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マッチング・リスト  作者: suzudeer


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第2章:不器用な距離の縮まり

月曜日の朝。学校の古びた渡り廊下で、友梨佳は目の前に立つ女子生徒を真っ直ぐに睨みつけていた。


「へえ、本当に五万円持ってきたんだ」


主犯格の沙耶が、友梨佳から受け取った茶封筒の中身を指で弾く。厚みのあるお札の感触を確かめ、彼女は下品に口角を上げた。


「やるじゃん、友梨佳。アプリでいいパパ見つけたんだね。どんなおじさんだった? キモかった?」


周囲を取り囲む取り巻きの女子たちが、クスクスと意地悪な笑い声を漏らす。以前の友梨佳なら、ここで泣き出しそうになって俯いていたはずだ。だが、今日ばかりは違った。制服のポケットの中で両手を固く握りしめ、沙耶の目を正面から見据える。


「約束通り、お金は渡した。だから、あの写真は今すぐ目の前で消して」


毅然とした態度に、沙耶は一瞬だけ鼻白んだような顔をした。それでもすぐに余裕の笑みを作り、スマートフォンの画面を操作して見せる。


「はいはい、分かってるって。ほら、これでデータ削除。裏サイトにも上げてないから安心してよ」


ゴミ箱のアイコンに写真が吸い込まれていくのを確認し、友梨佳は小さく息を吐き出した。これでひとまず、最悪の事態は免れた。沙耶たちは「また金が足りなくなったらよろしくね」と軽い口調で言い捨て、笑いながら教室の方へと消えていく。


一人残された渡り廊下で、友梨佳は壁に背中を預けてズルズルとしゃがみ込んだ。心臓がバクバクと音を立てている。怖かった。本当は足が震えて仕方がなかった。でも、頭の中にはずっと、あの夜に出会った大人の姿が浮かんでいたのだ。


『大人が子供を助けるのに、理由も見返りも要らないんだよ』


ポンと頭に乗せられた、大きくて温かい手のひらの感触。あの見ず知らずの人が、五万円という大金と一緒に自分に勇기를くれた。もし彼に出会っていなければ、今頃どうなっていたか分からない。


友梨佳は制服のスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、金曜日からずっと消せずにいるマッチングアプリのトーク画面が映っている。相手の名前は『リク』。手切れ金だと思って持って帰れ。彼は確かにそう言った。二度と関わるなという優しさだということも理解している。それでも、このまま何事もなかったかのように終わらせることなんて、友梨佳にはできなかった。


深呼吸を一つして、震える指でフリック入力を始める。


『望月友梨佳です。金曜日は本当にありがとうございました。今日、無事に解決しました。助けていただいた五万円は、絶対に返します。いつか必ず恩返しさせてください』


送信ボタンをタップする。既読はつかない。ブロックされているかもしれないし、アプリごと消されているかもしれない。でも、自分の気持ちに嘘はつけなかった。


同じ頃、都内にある広告代理店のオフィス。営業部長の小林凌空は、デスクのパソコンモニターと睨めっこしながら盛大にため息をついていた。週明けの月曜日は、ただでさえ業務が山積みだ。


凌空は理不尽なクライアントに頭を下げて愛想笑いを浮かべ、部下のミスをかばい、上層部から突きつけられる無茶なノルマにただ黙って頷く。数字と建前だけで回っている、泥臭くて息の詰まる妥協の連続。それが自分の生きている世界だ。


だが、この子の世界は違う。無限の可能性があって、感情が豊かで、何より――若すぎる。


そんな中、デスクの上に放り出していた私用のスマートフォンが短く振動した。画面に目を向けると、マッチングアプリからの通知だった。週末に出来心で登録したものの、結局あの夜のバタバタですっかり放置していた代物だ。退会手続きを忘れていたことに気づき、画面を開く。


表示されたメッセージの送り主を見て、凌空は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。


『望月友梨佳です。金曜日は本当にありがとうございました――』


文章の書き出しからして、完全に「アプリの使い方」を間違えている。本名を名乗る女子高生がどこにいる。しかもご丁寧に『助けていただいた五万円は絶対に返します』とまで書かれている。


「……バカだな、本当に」


無意識のうちに、凌空の口元が緩んでいた。あんな風に脅されて無理やり夜の街に立たされていたというのに、この子はどこまでも真っ直ぐで、馬鹿正直だ。このまま無視してアプリを消すのが、大人としての正しい対応だろう。それなのに、あの夜、泣きじゃくりながらココアを飲んでいた小さな背中が脳裏をよぎる。


凌空はキーボードから手を離し、スマートフォンを手に取った。文字を打ち込みながら、自分が何をしているのかと呆れる気持ちもあった。それでも、放っておくには彼女はあまりにも危なっかしすぎたのだ。


『無事に済んだなら良かった。お金のことは気にしなくていいから、もうこんなアプリは早く消して、ちゃんと学校に行きなさい』


送信ボタンを押すと、ほんの数秒で『既読』の文字がついた。返信は早かった。


『アプリは消します。でも、お金は絶対に返します。リクさんに押し付けられたものなので、私がどう返そうと勝手なはずです!』


その強気な文面に、凌空は声を上げて笑いそうになった。泣き虫だったくせに、変なところで頑固らしい。


『分かった。じゃあ、出世払いということで。俺は仕事に戻る』


そう返信し、凌空はすぐにスマートフォンの電源を伏せた。これ以上付き合ってはいけない。相手は十五歳の女子高生なのだから。だが、殺伐とした月曜日のオフィスの中で、不思議と気分だけは悪くなかった。


カチャン、と。ファミレスのプラスチックのテーブルに、千円札が一枚、綺麗に折りたたまれて置かれた。


「今週の分です。これで合計、三千円お返ししましたからね」


胸を張ってそう宣言する友梨佳に、凌空は呆れ顔で頭を掻いた。休日の昼下がり。近所のファミリーレストランの端の席で、二人は向かい合って座っていた。


「あのなあ。出世払いでいいって言ったろ。高校生が少ないお小遣いを切り詰めてどうするんだよ」

「出世払いなんて、いつになるか分からないじゃないですか。それに私、先週からファストフード店でバイト始めたんです。だからちゃんと返せます」


むすっと頬を膨らませる友梨佳は、あの新宿の夜とは別人のようだった。けばけばしいメイクは一切なく、すっぴんに近い自然な顔立ち。服装も、大きめの白いパーカーにデニムという、年相応のカジュアルなものだ。これが十五歳の本来の姿なのだと、凌空は少しだけホッとする。


あの日から数週間。アプリを消すと言ったはずの友梨佳は、「お金を返すため」という強固な理由を盾に、凌空の連絡先を掴んで離さなかった。最初は適当にあしらっていた凌空も、彼女のあまりのしつこさと、「危なっかしくて放っておけない」という謎の保護者根性から、休日の昼間にこうして数十分だけ会うことを許してしまっていた。


凌空はテーブルの上の千円札を指先で引き寄せると、自分の財布にはしまわず、テーブルの端の呼び出しボタンを押した。


「あ、すみません。このいちごパフェと、フライドポテトを追加で」

「かしこまりました!」


店員が去った後、友梨佳が目を丸くして凌空を見た。


「リクさん、そんなに食べるんですか?」

「いや? お前が食べるんだよ。ちょうど三千円くらいだろ」

「えっ、でもそれじゃ、私が返したお金が全部チャラに……」

「育ち盛りは黙って食え。バイトもいいけど、勉強はおろそかにするなよ」


凌空がわざとらしく説教じみたトーンで言うと、友梨佳は悔しそうに唇を噛んだ。いつもこうなのだ。友梨佳が少しずつお金を返しても、凌空は結局それ以上の食事やデザートをご馳走してしまう。大人として、女子高生からお金を巻き上げるような真似ができるわけがない。


「……リクさんって、本当にずるい大人ですね」

「営業マンだからな。駆け引きは得意なんだよ」


意地悪く笑う凌空を見て、友梨佳は小さくため息をつきながらも、どこか嬉しそうにポテトに手を伸ばした。


休日の凌空は、スーツ姿の時とは随分印象が違う。黒のラフなカットソーに、少し無精髭も残っている。平日を戦い抜いた営業部長の顔ではなく、ただの「疲れた三十代の男」の顔だ。でも、友梨佳にとっては、その飾らない姿がとても心地よかった。


「仕事、大変ですか?」


ふと、友梨佳が尋ねる。凌空はドリンクバーのブラックコーヒーを飲み込みながら、天井を仰いだ。


「まあな。部下は優秀なんだけど、スケジュール管理とかコンペの準備とか、上と下板挟みで胃が痛い毎日だよ。平日はほとんど寝に帰るだけだな」

「へえ……。リクさんでも、胃が痛くなったりするんですね」

「俺をなんだと思ってるんだ。普通の人間だよ」


呆れたように笑う凌空の目元には、確かに深いクマが刻まれている。友梨佳はストローを咥えながら、目の前の大人をじっと見つめた。


(私を助けてくれた時は、魔法使いかスーパーヒーローみたいに見えたけど)


こうして話してみると、凌空は不器用で、仕事に疲れていて、コーヒーばかり飲んでいる普通の男の人だ。でも、友梨佳の話を遮らずに最後まで聞いてくれるし、絶対に子供扱いして適当に誤魔化したりしない。対等な一人の人間として向き合ってくれる。沙耶たちにいじめられ、両親にも相談できず、孤独だった友梨佳にとって、凌空と過ごすこのファミレスの時間は、いつの間にか一週間で一番楽しみな「オアシス」になっていた。


「あ、そうだ。リクさん、ここ教えてくれませんか」


友梨佳は持参していたリュックから、高校の数学の参考書を取り出してテーブルに広げた。パフェを食べる手を止め、凌空にノートを押し付ける。


「数Aの確率。ここ、何度解いても答えが合わなくて」

「おいおい、俺を無料の家庭教師に使う気か?」

「いいじゃないですか。お礼に、ポテト一本あげますから」

「安すぎるだろ」


文句を言いながらも、凌空は参考書を引き寄せ、シャープペンシルを手に取った。流れるような手つきで余白に図形を書き込み、分かりやすく解き方を説明していく。その横顔は真剣で、低い声が耳に心地よく響く。


友梨佳はノートを見るふりをしながら、チラチラと凌空の顔を盗み見ていた。長いまつ毛。少し筋張った大きな手。ふと視線がぶつかると、友梨佳は慌てて参考書に目を落とし、心臓がトクトクと跳ねるのを必死に隠した。


「……分かったか?」

「あ、はい! ばっちりです!」


見とれていたなんて絶対に言えない。友梨佳が真っ赤な顔で頷くと、凌空は不思議そうに首を傾げた。


年齢差、十七歳。三十代の大人と、十代の子供。絶対に交わるはずのなかった二人の世界は、週末のファミレスのテーブル越しに、少しずつ、けれど確実に溶け合い始めていた。


ファミレスを出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。駅へと向かう大通り。歩道に伸びる二つの影は、大人と子供という残酷なほどの体格差を如実に表している。


「リクさん、来週の日曜日も空いてますか?」


隣を歩く友梨佳が、弾むような声で顔を覗き込んでくる。夕日に照らされたその横顔は、初めて会った夜の痛々しい姿とは打って変わって、年相応の無邪気な輝きに満ちていた。


「来週はバイトの初任給が出るんです。だから、今度こそ私がお昼ご飯をご馳走しますからね」


得意げに笑う彼女を見て、凌空の胸の奥で何かが小さく跳ねる。無防備な笑顔。自分に向けられる、一切の打算がない純粋な好意。それは、数字とノルマに追われる凌空の日常には絶対に存在しないものだった。


(大人の世界は、ひどく乾いてるからな)


凌空は目を細め、自分の職場を思い浮かべる。理不尽なクライアントに頭を下げて愛想笑いを浮かべて、部下のミスをかばい、上層部から突きつけられる無茶なノルマにただ黙って頷く。数字と建前だけで回っている、泥臭くて息の詰まる妥協の連続。それが自分の生きている世界だ。


だが、この子の世界は違う。無限の可能性があって、感情が豊かで、何より――若すぎる。


三十二歳と、十五歳。その年齢差、十七年。自分が高校生の時、彼女はまだ生まれてすらいない。そんな残酷な事実が、凌空の頭に冷水を浴びせかける。


(俺は、一体何をやっているんだ)


ただの気まぐれだった。危なっかしい子供を放っておけなかっただけだ。しかし、毎週末こうして彼女の笑顔を見るたびに、自分の心のどこかが癒やされ、彼女との時間を心待ちにしてしまっている自分がいる。これ以上踏み込めば、どうなるか。社会的な立場。世間の目。そして何より、彼女の未来を台無しにしてしまう。


「……友梨佳」


駅の改札が見えてきたところで、凌空は足を止めた。


「はい? どうしました?」


振り返る友梨佳の澄んだ瞳を、凌空は真っ直ぐに見据える。その純粋さを傷つけるのは気が引けたが、大人として、ここで明確な線を引かなければならない。


「来週の日曜日、だな。分かった、付き合うよ」

「本当ですか! やった、じゃあハンバーグが美味しいお店を――」

「でも、それが最後だ」


友梨佳の言葉が、ピタリと止まる。笑顔のまま固まった彼女に向かって、凌空は冷酷なまでに淡々と言葉を紡ぐ。


「来週で、あの夜貸した五万円の返済は終わる計算だ。だから、俺たちが会う理由もそこでなくなる」


「えっ」


友梨佳の大きな瞳が、みるみるうちに揺れ動く。


「ま、待ってください。お金を返し終わったら、もう会えないんですか? 私、もっとリクさんと……」

「俺は三十二歳で、お前は十五歳だ。未成年の女子高生と休日に二人で出歩くなんて、世間から見れば立派な事案なんだよ」


わざと突き放すような言い方をした。友梨佳の顔からすっと血の気が引き、泣き出しそうに唇が震え始める。その顔を見るのは胸が痛んだが、凌空はあえて冷たい表情を崩さなかった。


「お前には、学校の友達や、同じ年頃の奴らと過ごす時間の方がずっと大事だ。俺みたいな疲れたおっさんの相手をしてる暇はない」

「そんなことないっ! 私は、リクさんと一緒にいる時が一番……!」

「俺が困るんだ」


低い声で遮ると、友梨佳はビクッと肩を跳ねさせた。


「これ以上、俺のプライベートの時間を削らないでくれ」


嘘だった。彼女と過ごす時間は、削られているどころか、今の凌空にとって唯一の救いになっていた。だが、それを悟られるわけにはいかない。倫理という見えない壁が、二人の間に高くそびえ立っている。


友梨佳は俯き、ギュッと両手を握りしめた。ぽつり、ぽつりと、アスファルトに小さなシミができていく。泣いているのだ。


「……わかり、ました」


消え入りそうな声だった。友梨佳は袖口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げて無理やり笑顔を作った。


「来週……今までのお金、全部まとめて返します。それで、終わりにします。今まで、ありがとうございました」


それだけ言い残し、友梨佳は逃げるように改札へと駆け出していった。小さな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、凌空はその場から一歩も動けなかった。


ポケットの中で拳を強く握りしめる。手のひらに爪が食い込む痛みが、現実の厳しさを教えてくれているようだった。


「……これでいいんだよ、バカ野郎」


誰にともなく吐き捨てた言葉は、喧騒の中に虚しく溶けて消えた。



【次回 8月3日 10:00 第3章:反撃の狼煙】


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