、友梨佳は驚いたように目を丸くした。
「え……?」
「二度と会えないと分かって、初めて気づいたんだ。俺の灰色の毎日に差し込んだ、たった一つの光が、お前だったってことだ」
凌空は自嘲気味に笑い、しかしその目は、かつてないほど優しく、熱く友梨佳を見つめていた。
「保護者面をして、世間のルールを言い訳にして、本当はお前を手放したくなかった。ずっと、狂おしいほど、お前に惹かれていた」
「リク、さん……っ」
友梨佳の目から、せき止めていた涙が次々と溢れ出す。五年間、誰にも言えなかった二人の本当の想いが、喫茶店の小さなテーブルの上で、ようやく重なり合ったのだ。
「もう一度、聞く。俺は三十七歳で、仕事ばかりで、きっとこれからもお前を待たせることが多い。それでも、俺でいいのか?」
友梨佳は涙を拭い、満面の笑みで大きく頷いた。
「リクさんじゃなきゃ、絶対に嫌です」
その笑顔を見た瞬間、凌空の胸の奥底から、どうしようもないほどの愛おしさが込み上げてきた。凌空はテーブルの上に置かれた『五万円の入った白い封筒』を手に取ると、それを友梨佳のバッグの中にスッと滑り込ませた。
「え、どうして……。それ、借金……」
「言っただろう。その金は、出世払いだ」
凌空は立ち上がり、伝票を手に取って意地悪く笑った。
「その五万は、俺たちの『初デート』の軍資金にしろ。今日は最高のディナーをご馳走させてやる」
「……っ! はいっ!!」
友梨佳も弾かれたように立ち上がり、凌空の隣に並んだ。五年前、大人の男と小さな子どもとして歩いた時とは違う。今は、肩を並べて歩く「一組の男女」だった。
喫茶店のドアを開け、外に出る。いつの間にか春の通り雨は上がり、雲の切れ間からオレンジ色の夕日が新宿の街を眩しく照らし出していた。濡れたアスファルトがキラキラと光を反射し、新しい始まりを祝福しているかのようだ。
「リクさん」
友梨佳が、凌空の大きな手に、自分の手をそっと絡ませてきた。ぎこちない、けれど温かい恋人繋ぎ。
「私、ハンバーグが食べたいです。一番高くて美味しい、ダブルチーズハンバーグ」
五年前に果たせなかった約束。その言葉に、凌空は思わず吹き出し、彼女の手をギュッと強く握り返した。
「いいだろう。覚悟しとけよ、俺は結構食べるからな」
十七歳の年齢差も、倫理の壁も、五年の空白も、もう二人を隔てるものは何もない。最悪の出会いから始まった二人の物語は、長い冬を越え、ようやく本当の恋人としての春を迎えた。
夕日に染まる新宿の街を、繋いだ手を離すことなく、二人は真っ直ぐに歩き出した。




