第4章:発覚と断絶
カラオケボックスでの一件から、数日が過ぎた。友梨佳を取り巻く世界は、嘘のように穏やかになっていた。沙耶たちは友梨佳とすれ違うたびにビクッと肩を震わせて目を逸らし、絶対に近づこうとはしなかった。地獄のような日々は完全に終わりを告げたのだ。
「友梨佳、最近なんだか楽しそうね」
金曜日の夜。リビングで夕食の片付けをしていた母親が、ふと微笑みながら言った。ソファでクッションを抱きしめていた友梨佳は、ビクッと肩を跳ねさせた。
「えっ? そ、そうかな……普通だよ?」
「そう? 前は帰ってくると暗い顔して部屋に引きこもってたのに。最近はよく笑うようになったじゃない。高校にも慣れて、いいお友達でもできた?」
母親の悪気のない言葉に、友梨佳は曖昧に頷いて誤魔化した。いい友達ができたわけじゃない。ただ、日曜日に会える「大好きな人」がいるから、毎日がキラキラと輝いて見えるだけだ。明後日は、約束の日曜日。今度こそ、彼に一番高いハンバーグをご馳走するんだ。そう考えるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「お風呂、先に入っちゃうね!」
友梨佳はソファから立ち上がり、スキップを踏みそうな足取りで脱衣所へと向かった。
――その時、友梨佳は致命的なミスを犯していた。自分のスマートフォンを、リビングのローテーブルの上に置きっぱなしにしていたのだ。普段なら絶対に肌身離さず持ち歩くのに、浮かれた心が隙を生んでいた。
友梨佳が風呂場へ消えた数分後。ローテーブルの上に置かれたスマートフォンが、ブーッ、と短く振動した。食器を拭き終えた母親が、何気なくそれに目をやる。画面には、LINEの通知がポップアップで表示されていた。
『リク:日曜日の12時、いつもの駅前で。ハンバーグの件、期待してるからな。おやすみ』
「……リク? 男の人?」
母親の眉がピクリと動く。クラスの男子だろうか。しかし、アイコンは初期設定のままで、文章のトーンも高校生同士のものには見えない。妙な胸騒ぎを覚えた母親は、無意識のうちに友梨佳のスマートフォンに手を伸ばしていた。画面をスワイプする。家の中だからと、ロックはかけていなかった。
開かれたトーク画面。そこには、母親の心臓が凍りつくようなやり取りがズラリと並んでいた。
『今日は本当にありがとうございました。また来週の日曜日、ファミレスで!』
『借金は継続だ。当分は出世払いだな』
『五万円、絶対に少しずつ返しますから!』
「五万円……? 借金……?」
血の気が引いていくのが分かった。震える指で、さらに画面を上にスクロールしていく。ファミレスでのやり取り、勉強を教えてもらったというお礼。そして一番上、出会った頃のトーク履歴にたどり着いた時。そこには、友梨佳が絶対に家族に見られたくなかった、あの決定的な証拠が残っていた。
『ユリ・20歳・女子大生』
『リク・32歳・会社員』
『マッチングが成立しました! メッセージを送ってみましょう』
「……っ!!」
母親は思わず口元を押さえた。マッチングアプリ。三十代の会社員。年齢を偽る娘。夜の新宿での待ち合わせ。そして、五万円という大金のやり取り。これらが意味するものは、一般常識を持つ大人からすれば一つしかない。
「あ、あなた……っ! ちょっと、早く来てちょうだい!!」
母親の悲鳴のような声が、静かな夜のマイホームに響き渡った。書斎から慌てて飛び出してきた父親に、母親は震える手でスマートフォンを差し出した。画面を見た父親の顔から表情が消え、やがて顔中が怒りで赤黒く染まっていく。
数十分後。風呂から上がり、バスタオルで髪を拭いながら「ふんふん」と鼻歌交じりにリビングに戻ってきた友梨佳。だが、その足は入り口でピタリと止まった。
そこには、鬼のような形相で立ち尽くす父親と、ソファに崩れ落ちて泣いている母親の姿があった。父親の手には、友梨佳のスマートフォンが握られている。
「お、お父さん……お母さん? どうしたの……」
戸惑う友梨佳の足元に、ガシャンッ! と何かが投げつけられた。画面にヒビが入った、自分のスマートフォン。それを見た瞬間、友梨佳の心臓がドクンと嫌な音を立てた。全身の血がサーッと冷たくなっていく。
「友梨佳……お前、一体何をしているんだ」
父親の地を這うような低い声。普段は温厚な父親の、見たこともないほど冷酷な眼差しだった。
「マッチングアプリで、三十二歳の男と密会……? 五万円の借金……? お前、援助交際なんてふざけた真似をしてるのか!!」
「ちがっ……違うの!!」
友梨佳は弾かれたように叫んだ。
「違う、援助交際なんかじゃない! あの人は、私を助けてくれたの!!」
「助けてくれただと? 大人の男が、十五歳の女子高生に五万円も渡して休日に連れ回すのがか! 騙されてるんだよお前は!」
「騙されてなんかない! 私、学校でいじめられてて……無理やりアプリやらされて、写真をばら撒くって脅されて、それをあの人が助けてくれたの!!」
「いじめだと?」
父親は苛立たしげに舌打ちをした。
「そんな見え透いた嘘をついてまで、その男を庇うのか! ならなぜ親の私に相談しなかった! お前はそこまでその男に洗脳されているのか!」
「嘘じゃないっ!! 本当に……沙耶たちに脅されてて……っ」
友梨佳の悲痛な叫びは、両親には全く届かなかった。真面目で厳格な両親にとって、「娘がいじめを苦に身体を売ろうとした」という突拍子もない事実よりも、「怪しい中年男に娘が金で釣られ、たぶらかされている」という構図の方が、よほど現実的で、受け入れやすかったのだ。
「もういい。話はあの男に直接聞く。……お前は部屋から一歩も出るな!」
「やめて!! リクさんは関係ない!! 巻き込まないで!!」
すがりつく友梨佳を力任せに突き飛ばし、父親はひび割れたスマートフォンを拾い上げた。そして、画面を操作し、凌空のLINE画面を開く。
「なにするの、返して!! お願いだから!!」
泣き叫びながら手を伸ばす友梨佳を母親が背後から羽交い締めにし、父親は怒りに震える指でメッセージを打ち込んだ。
『望月友梨佳の父親です。すべて見ました。明日、お会いしたい。逃げるなら警察に行きます』
送信ボタンが押されるのを、友梨佳は絶望の中で見つめることしかできなかった。
同じ頃。凌空は自宅のマンションで、缶ビールを片手にパソコンを開いていた。日曜日に行く予定の、駅前の美味しいハンバーグ屋を検索しているところだった。「一番高いダブルチーズハンバーグを食ってやる」と強がった手前、絶対に外れのない店を選んでおきたかったのだ。
テーブルの上のスマートフォンが短く振動した。画面を見ると、友梨佳からのLINEだ。こんな時間に珍しいなと思いながら、ビールを置いて画面を開く。そこに表示された文章を読んだ瞬間、凌空の全身から酔いが一瞬で吹き飛んだ。
『望月友梨佳の父親です。すべて見ました。明日、お会いしたい。逃げるなら警察に行きます』
――最悪の事態だ。凌空はスマートフォンを持ったまま、天井を仰ぎ見た。いつか来るかもしれないと恐れていたことが、最も最悪なタイミングで起きてしまった。彼女が親にスマホを見られた。それも、マッチングアプリの履歴や、金銭のやり取りに関するトークがすべて残った状態で。
一般の親がそれを見れば、どう思うか。考えるまでもない。三十代の男が、援助交際で娘を食い物にしていると判断するに決まっている。
「……くそっ」
凌空は両手で顔を覆った。自分が甘かったのだ。いじめの問題を解決した時点で、彼女にアプリを完全に削除させ、LINEもブロックして二度と連絡をとれないようにするべきだった。自分の「彼女とまだ繋がっていたい」という浅はかなエゴが、彼女を今、家庭内の地獄に突き落としている。
凌空は深く息を吸い込み、覚悟を決めたように画面に向き合った。
『承知いたしました。明日の午後三時、駅前のホテルラウンジでお待ちしております』
返信はすぐに既読になった。それきり、向こうからのアクションはない。おそらく友梨佳はスマホを取り上げられ、泣き叫んでいるだろう。その姿を想像するだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
翌日の土曜日。午後二時四十五分。駅前にそびえ立つシティホテルのラウンジ。高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、ふかふかの絨毯が足音を吸い込む。クラシック音楽が静かに流れるその空間は、本来なら休日の優雅なティータイムを楽しむための場所だ。だが、一番奥のソファー席で一人ブラックコーヒーを前にしている凌空の心境は、死地に向かう兵士のように冷え切っていた。
これまでの営業人生で、数え切れないほどのクレーム処理や、胃に穴が空くような接待、土壇場でのコンペティションを経験してきた。どんな修羅場でも、大人の「建前」と「交渉術」で乗り切ってきた自負がある。しかし、今日これから対峙するのは、取引先でもクレーマーでもない。自分が関わってしまったせいで、平穏な日常を破壊されてしまった「十五歳の少女の親」だ。どんな論理武装も、親の愛情と怒りの前では無意味であることを、凌空は痛いほど理解していた。
(……来たか)
午後三時ちょうど。ラウンジの入り口に、周囲の優雅な空気から明らかに浮いている、思い詰めた表情の中年男女が姿を現した。父親は休日のラフな格好だが、肩はいかり、目は血走っている。母親は目を真っ赤に腫らし、父親の腕にすがるようにして歩いていた。一晩で数年分老け込んだかのようなその姿に、凌空は自身の胸の奥が鈍く痛むのを感じた。
凌空は静かに立ち上がり、彼らに向かって短く一礼した。両親が目の前のソファに腰を下ろす。テーブルを挟んだわずか一メートルの距離が、とてつもなく遠い断絶の溝のように感じられた。
「……単刀直入に聞きます。小林さん」
父親が、親の仇でも見るかのような憎悪の籠もった目で凌空を睨みつけた。その声は、必死に怒りを押し殺しているせいで小刻みに震えている。
「三十を過ぎた大人のあなたが、十五歳の未成年をマッチングアプリで呼び出し、金を渡し、休日に連れ回していた。これは事実ですね?」
「……はい。事実です」
凌空は一切の動揺を見せず、淡々と認めた。言い訳をせず、ただ事実だけを肯定する。父親の顔が、怒りで赤黒く染まった。
「ふざけるなッ! 娘を食い物にしやがって……! これが立派な未成年者略取、そして児童買春に当たることは理解しているのか!!」
父親の怒声が響き、周囲の客が何事かとこちらを振り返る。しかし父親はそんな世間体など気にする余裕もない様子だった。
「あなたのような変質者に、うちの娘がどれほど傷つけられたか……っ! 大切に、大切に育ててきたのに……っ」
母親がハンカチで顔を覆い、嗚咽を漏らす。両親からの容赦ない罵倒と悲しみが、雨霰と降り注ぐ。凌空は反論一つせず、ただ黙ってその言葉の刃を全身で受け止めていた。親からすれば当然の怒りだ。自分が彼らの立場でも、間違いなく目の前の男の胸ぐらを掴み、殴り飛ばしているだろう。
「娘は怯えて『いじめられていたのを助けてもらった』などと出鱈目を言っていました。あなたがそう言えと洗脳したんでしょう! 汚い金で娘を縛り付けて……っ、本当に最低な男だ!」
ダンッ! と父親がテーブルを叩く。コーヒーカップが跳ね、黒い液体がソーサーにこぼれた。凌空は静かに目を伏せた。友梨佳は、両親に本当のことを言ったのだ。いじめられていたこと、写真を撮られて脅されていたこと。それでも信じてもらえなかった彼女の孤独と絶望を思うと、呼吸が浅くなるほど胸が締め付けられた。
(……だが、ここで俺が『いじめは事実です』と真実を告げれば、どうなる)
親は間違いなく学校に怒鳴り込み、警察を巻き込む。いじめグループは制裁を受けるだろうが、同時に「友梨佳がパパ活で身体を売ろうとしていたこと」「下着の写真を同級生に撮られていたこと」が、学校中の、いや世間の知る事実となってしまう。好奇の目。心無い噂。彼女がこれから送るはずだった、普通の女子高生としての生活は完全に崩壊する。だから、俺が悪役になるしかない。
凌空が、すべてを終わらせるための「残酷な嘘」を口にしようと息を吸い込んだ、その時だった。
「リクさんッ!!」
ラウンジの入り口から、空気を引き裂くような悲痛な叫び声が響いた。全員がハッと顔を上げる。そこには、息を切らした友梨佳が駆け込んでくる姿があった。髪はボサボサに乱れ、Tシャツにデニムという無防備な格好。額には汗が滲み、目は泣き腫らして真っ赤になっている。裸足にサンダルを突っ込んだだけの足元が、彼女がどれほどなりふり構わずここまで走ってきたかを物語っていた。
「友梨佳! お前、部屋から出るなと言っただろう! なんでここに来た!!」
「お父さん、やめて! リクさんは悪くないの!!」
立ち上がり、腕を掴もうとする父親を全力で振り切り、友梨佳は凌空の隣にバンッと両手をついた。
「リクさん、ごめんなさい……! 私のスマホを、お母さんが見ちゃって……っ。違うの、いじめられてたことも、お金のことも全部本当のことを説明したのに、信じてもらえなくて……!」
ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、必死に凌空に向かって弁解する友梨佳。息を切らし、小さな身体を震わせながら、両親の怒りから自分を庇おうとしてくれている。
(……バカ野郎。お前がそんな必死になればなるほど、親は『洗脳されている』と確信するんだよ)
凌空は、泣きじゃくる彼女の頭を撫でてやりたい衝動を、奥歯を噛み締めて必死に殺した。テーブルの下で、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど拳を強く握りしめる。自分の中の「優しい大人」の感情に完全に蓋をし、営業マンとしての冷徹な仮面を顔に張り付けた。
「……帰れ」
底冷えのするような、冷酷な声。友梨佳はピタリと動きを止め、信じられないものを見るように凌空の顔を見つめた。
「え……?」
「親御さんが心配してるだろ。帰れと言ってるんだ」
友梨佳の大きな瞳が、みるみるうちに揺れ動く。父親がここぞとばかりに机を叩いた。
「見ろ、友梨佳! お前は騙されてるんだ! こいつはお前の身体と若さが目当てで近づいた、最低のクズなんだよ!」
「違う!!」
友梨佳は父親に向かって泣き叫んだ。
「リクさんは指一本触れてない! 私が沙耶たちに脅されて死にそうだった時、誰も助けてくれなかった時……この人だけが、私を助けてくれたの!! リクさんは、私の命の恩人なんだよ!!」
喉がちぎれんばかりの叫び。その切実な言葉に、母親がヒッ、と息を呑んだ。父親も一瞬たじろいだが、すぐにギリッと歯を食いしばる。
「……いじめが事実だとしてもだ。大人の男が、親に黙って未成年を連れ回していい理由にはならない! 恩人だろうがなんだろうが、やっていることは立派な犯罪だ!」
正論だった。世間のルール、大人の常識からすれば、父親の言うことが百パーセント正しい。
凌空はゆっくりと立ち上がった。そして、スーツの皺を伸ばし、両親に向かって深々と頭を下げた。
「おっしゃる通りです。すべては、私の軽率な行動が招いた結果です。娘さんを騙し、傷つけたこと、深くお詫び申し上げます」
感情を完全に殺した、完璧な「謝罪」。その態度に、友梨佳は顔から血の気を失い、後ずさった。
「リク、さん……? なんで……なんで謝るの? リクさんは何も悪いことしてないじゃない……! 嘘だよね……?」
友梨佳が凌空の袖を掴もうと震える手を伸ばす。だが、凌空はそれを冷たく、虫でも払うように振り払った。
「友梨佳。お父さんの言う通りだ」
凌空は、友梨佳を真っ直ぐに見下ろした。その目には、いつものファミレスで見せていた温かさも、カラオケでいじめっ子を論破した時の頼もしさも、微塵も残っていなかった。あるのはただ、氷のように冷たく凍りついた「絶対的な拒絶」だけ。
「騙して悪かったな。俺はただ、若い女の子と遊んで、保護者面をして自己満足に浸りたかっただけだ」
「……っ」
友梨佳の頭が真っ白になる。心臓が、見えない巨大な手に握り潰されたように痛んだ。
「いじめから助けたのも、ただの気まぐれだ。絶望してるガキに少し金を恵んでやれば、俺をヒーローみたいに崇めてくれる。それがひどく都合が良くて、気分が良かっただけなんだよ」
「うそ……嘘だよね……? だって、リクさん、あんなに優しくしてくれて……ハンバーグ、一緒に食べる約束……」
「大人の優しさなんて、下心と打算の上に成り立ってるものだ。……まあ、でも」
凌空はわざとらしくため息をつき、ひどく面倒くさそうな顔を作った。
「親バレしてまで面倒に巻き込まれる気はないし、そろそろお前のお子様ランチみたいな恋愛ごっこにも飽きてたところだ。ちょうどいい潮時だな」
――パリンッ。友梨佳の中で、何かが完全に砕け散る音がした。
「あ……ぁ……」
声が出なかった。ポロポロと涙がこぼれ落ちる。呼吸の仕方を忘れたように、口をパクパクとさせることしかできない。目の前が真っ暗になり、立っているのがやっとだった。そんな娘の惨状を見た父親が、激昂して立ち上がった。
「貴様ッ!! 娘を散々弄んでおいて、その態度はなんだ!! 今すぐ警察を呼んでやる!! 貴様の会社もクビにしてやるからな!!」
父親がスマートフォンを取り出そうとした瞬間、凌空はスーツの内ポケットから一枚の紙切れを取り出し、テーブルの上に滑らせた。それは、凌空の会社の『名刺』だった。
「警察でも、弁護士でも、どうぞお好きなところへ。私の本名、勤め先、連絡先はすべてそこに記載されています。法的な責任を問われるのであれば、逃げも隠れもいたしません」
凌空は父親の目を真っ直ぐに見据えた。その眼光の鋭さに、父親は一瞬だけ気圧されたように息を呑む。
「ただし」
凌空は声を一段階低くし、静かに、しかし絶対的な圧力を持って告げた。
「もしこれを事件にすれば、娘さんが『いじめを苦にしてマッチングアプリで身体を売ろうとしていた』という事実も、当然ながら警察の調書に残り、学校にも報告されます。同級生に撮られたという下着の写真の件も、公に捜査されることになる」
「……っ!!」
「娘さんの未来に、消えない前科と好奇の目が向けられる。それでも構わないというなら、今すぐ通報してください」
父親の手がピタリと止まった。母親は絶望したように顔を覆って泣き崩れた。親としてのプライドと、世間体。そして何より、娘の未来に「傷」がつくことへの恐怖。凌空は、親のその一番痛い急所を的確に突き、身動きをとれなくしたのだ。
警察を呼べば、男に罰を与えることはできるが、娘の人生も終わる。完璧なまでの、ビジネスライクな悪役の立ち回り。凌空は再び深く一礼すると、テーブルに置かれた伝票を手に取った。
「ご飲食代は、お詫びの印として私が支払っておきます。……二度と、娘さんには近づきません。さようなら」
踵を返し、出口へと向かう。もう、振り返ることは許されない。ここで振り返って彼女の顔を見てしまえば、築き上げた決意が一瞬で崩れ去ってしまう。
「……リクさんっ!!」
背後から、友梨佳の悲痛な叫び声が追いかけてきた。嘘だと言って。行かないで。私を一人にしないで。絞り出すような泣き声が、ナイフのように凌空の背中に突き刺さる。
凌空は歩みを止めなかった。他人に向けられる一番冷たい背中で、彼女を完全に突き放した。ラウンジの重厚な扉をくぐり抜けた後には、泣き叫ぶ友梨佳の声と、すべてが壊れてしまったような絶望の静寂だけが残されていた。
ホテルの自動ドアを抜けると、真夏の茹だるような熱気が凌空の体を包み込んだ。アスファルトからの照り返しが眩しい。スーツの背中は、冷や汗でぐっしょりと濡れて張り付いていた。歩道を歩く人々の喧騒が、まるで水の中にいるようにぼんやりと遠く聞こえた。
凌空は駅前の喫煙スペースに立ち寄り、震える手でタバコを取り出して火をつけた。深く吸い込み、紫煙を空に向かって吐き出す。肺の奥が焼けるように痛い。いや、痛いのは肺じゃない。心臓を直接素手で握り潰されているかのように、胸の奥が激しく痛んだ。
『リクさんは、私の命の恩人なんだよ!!』
あんなに必死に自分を庇ってくれた小さな女の子を、自分は最低な言葉で切り裂き、暗闇に突き落としてきた。大人として彼女を守るための、これがたった一つの正解だった。頭では完璧に理解しているのに、感情が激しく出血しているのが分かる。
「……っ、くそ……」
凌空は顔を歪め、吸いかけのタバコを灰皿に乱暴に押し付けた。十五歳の少女がくれた、まばゆいほどの純粋な好意。疲弊した日常の中で、唯一の救いだった週末のファミレスの光景。そのすべてを自らの手で粉々に破壊し、凌空は再び、色を失った灰色の日常へと一人で歩き出した。
二度と交わることのない、絶対的な断絶。それが、三十二歳の男が十五歳の少女についた、不器用で残酷な「最後の嘘」だった。
【次回 8月5日 10:00 第4.5章:幕間 十五歳の慟哭と決意(友梨佳視点)】




