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マッチング・リスト  作者: suzudeer


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第3章:反撃の狼煙

狭い自室のベッドの上で、友梨佳は一枚ずつ、ゆっくりとお札を数えていた。一、二、三……。手元にあるのは、ファストフード店で初めてもらったアルバイト代が入った茶封筒だ。週末のシフトにたくさん入り、ポテトの匂いが染み付くほど立ちっぱなしで働いて、ようやく手にしたお金。今まで少しずつ返してきた分と合わせれば、あの夜に凌空から渡された五万円にぴたりと届く。


『俺が困るんだ。これ以上、俺のプライベートの時間を削らないでくれ』


お札を見つめていると、不意にあの冷たい声が脳内を再生される。その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。慌てて手の甲で目をこする。泣かないと決めたのに、涙腺は言うことを聞いてくれない。


勉強机の上には、数学の参考書が開いたまま置かれている。余白には、凌空が書き込んでくれた図形と、整った字の計算式。それを見るたびに、ファミレスでの穏やかな時間や、少しだけ触れた大きな手のぬくもりが蘇ってくる。私はただ、もう少しだけ一緒にいたかった。話を聞いてほしかった。でも、それはただの「子ども」のワガママだったのだ。社会で戦っている三十代の大人の男の人にとって、女子高生の相手をするのがどれほどリスクのあることか。自分のことばかりで、彼の立場なんてちっとも想像できていなかった。


「……ばか。私の、ばか」


誰もいない部屋で、小さく呟く。友梨佳はお札を綺麗に揃えると、新しく買ってきた白い封筒に丁寧にしまった。来週の日曜日は、最後の日。もう絶対に泣かない。子どものようにすがったりしない。きちんと感謝を伝えて、笑顔でさよならを言う。それが、彼に助けられた自分がせめて見せられる「大人」としての礼儀なのだと、友梨佳はぎゅっと封筒を胸に抱きしめた。


明かりのついていないワンルームの部屋で、凌空は安い缶ビールをあおっていた。ぬるくなった酒は、舌の奥に嫌な苦味だけを残して胃へと落ちていく。ネクタイを乱暴D引き抜き、ソファに深く体を沈める。窓の外から差し込む街灯の光だけが、薄暗い部屋をぼんやりと照らしていた。


ローテーブルの上に放り投げたスマートフォンが、暗い画面のまま沈黙している。いつもなら、今くらいの時間に『今日のバイト、お客さんが多くて大変でした!』といった、友梨佳からの他愛のないメッセージが届く頃だった。しかし、今日は何の通知も鳴らない。当たり前だ。自分から「もう連絡してくるな」と言い放ったのだから。


『私は、リクさんと一緒にいる時が一番……!』


泣き出しそうに歪んだ彼女の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。凌空は自嘲気味に鼻で笑い、空になったアルミ缶を握りつぶした。ベキッと、乾いた音が部屋に響く。


「私が困る、か。……最低な言い訳だな」


誰に言い聞かせるでもなく呟く。本当は、誰よりも救われていたのは自分の方だった。仕事の重圧や人間関係の摩擦で摩耗していく毎日の中で、彼女と過ごすファミレスでの数十分だけが、唯一息継ぎができる時間になっていた。彼女のまっすぐな瞳を見ていると、自分が少しだけまともな人間になれたような気がしたのだ。


だが、だからこそ切り捨てなければならなかった。あの子は、これから希望に満ちた高校生活を送るべき人間だ。自分のような、未来に何の期待も持っていない薄汚れた大人が、いつまでも関わっていいはずがない。世間の目や倫理観。そんなものは後付けの建前だ。本当はただ、彼女の眩しさに自分が焼かれてしまうのが怖かっただけなのかもしれない。


凌空はテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばし、メッセージアプリを開いた。トーク履歴の一番上にいる『友梨佳』という名前。指先を少しだけ浮かせたまま、じっとその文字を見つめる。あと一週間。来週の日曜日にお金を受け取れば、完全に他人だ。すべてが元の、灰色の日常に戻るだけ。凌空は大きく息を吐き出すと、画面を伏せて目を閉じた。夜の静寂が、どこまでも重く、冷たく彼を包み込んでいていた。


放課後のカラオケボックス。ドスドスと重低音が響く薄暗い部屋で、テーブルの上には散乱したポテトの容器と、飲みかけのメロンソーダが置かれていた。主犯格の沙耶は、選曲用の端末を適当に操作しながら、自分のスマートフォンの画面を見てニヤリと口角を上げた。


「てかさー。友梨佳の件、意外とあっさり五万持ってきたよね」


沙耶が切り出すと、ソファでスマホをいじっていた取り巻きの女子二人が顔を上げる。


「それな。あの様子だと絶対パパ活じゃん。しかも結構チョロくて太い客、捕まえたっぽくない?」

「だよね。泣いて謝るかと思ったら、なんか変に堂々としてたし」


ケラケラと下品な笑い声が交差する。彼女たちにとって、友梨佳へのいじめはもはや「娯楽」であり「都合の良い財布」程度の認識でしかなかった。他人の尊厳を傷つけているという罪悪感など、微塵も存在しない。沙耶はスマホの画面をスクロールさせ、ハイブランドの新作バッグの画像を表示させた。


「私さ、来月のフェスのチケット代も払わなきゃだし、このバッグも欲しいんだよねー」

「あ、私も新作のコスメ欲しい。最近金欠でヤバい」

「じゃあ、追加でお願いしちゃおっか。友梨佳のパパに」


沙耶の目が、爬虫類のように冷たく細められる。取り巻きの一人が、少しだけ首を傾げた。


「でも、着替えの写真は友梨佳の目の前で消しちゃったじゃん。どうやって脅すの?」

「バカだなぁ。あんなの、クラウドにバックアップ取ってあるに決まってるっしょ」


悪びれる様子もなく言い放つ沙耶に、取り巻きたちも「えげっつな!」「さすが沙耶!」と手を叩いて喜んだ。


「でしょ? 次は十万……いや、二十万くらい余裕でいけるっしょ。あのビビリの友梨佳なら、絶対に親や学校には言えないし、泣きながらおじさんに泣きつくって」


沙耶は鼻歌交じりにメッセージアプリを開き、友梨佳のアイコンをタップした。躊躇いなく、フリック入力で文字を打ち込んでいく。


『友梨佳、久しぶり。来月みんなで旅行行くことになったから、カンパよろしく。とりあえず二十万。金曜日までに用意できなかったら、あの写真のバックアップ、裏アカで全部流すから。よろしくね』


送信ボタンを軽やかにタップする。画面には、すぐに『既読』の文字がついた。きっと今頃、画面の向こうで顔面を蒼白にして震えているに違いない。そう想像するだけで、沙耶はたまらなく愉快な気分になった。


「ーあーあ。他人の金で遊ぶのって、最高」


マイクを握り、沙耶は流行りのアイドルソングを上機嫌に歌い始めた。自分たちの底なしの悪意と浅はかな欲望が、友梨佳の背後にいる「本物の大人」の逆鱗に触れることになるとは。この時の彼女たちは、まだ知る由もなかった。


約束の日曜日。駅前のファミレスへ向かう友梨佳の足取りは、鉛のように重かった。真夏の刺すような日差しが照りつけているというのに、体中から冷や汗が滲み出ている。昨夜は一睡もできなかった。まぶたを閉じれば、沙耶たちから送られてきたメッセージの文面と、薄暗いトイレで撮られた自分の下着姿がフラッシュバックして、吐き気に襲われた。


『金曜日までに二十万。用意できなかったら、あの写真のバックアップ、裏アカで全部流すから』


二十万円。高校一年生が、たった数日で用意できる金額ではない。時給千円のアルバイトをどれだけ詰め込んでも不可能だ。親に土下座して借りようかとも考えたが、理由を聞かれれば終わりだ。マッチングアプリで援助交際まがいのことをしようとしたなんて知れたら、厳格な両親は間違いなく卒倒するだろう。


(もう、あれをやるしか、ない……)


カバンの中には、丁寧に糊付けされた白い封筒が入っている。そこには、アルバイトで稼いだ血と汗の結晶である五万円が入っていた。今日、これを凌空に渡す。そして彼には「今までありがとうございました」と笑顔で告げて、きっぱりと別れる。その後で、もう一度あのマッチングアプリをインストールし、今度こそ見知らぬ男のホテルについて行き、身体を売って二十万円を稼ぐ。


それが、友梨佳が数日間悩み抜いて出した、地獄のような結論だった。大好きな人に借りたお金だけは、綺麗な形で返したい。自分がこれ以上汚れてしまう前に。


ファミレスの扉を開けると、冷房の効いた空気と一緒に、ハンバーグの焼ける匂いと喧騒が押し寄せてきた。奥のボックス席。いつもの場所に、凌空はすでに座っていた。休日のラフな格好だが、今天是どこか空気が硬い。彼もまた、「今日で終わりにしよう」と固く決意してここに来ていることが、痛いほど伝わってきた。


「……遅れて、すみません」

「いや、俺も今来たところだ」


向かい合って座ると、二人の間に重苦しい沈黙が落ちた。店内に流れる明るいポップスが、やけに空々しく響く。しばらくして、友梨佳がリクエストした熱々のハンバーグプレートが運ばれてきた。デミグラスソースがジュージューと音を立て、食欲をそそる香りを漂わせている。だが、友梨佳はフォークを握りしめたまま、一口も手をつけようとしなかった。胃がギュッと縮こまっていて、水すら喉を通らない気がした。目の下にはコンシーラーで必死に隠した真っ黒なクマがあり、唇はカサカサに乾いている。


向かいに座る凌空は、コーヒーカップを持ったまま怪訝そうに眉をひそめた。


「どうした。ハンバーグ、好きだっただろ。食欲ないのか」

「あ……いえ。食べます。すごく、美味しそうです」


友梨佳は無理やり口角を上げ、ハンバーグを小さく切り分けて口に運んだ。肉の旨味もソースの味も全くしない。まるで砂を噛んでいるようだった。飲み込むたびに喉が詰まりそうになる。半分ほど無理やり胃に流し込んだところで、友梨佳は限界を感じてフォークを置いた。


「……ごちそうさまでした」

「残していいのか? まだ半分あるぞ」

「はい。ちょっと、お腹いっぱいになっちゃって」


凌空は何も言わず、じっと友梨佳の顔を見つめていた。その視線から逃げるように、友梨佳はカバンに手を伸ばし、白い封筒を取り出した。手が小刻みに震えているのが自分でも分かった。これを渡せば、彼との繋がりは完全に絶たれる。明日からはまた、孤独で真っ暗な世界が待っている。


「リクさん」


震える両手で、封筒をテーブルの上へ押し出す。


「あの夜の五万円、これで全部です。……短い間でしたけど、本当に、本当にありがとうございました。リクさんに助けてもらったこと、一生忘れません」


言い切ると同時に、視界が涙でぐにゃりと歪んだ。泣かないと決めていたのに。笑顔でさよならを言うつもりだったのに。凌空の少し困ったような、でもどこまでも優しい瞳を見た瞬間、張り詰めていた心の糸がプツンと切れてしまったのだ。


凌空はテーブルの上の封筒を一瞥すると、ゆっくりと腕を組んだ。そして、周囲の喧騒を切り裂くような、低く鋭い声で言った。


「……何があった」

「えっ」

「そんな死にそうな顔をして、泣きながら金を返してくる奴がいるか。何か隠してるだろう。言え」


逃げ道を塞ぐような、強い眼差しだった。友梨佳はビクッと肩を跳ねさせ、ギュッと目を閉じた。言えない。言えるわけがない。これから自分がやろうとしている最低なことを、彼にだけは知られたくなかった。


「なにも、ないです……。ただ、もうリクさんに会えなくなるのが、少し寂しいだけで……」

「嘘をつくな」


ピシャリと撥ね付けられた。凌空は身を乗り出し、友梨佳の目から逃げられないように距離を詰める。


「お前は嘘をつくとき、必ずスカートの裾を握りしめる癖がある。今もそうだ。……俺が困ると言ったから、遠慮してるのか? だったら気にするな。最後に一度だけ、大人の特権を使わせてやるから、全部吐き出せ」


その言葉の温かさに、友梨佳の防波堤は完全に決壊した。


「……二十、万」


しゃくり上げる声と一緒に、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「あの写真……バックアップ、取られてて……今週の金曜までに二十万用意しないと、裏のアカウントでネットに全部ばら撒くって……」


「二十万、だと?」


凌空の眉間が険しく歪む。


「もう、無理なんです。バイト代じゃどうにもならないし、親にも言えない……っ。だから今日、リクさんにお金を返して……ちゃんとお別れしたら……」


友梨佳は両手で顔を覆い、絞り出すように告白した。


「本当に、あのアプリで……男の人と会って、体を売って稼ぐしか、ないんです……っ」


その瞬間。バンッ!! と、凄まじい音が店内に響き渡った。凌空の大きな手が、力任せにテーブルを叩いた音だった。グラスの水が跳ね、周囲の客が一斉にこちらを振り返る。店員が驚いて足を止めたが、凌空から発せられる尋常ではない覇気に押され、誰も近づけなかった。


友梨佳はビクッと身をすくませ、肩を震わせた。怒られる。軽蔑される。そう思った。だが、凌空の顔に張り付いていたのは、友梨佳に対する怒りではなかった。十五歳の少女をそこまで追い詰め、尊厳をズタズタに引き裂いた「見えない悪意」に対する、純度百パーセントの殺意だ。


「……ふざけるな」


地を這うような低い声が、凌空の唇から漏れた。


「スマホ、貸せ」

「え……」

「いいから貸しなさい。今すぐだ」


反論を許さない大人の威圧感に気圧され、友梨佳は震える手でスマートフォンを差し出した。凌空は無言で画面を操作し、メッセージアプリを開く。沙耶からの『来月旅行行くから二十万カンパよろしく』という、吐き気がするほど軽い脅迫文を一読し、彼の目は氷のように冷たく、細められた。


「……なるほど。相手はただの同級生だと思って、完全に舐め腐ってるな」


凌空はスマートフォンをテーブルに置くと、深く、重い溜息を吐き出した。そして、テーブルの上の白い封筒を、友梨佳の方へとスーッと押し返した。


「リク、さん……?」

「この金は、まだ受け取れない」


凌空はネクタイを少しだけ緩め、口角を吊り上げた。それは、友梨佳が今まで見たことのない顔だった。面倒で最悪なクレーム処理を前にした、百戦錬磨の営業マンが見せる、獰猛で自信に満ちた笑み。


「俺たちが会うのは、あの夜の五万円を完済するまでだったよな。お前が金を返さない限り、俺たちの関係は終わらない。違うか?」


「それって……」


「この厄介なゴミ掃除、俺が片付けてやる。だからお前は泣くのをやめて、俺の背中だけ見てろ」


ファミレスの空気が、一瞬にして変わった。目の前に座っているのは、休日にコーヒーを飲みながら愚痴をこぼしていた「疲れたおじさん」ではない。数々の修羅場をくぐり抜け、理不尽な要求を論破し、相手の急所を的確に突いてきた三十代の営業部長としての「プロの顔」だった。


「まず、事実確認ヒアリングからだ。友梨佳、落ち着いて俺の質問に答えろ」


凌空はスーツの内ポケットから、使い込まれた黒い革の手帳と万年筆を取り出し、テーブルに広げた。その淀みない動作は、これから始まるのが単なる喧嘩ではなく、ビジネスライクな「事案処理」であることを示していた。


「主犯格の女の名前は?」

「……〇〇、沙耶。です」

「同じクラスの同級生だな。部活は? 学校での立ち位置、スクールカーストはどうなってる? 親の職業も知ってたら教えろ」


矢継ぎ早に飛んでくる質問に、友梨佳は戸惑いながらも記憶を辿る。


「部活は入ってなくて、帰宅部です。クラスでは……一番目立つグループのリーダーで、逆らうと何をされるか分からない感じです。親は……確か、お父さんが地元の銀行に勤めてるって、自慢してました」


「地元の銀行員か。上出来だ」


凌空は万年筆を小気味よく走らせながら、鼻で笑った。


「世間体やコンプライアンスを一番気にする職業だな。娘が『恐喝罪』と『児童ポルノ禁止法違反』で警察沙汰になれば、一発で一家離散コースだ」


「……えっ。こ、恐喝、ですか?」


友梨佳が目を丸くすると、凌空は手帳から目を上げ、真剣な表情で言った。


「いいか、友梨佳。お前が受けているのは『いじめ』なんていう生温いものじゃない。脅迫を用いて金銭を要求する立派な『恐喝罪』だ。未成年だろうが関係ない。犯罪の被害者が、加害者に怯える必要なんて一ミリもないんだよ」


その言葉は、友梨佳の心に重くのしかかっていた罪悪感と恐怖を、スッと軽くしてくれた。自分が悪いからいじめられているのだと思い込んでいた心が、大人の明確な「法」の基準によって肯定されたのだ。


「次に証拠保全だ」


凌空は自分のスマートフォンを取り出し、友梨佳のスマホに表示された脅迫メッセージを、画面ごと何枚も写真に収めていく。


「スクショだけだと、後で『画像を加工して捏造した』と言い逃れされる可能性がある。だからこうして、端末ごとに撮影して時刻と状況の証拠を残すんだ。これはビジネスにおけるリスクヘッジの基本だから、覚えておけ」


友梨佳はただ、瞬きも忘れてその様子を見つめていた。どうしていいか分からず絶望していた巨大な暗闇が、目の前の大人の手によって、みるみるうちに「処理すべきタスク」へと分解され、解決への道筋が可視化されていく。


「リクさん……どうするんですか? この証拠を持って、警察に、行くんですか?」

「いや、今の段階で警察に行ってもダメだ」


凌空は手帳をパタンと閉じ、鋭い目を友梨佳に向けた。


「警察は基本、民事不介入だ。未成年同士のトラブルとなれば、まずは学校と親に差し戻されて有耶無耶にされる可能性が高い。最悪の場合、お前がアプリを使っていたこと自体を盾に取られて、お前が悪者にされるリスクすらある」


「そんな……じゃあ、どうやって……」


「一番効果的なのは、こいつらに『これ以上お前に手を出したら、自分たちの人生が完全に終わる』と、骨の髄まで理解させることだ。逃げ場のない証拠と、圧倒的な力の差を突きつけて、完全に心を折る」


その冷徹な声色に、友梨佳は背筋がゾクッとした。自分を苦しめていた悪魔たちよりも、目の前にいるこの人の方が、何百倍も恐ろしく、そして――頼もしかった。


「友梨佳。今から俺の言う通りに、この沙耶って女にメッセージを送れ」


凌空は友梨佳のスマートフォンを操作し、返信画面を開いて彼女に渡した。


「なんて、送るんですか?」

「『二十万、どうにか用意できた。直接手渡ししたいから、今日の夕方十七時、駅前のカラオケボックスに来てほしい』。そう打て」


「えっ!? で、でも、二十万なんてどこにも……それにカラオケなんて行ったら、また何をされるか……!」

「俺が一緒に行く。いいから打つんだ。甘い餌を撒かないと、調子に乗ったネズミは穴から出てこないだろ?」


凌空の自信に満ちた目を見て、友梨佳は小さく頷いた。震える指で言われた通りの文章を打ち込み、送信ボタンを押す。数分後、ポーン、と軽い通知音が鳴り、沙耶から返信が届いた。


『りょーかい。17時にいつものカラオケね。バックレたらマジで即写真流すから。逃げんなよ』


嬉々として金をむしり取ろうとする、醜悪な欲望が透けて見える文面。それを見た凌空は、満足げに深く頷き、残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干した。


「よし、アポは取れたな」


凌空は立ち上がり、伝票を手に取った。そして、怯える友梨佳を見下ろし、力強く微笑んだ。


「さあ、行くぞ。本物の大人の『喧嘩』のやり方を、お前に見せてやる」


十七時ちょうど。駅前のカラオケボックスの薄暗い廊下には、安っぽい芳香剤とフライドポテトの油の匂いが充満していた。指定された『305号室』の前に立ち、友梨佳はギュッと拳を握りしめた。扉の向こうからは、耳をつんざくようなアップテンポのアイドルソングと、沙耶たちの下品な笑い声が漏れ聞こえてくる。普段なら、この扉を開けるだけで足がすくみ、逃げ出したくなっていたはずだ。


だが、今は違う。友梨佳のすぐ背後には、仕立ての良いスーツを身に纏い、冷たい光を宿した目をした凌空が立っている。彼が軽く顎でしゃくったのを見て、友梨佳は大きく深呼吸をし、思い切って扉のドアノブを引いた。


「あ、来た来た! 遅いよ友梨佳ー」


部屋の中では、ソファにふんぞり返った沙耶がマイクを片手にニヤニヤと笑っていた。取り巻きの二人はテーブルの上のジュースを飲みながら、友梨佳を値踏みするように見ている。


「で? ちゃんと二十万持ってきたよね? もし一円でも足りなかったら、即行で裏アカに——」


沙耶の言葉が、途中でピタリと止まった。友梨佳の背後から、大柄な大人の男が部屋に足を踏み入れたからだ。カラオケボックスの狭い個室に、凌空の存在感はあまりにも異質だった。三十代の洗練された男が放つ、張り詰めたような威圧感。沙耶たちは一瞬何が起きたのか分からず、ポカンと口を開けた。


「……え、誰? おじさん、友梨佳のパパ活の相手?」


沙耶が虚勢を張って鼻で笑う。取り巻きたちも顔を見合わせ、クスクスと笑い声を漏らす。だが、その笑いは数秒後には完全に凍りつくことになる。凌空は無言のまま部屋の奥へと進み、壁の操作パネルの『電源』ボタンを容赦なく叩いた。ブツッ、という鈍い音と共に、部屋を満たしていた爆音が唐突に消え去る。不気味なほどの静寂が落ちた。


「な、何すんの!?」

「座れ」


沙耶の抗議を、凌空は地を這うような低い声で一刀両断した。たった一言。それだけで、室内の空気が氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥る。本物の大人が本気で怒っている時の恐ろしさを肌で感じ取り、女子高生三人は弾かれたようにソファに座り直した。


凌空はテーブルを挟んで彼女たちの正面に立つと、胸ポケットから黒いICレコーダーを取り出し、赤い録音ランプを点灯させてテーブルの真ん中に置いた。


「な、なにそれ……」

「今から行われる会話は、すべて録音させてもらう。これは後日、警察および裁判所に提出する証拠となる」


事務的で、一切の感情を排した冷徹なトーン。沙耶の顔から、さっきまでの余裕が完全に消え失せた。


「け、警察……? は? 意味わかんないんだけど。てかおじさん誰なの!? 勝手に入ってきて警察とか、キモイんだけど!」

「俺の素性など、お前たちには関係ない」


凌空は友梨佳を自分の背後に庇うように立たせ、沙耶を真っ直ぐに見下ろした。


「確認する。〇〇沙耶。お前は望月友梨佳に対し、着替え中の写真をインターネット上に公開すると脅迫し、現金二十万円を要求した。間違いないな?」


「……っ」


沙耶は唇を噛み、視線を泳がせた。言いがかりだ、と叫んで逃げ出したかったが、目の前の男の瞳がそれを許さなかった。蛇に睨まれた蛙のように、喉の奥がヒュッと鳴る。


「黙秘するならそれでも構わない。お前が友梨佳に送ったメッセージの履歴は、すでに複数の端末に保存し、証拠として保全済みだ。言い逃れはできない」


凌空は黒い革の手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。


「要求額、二十万円。これは立派な『恐喝罪』だ。さらに、着替えの写真を撮影・所持し、それを武器に脅す行為は『児童ポルノ禁止法違反』および『強要罪』に抵触する。未成年だからといって、少年法に守られて無罪放免になると思ったら大間違いだぞ」


「……う、嘘でしょ……ただの冗談じゃん……」


取り巻きの一人が、顔面を蒼白にして震え声で呟いた。凌空はその言葉を逃さなかった。


「冗談? 他人の尊厳を踏みにじり、自殺を考えるほど追い詰めておいて、冗談で済むと思っているのか?」


ダンッ!! 凌空の手がテーブルを叩き、三人の肩がビクッと跳ね上がる。取り巻きの一人はすでに半泣きになっていた。


「お前たちがやっていることは、人生を破壊する『犯罪』だ。俺は今日、この足で警察署の生活安全課に向かい、被害届とすべての証拠を提出する。同時に、お前たちの学校の校長と教育委員会宛に内容証明郵便を送り、事の顛末をすべて報告する」


淡々と、しかし確実に外堀を埋めていく言葉の刃。


「学校にはいられなくなるだろうな。退学処分は免れない。当然、親にも知られる」


凌空は手帳のメモに目を落とし、沙耶に向かって残酷なまでに静かに告げた。


「お前の父親は、地元の銀行員だったな。コンプライアンスに厳しい金融業界で、娘が『恐喝と児童ポルノの加害者』として警察の捜査を受けたと知れ渡ったら、どうなると思う? 閑職に追いやられるか、最悪の場合は自主退職だ。お前はたった二十万の小遣い欲しさに、父親のキャリアと家族の人生を丸ごとドブに捨てたんだよ」


「……っ! 嫌だ、やめて……!!」


沙耶はついに悲鳴のような声を上げ、テーブルに突っ伏して泣き崩れた。完璧な論破と、逃げ場のない現実の突きつけ。自分たちの浅はかな悪意が、大人の社会のルールによってどれほど致命的な結果をもたらすのか。それを骨の髄まで理解させられ、彼女たちの心は完全に折れていた。


「やめて、ください……ごめんなさい、私たちが悪かったです……! お願いだから、警察だけは……親にだけは言わないで……!」


取り巻きの二人もソファから崩れ落ち、ボロボロと涙を流しながら凌空に懇願する。凌空は冷ややかな目で彼女たちを見下ろし、しばらくの間、沈黙による圧力をかけ続けた。十分に恐怖を植え付けたことを確認すると、ふっと息を吐き出す。


「……今すぐ、スマホを出せ」

「は、はいっ!」


三人は慌ててスマートフォンをテーブルの上に置いた。


「クラウドのバックアップ、裏アカウントのフォルダ、すべて俺の目の前で開け。友梨佳に関するデータは、一枚残らず完全に削除しろ」


彼女たちは震える指で画面を操作し、泣きながらデータを消去していく。凌空はそれを背後から厳しい目で確認し、すべてのゴミ箱が空になったことを見届けた。


「顔を上げろ」


凌空の声に、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった三人が顔を上げる。


「被害届の提出と学校への報告は、今のところは『保留』にしておく」


その言葉に、三人の顔に安堵の色が浮かんだが、凌空の次の言葉がそれを打ち砕いた。


「だが、これで終わりだと思うな。もし今後、学校で友梨佳に話しかけたり、嫌がらせをしたり、あるいは不自然に無視をして周囲を扇動するような真似を少しでも見せたら……その日のうちに、俺はお前たちの人生を完全に終わらせる」


凌空は一歩前に出ると、凄みのある低い声で言い放った。


「俺は友梨佳の保護者だ。彼女に手を出せば、俺が相手になる。分かったな?」


「……はいっ! はい、もう絶対にしません……!!」


三人は何度も何度も頭を下げた。もはや彼女たちの中に、友梨佳を見下すような感情は一ミリも残っていない。ただひたすらに、目の前の大人に対する圧倒的な恐怖だけが刻み込まれていた。


「行くぞ、友梨佳」


凌空はICレコーダーをポケットにしまうと、振り返って友梨佳に声をかけた。友梨佳は呆然と立ち尽くしていた。自分をあれほど苦しめていた悪魔たちが、子どものように泣きじゃくり、惨めに頭を下げている。その信じられない光景の中心で、自分を守るように立ってくれた大きな背中。


「……はいっ」


友梨佳は大きく頷き、凌空の後-を追ってカラオケボックスの部屋を出た。


外に出ると、夏の夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。カラオケボックスから駅へ向かう道のり。二人の間には、ファミレスでの重苦しい空気はすっかり消え去り、心地よい静寂が流れていた。


「リクさん……すごかったです」


隣を歩く友梨佳が、弾むような声で言った。頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。


「本当に、魔法使いみたいでした。沙耶たち、腰抜かして泣いてて……私、あんなの初めて見ました」

「魔法じゃない。ただの社会のルールを突きつけたただけだ」


凌空は苦笑いしながらネクタイを緩めた。肩の力が抜け、いつもの「疲れたおじさん」の顔に戻っている。


「でも、怖かっただろ。俺、結構ひどいこと言ったし」

「ううん、全然! すっごくかっこよかったです!」


満面の笑みを向けてくる友梨佳を見て、凌空は思わず目を逸らし、照れ隠しのように頭を掻いた。


「ま、とりあえずこれで一件落着だな。あいつらも二度とお前にちょっかいは出さないだろう」


その言葉を聞いて、友梨佳はふと立ち止まった。そして、自分のカバンの中から、あの白い封筒を取り出した。


「リクさん。これ……」


五万円が入った封筒。これを受け取ってしまえば、二人の関係は本当に「終わる」約束だった。凌空は封筒を見つめ、小さく息を吐いた。大人の理屈で言えば、ここで金を受け取り、今度こそ綺麗に別れるのが正解だ。


しかし、凌空はポケットに両手を突っ込んだまま、困ったように笑って言った。


「……今日の『交渉代理人』としての報酬は、高くつくぞ」

「えっ?」

「命の危険を伴うクレーム処理と、法的な交渉。営業部長の俺を休日に動かしたんだからな。五万円じゃ、到底割に合わない」


凌空は意地悪く目を細める。


「そういうわけだから、その五万円はお前の手元に置いておけ。当分は、出世払いということで借金は継続だ」

「それって……」


友梨佳の目が、パッと見開かれた。それはつまり。お金を返し終わっていないのだから、これからも会う理由があるということだ。


「リクさん……っ!」


友梨佳は封筒を胸にギュッと抱きしめ、今日一番の、花が咲くような笑顔を見せた。夕日に照らされたその無邪気な笑顔に、凌空はまた一つ、自分が越えてはいけない一線を自ら踏み越えてしまったことを自覚する。だが、不思議と後悔はなかった。


こうして、いじめの呪縛から解放された友梨佳と、彼女を守ることを選んだ凌空。二人の不器用な関係は、新たな局面を迎えようとしていた。



【次回 8月4日 10:00 第4章:発覚と断絶】

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