第4.5章:幕間 大人の嘘と、誰にも言えない涙(凌空視点)
ホテルでの話し合いを終え、自宅のマンションに辿り着いた時、窓の外はすでに完全な夜の闇に包まれていた。
明かりもつけず、凌空は玄関の土間に座り込んだ。
ネクタイを緩める気力すらない。完璧な悪役を演じ切るために纏っていた「営業部長」としての鎧が、鉛のように重く全身にのしかかっていた。
『リクさんは、私の命の恩人なんだよ!!』
『うそ……嘘だよね……?』
静寂に満ちた暗い部屋に、友梨佳の悲痛な叫び声が何度も何度も木霊する。
あの時、自分を見つめていた彼女の絶望に染まった瞳。今にもすがりついてきそうだった小さな両手。それを冷酷に払い除けた自分の手のひらが、今もジリジリと焼け焦げるように痛んだ。
「……あぁ、くそっ……」
凌空はふらつく足取りで立ち上がり、リビングのソファに崩れ落ちた。
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を開き、メッセージアプリのトーク一覧から『友梨佳』の名前をタップした。
『また来週の日曜日、ファミレスで! 今度こそ私にハンバーグ奢らせてくださいね!』
画面に残された、昨日の夜の彼女からのメッセージ。
この無邪気な言葉を打っていた時、彼女はどんなに幸せそうな顔をしていただろうか。それを、自分は今日、完膚なきまでに叩き壊した。
「これで、よかったんだ……」
誰に言い聞かせるでもなく、虚空に向かって呟く。
もしあの場で自分が真実を語り、彼女を庇っていれば、彼女の未来に消えない泥が塗られていた。彼女を守るためには、自分が彼女を「弄んで捨てた最低の男」になるしかなかった。
大人の対応としては、あれ以上ない百点満点の立ち回りだった。
それなのに。
息ができないほど、苦しい。
心臓を直接素手で抉り取られているような、生々しい痛みが止まらない。
凌空はスマートフォンの画面をぼんやりと見つめながら、自分がなぜここまで苦しんでいるのか、その本当の理由に気づいてしまった。
ただの「可哀想な子ども」を助けただけの、保護者としての情ではなかった。
絶望の中でも必死に前を向こうとする強さ。不器用に自分を慕ってくれる真っ直ぐな瞳。一緒にファミレスで笑い合った、何気ない時間。
いつの間にか、彼女の存在は、乾ききった自分の灰色の日常に差し込んだ、たった一つの光になっていたのだ。
(俺は……あいつに、惹かれてたんだ)
十七歳も年下の、十五歳の女子高生。
絶対に抱いてはいけない感情。世間が許さない、汚らわしいと石を投げられるような感情。
だからこそ、必死に「保護者」という言葉で蓋をして、見ないふりをしてきた。
だが、二度と会えなくなった今になって、皮肉にもその想いの輪郭がはっきりと浮き彫りになってしまった。
俺は、望月友梨佳という一人の女性を、愛してしまっていたのだ。
「……っ、う……ぁっ……」
もう二度と、あの子の笑顔を見ることはできない。
もう二度と、名前を呼んでくれることもない。
一生、自分は「最低な裏切り者」として、彼女の記憶の中で憎まれ続ける。自分の想いを伝えることなど、この先の人生で一秒たりとも許されないのだ。
凌空の視界がぐにゃりと歪んだ。
スマートフォンの画面に、ポタッ、ポタッと水滴が落ちる。
「ごめん……ごめんな、友梨佳……っ」
三十二歳の大人の男が、声を殺して泣いていた。
暗い部屋の中、両手で顔を覆い、肩を震わせて嗚咽を漏らす。
社会の理不尽にも、理不尽なノルマにも決して涙を見せなかった男が、ただ一人の少女を想い、子どもみたいに泣きじゃくった。
「会いたい……っ。お前と、もっと……一緒に、いたかった……っ!」
誰にも聞かれることのない、決して口にしてはいけない本音が、涙と共にこぼれ落ちる。
彼女の未来を守るために、自分の心の一番大切な部分を殺した。
その代償は、あまりにも大きすぎた。
凌空は震える指でスマートフォンの画面を操作した。
友梨佳とのトーク画面の右上にあるメニューを開き、『ブロック』をタップする。そしてそのまま、トーク履歴の『削除』を押した。
画面から、彼女と交わしたすべてのやり取りが消滅する。
これで、本当にすべてが終わった。
凌空はスマートフォンを床に落とし、暗闇の中でただ一人、朝が来るまで静かに泣き続けた。
【次回 8月9日 10:00 第5章:時を越えた約束】




