第1章:最悪の出会いと、思いがけない救い
第1章:最悪の出会いと、思いがけない救い
金曜日の午後八時。新宿駅東口は、週末の解放感を求める人々の熱気でむせ返るようだった。ネオンサインの原色が濡れたアスファルトに反射し、行き交う人々の顔を毒々しく照らし出している。
小林凌空は、駅前の喫煙スペースで深く紫煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。三十二歳。中堅広告代理店の営業部長という肩書きは、同年代の中では出世頭と言っていい。オーダーメイドのネイビーのスーツは彼の引き締まった体躯によく似合っていたが、その目元には隠しきれない疲労が濃く滲んでいた。
「……今週も、終わったな」
独り言は、喧騒の中に虚しく溶けて消えた。部下のミスによるクライアントへの謝罪行脚、上層部からの理不尽なノルマの押し付け。擦り減るような一週間を終え、まっすぐ暗いマンションの部屋に帰る気には到底なれなかった。
無意識のうちに、スマートフォンの画面をタップしていた。画面に表示されたのは、数週間前に出来心で登録したマッチングアプリだ。普段なら見向きもしないような代物だが、今の凌空には、何のしがらみもない、ただの「他人」と適当な酒を飲み、空虚な時間を埋めたいという欲求があった。
『ユリ・20歳・女子大生。今日は新宿で飲みたいです』
数時間前にマッチングした相手だ。アイコンの写真は口元を隠した自撮りで、少し派手な印象を受ける。メッセージのやり取りはひどく事務的で、淡々としていた。それがかえって都合が良かった。
(どうせ、適当に飯でも奢って終わりだろう)
凌空はタバコを灰皿に押し付けると、待ち合わせ場所に指定したアルタ前へと重い足を引きずった。
同じ頃、アルタ前の巨大なビジョンの下で、望月友梨佳は自身の身体が小刻みに震えているのをどうすることもできずにいた。七月の蒸し暑い夜だというのに、指先は氷のように冷たい。
(逃げたい。今すぐ、ここから逃げ出したい)
心の中で何度も叫んだが、足はコンクリートに縫い付けられたように動かなかった。逃げればどうなるか、痛いほど分かったからだ。
『いい、友梨佳? あんたが今日、このアプリで親父引っ掛けて五万稼いできたら、今までのこと全部チャラにしてあげる。でも逃げたら……あんたの着替え中の写真、学校の裏掲示板に全部ばら撒くから』
今日の夕方、学校の薄暗いトイレの個室で、同級生の沙耶たちから投げつけられた言葉が耳の奥で反響している。彼女たちの冷たい笑い声と、スマートフォンのシャッター音。思い出すだけで吐き気がした。
友梨佳はまだ十五歳、高校一年生だ。しかし今の彼女は、沙耶たちから無理やり着せられた露出の多い黒のタイトスカートに、胸元が大きく開いたブラウスを身に纏っていた。トイレの鏡の前で強引に塗られた真っ赤なリップと濃いアイシャドウが、肌の不自然な白さを際立たせている。どう見ても「背伸びをした子供」だったが、夜の新宿のネオンの中では、いかがわしい雰囲気に誤魔化されてしまう気がした。
アプリの年齢は「二十歳」と偽っている。相手の名前は「リク」。「三十代のサラリーマン」とプロフィールにはあった。
これから見知らぬ成人男性と会い、ホテルへ行き、身体を差し出して五万円を貰う。その事実が、友梨佳の頭の中を黒いタールのように塗りつぶしていく。怖い。気持ち悪い。お父さん、お母さん、ごめんなさい。
「……ユリ、ちゃん?」
不意に、頭上から落ち着いた低い声が降ってきた。
ビクリと肩を跳ねさせ、友梨佳は恐る恐る顔を上げた。
そこに立っていたのは、想像していたような小太りで下卑た笑いを浮かべる「中年」ではなかった。
パリッとしたスーツを着こなし、髪を清潔に整えた、どこか疲れたような涼しい目元を持つ男。身長は友梨佳より頭一つ分以上高く、大人の男特有の、タバコと微かな香水の匂いがした。
「あ……はい。ユリ、です」
声が震えないように必死に喉に力を込めたが、かすれたような音しか出なかった。
凌空は、目の前に立つ小柄な少女をじっと見下ろした。アプリの写真よりもずっと幼く見える。いや、幼いというレベルではない。不自然なほど濃いメイクの下に隠された輪郭や、怯えた子犬のように揺れる瞳。
(……おいおい。これ、本当に二十歳か?)
凌空の心の中に、強烈な違和感と警報が鳴り響いた。営業マンとして何百人もの人間を観察してきた凌空の目は、誤魔化せなかった。彼女が無理をして大人のふりをしていること。そして、尋常ではないほどの「恐怖」を抱えていること。
「リク、です。……とりあえず、ここで立ち話もなんだし、移動しようか」
「……はい」
友梨佳は俯き加減で頷いた。その細い首筋が、街灯の光を浴びて痛々しいほど白く透けて見えた。
凌空はため息を飲み込み、ゆっくりと歩き出した。友梨佳は処刑台へと向かう罪人のように、重い足取りでその広い背中の後をついていった。
新宿の街は、週末を楽しもうとする人たちで溢れかえっている。あちこちから飛び交う笑い声や、居酒屋の客引きの声。そんな賑やかな雑踏の中を、凌空と友梨佳は一定の距離を保ちながら歩き続ける。
凌空が前を歩きながら時折後ろを振り返ると、彼女はずっと俯いたままで、小刻みに肩を震わせているのがわかる。慣れない高めのヒールを履いているせいで、歩き方もどこかぎこちない。何度も足首をひねりそうになりながら、必死にバランスを取る姿が痛々しい。
(どう見ても、二十歳じゃないよな……)
心の中で大きなため息をつく。
無理して大人の真似をしている女子高生、いや、下手したら中学生かもしれない。そんな幼い女の子が、背伸びした真っ赤な口紅を塗り、こんな夜の街を怯えながら歩いているのだ。
複雑な事情を抱えていることは火を見るより明らかである。
ただの遊び目的や、お小遣い稼ぎで来ている子の態度ではない。まるで、無理やり引き立てられていく生贄のような、悲痛な空気をまとっている。
「……あのさ、歩くの早かったかな。大丈夫?」
少し立ち止まって声をかける。
すると、彼女はビクッと肩を跳ねさせて顔を上げた。
「あ、いえ……! 大丈夫、です。ごめんなさい」
消え入りそうな声で謝る彼女の目は、うっすらと涙ぐんでいるように見える。
その表情に、凌空は胸の奥がチクッと痛むのを感じる。仕事柄、人の嘘や取り繕った態度は嫌というほど見てきた。だからこそ、彼女の抱えている「恐怖」が本物だと見抜けてしまうのだ。
二人が向かっているのは、歌舞伎町の奥にあるホテル街。
ギラギラとしたネオンサインが増え、すれ違う人たちの雰囲気も少しずつ変わっていく。腕を組んで歩くカップルや、派手な格好をした男女が目立ち始めていく。
一方、友梨佳の心臓は、今にも破裂しそうくらい早鐘を打っている。
目の前を歩く広い背中が、どんどん遠くの恐ろしい世界へ自分を連れ去っていくような気がしてならない。
(どうしよう……。このままホテルに入ったら、もうおしまいだ)
頭の中に、沙耶たちの冷たい笑い声が響き渡る。
『逃げたら、あんたの写真ばら撒くからね』
その言葉が呪いのように友梨佳の足を動かす。逃げたい。でも、逃げられない。家族に迷惑はかけられないし、学校での居場所が完全になくなるのも怖い。
色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、視界がじんわりと涙で滲んでいく。
ふと顔を上げると、目の前には派手なお城のような建物のネオン。まぎれもなくラブホテルである。
その瞬間、友梨佳の足はピタリと止まる。まるで地面に縫い付けられたみたいに、一歩も前へ進めない。呼吸が浅くなり、過呼吸のようにハアハアと肩が上下する。
「……どうした?」
凌空が足を止め、振り返る。友梨佳はギュッと目を閉じ、震える両手で自分のスカートの裾を強く握りしめて立ち尽くしている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ポロポロと、大粒の涙が彼女の頬を伝い落ちる。厚く塗られたファンデーションに、涙の跡が痛々しく残っていく。
凌空はしばらく黙ってその様子を見つめる。そして静かに近づき、彼女の細い手首をポンと軽く叩く。
「こっちだ」
「え……?」
友梨佳が驚いて目を開けると、凌空はすでにホテル街とは逆の方向へ歩き出している。
「リ、リクさん……? あの、ホテルは……」
「いいから、おいで」
凌空の声には、さっきよりも少しだけ優しい、それでいて逆らえないような大人の落ち着きが宿る。友梨佳は戸惑いながらも、慌てて彼の後を追いかける。
数分後。凌空が友梨佳を連れて入ったのは、駅前にある落ち着いた雰囲気の老舗喫茶店。ホテルのような薄暗さや怪しさは一切なく、温かみのあるオレンジ色の照明の下でクラシック音楽が静かに流れる空間だ。他のお客さんも少なく、ボックス席なら周りの目を気にせずに済む。
一番奥の席に友梨佳を座らせ、自分も向かい側に腰を下ろす。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
制服をピシッと着たウェイトレスがやってくる。凌空はメニューも見ずに答える。
「ブレンドコーヒーを一つ。それから……」
チラリと友梨佳へ視線を向ける。彼女はまだ緊張でガチガチに固まったままだ。
「ホットココアを一つ。クリーム多めでお願いします」
「かしこまりました」
ウェイトレスが去り、テーブルには二人きりの静かな時間が訪れる。
明るい照明の下で改めて彼女を見ると、凌空の予想は確信へと変わっていく。けばけばしいメイクの下に見え隠れする素肌は、まだニキビの跡も残るような、十代半ばの少女のものにほかならない。
凌空はネクタイを少しだけ緩め、深く息を吐く。そして、なるべく威圧感を与えないよう、ゆっくりと口を開く。
「さて……。君、本当はいくつ? 二十歳じゃないよね」
その言葉に、友梨佳はビクッと肩を震わせ、顔を真っ青にして俯いてしまう。
「怒らないから。正直に話してごらん」
凌空のその声は、今日一日、仕事で使っていたような「営業部長」のものではない。迷子になって泣いている子供に語りかけるような、不器用ながらもどこまでも優しい大人の声色をしている。
バレてる。最初から、全部。
目の前の大人は、自分の拙い嘘なんてとっくにお見通しだったのだ。友梨佳はギュッと膝の上のスカートを握りしめ、ガクガクと震える唇を必死に噛み締めた。
「……怒らないから。なんでこういう真似してるのか、教えてくれないか」
凌空の低い、けれど酷く穏やかな声が降ってくる。テーブルには甘い香りを漂わせるホットココアが置かれたけれど、それに手を伸ばす余裕なんて、今の友梨佳にあるはずがなかった。
「……じゅう、ご。です」
消え入りそうな声だった。でも、凌空の耳にはハッキリと届いていた。
「15……? ってことは、中学生か?」
「高校、一年生……ですっ」
――マジかよ。
凌空は内心、盛大に頭を抱えた。犯罪スレスレどころか、ド直球のアウトじゃないか。もしあのまま気づかずにホテルに行っていたらと思うと、背筋を冷たい汗が伝っていく。いや、それよりも。
「高校一年生の女の子が、なんで夜の新宿でパパ活まがいなことやってる。親が知ったら泣くぞ」
「……っ、ちが、違うんです!」
親、という言葉が出た瞬間。友梨佳の目から、堰を切ったように大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「私だって……こんなこと、したくない……っ。でも、やらないと、沙耶ちゃんたちが……!」
「沙耶ちゃんたち?」
「クラスの……グループで。私、逆らえなくて……今日、アプリで男の人と会って……っ、ご、五万円……稼いでこないと、着替えてる時の写真を、学校の裏サイトにばら撒くって……!!」
ヒック、ヒックとしゃくり上げながら、友梨佳はすべてを吐き出した。いじめられていること。無理やりこの服を着せられ、化粧をされたこと。もし逃げたら、学校中の晒し者にされること。
全部、全部話してしまった。初対面のおじさんにこんな話をしたところで、どうにもならない。呆れられて、「じゃあ俺には関係ないね」と席を立たのがオチだろう。それでも、誰かに助けてほしかった。張り詰めていた糸がプツンと切れ、友梨佳は両手で顔を覆って声を殺して泣き続けた。
一方、凌空は――。静かに、テーブルの上で両手を組んでいた。表情は驚くほど冷静だった。だが、その瞳の奥には、三十代の営業部長として酸いも甘いも噛み分けてきた男の、静かで冷酷な怒りがふつふつと煮えたぎっていた。
(……クソガキどもが。人の尊厳をなんだと思ってる)
ただのイジメじゃない。立派な恐喝、そして強要罪だ。目の前でボロボロ泣いているこの小さな女の子は、今日一日、どれほどの絶望と恐怖を抱えてあのアルタ前に立っていたのだろうか。
「……泣き止んだか?」
数分後。凌空はテーブルにあった紙ナプキンを数枚束ねて、友梨佳の前にそっと差し出した。
「あ、ありがと、ございます……ズズッ」
「とりあえず、ココア飲め。冷めるぞ」
友梨佳は赤い目をこすりながら、両手でマグカップを包み込むように持ち、一口だけ飲んだ。甘くて、温かい。その温もりにホッと息をついた瞬間――。
スッ、と。テーブルの上に、何かが差し出された。
「……え?」
友梨佳の目が点になる。置かれていたのは、野口英世でも渋沢栄一でもない。見慣れた福沢諭吉の束。一、二、三、四、五。
「ご、五万……え、なんで……っ!?」
慌てて顔を上げると、凌空は自分の財布を内ポケットにしまいながら、コーヒーを一口すすった。
「その沙耶ちゃんとやらに、金だけ渡して『はい終わり』にしとけ。写真はちゃんと目の前で消させろよ。消さなかったら警察に行くって脅してやれ」
「で、でも……!」
友梨佳は慌ててお札を押し返そうとした。
「私、リクさんに何もしてないのに……っ! こんな大金、受け取れません!」
「馬鹿言え」
凌空は呆れたように小さく鼻で笑うと、友梨佳の頭にポン、と大きな手のひらを乗せた。
「いいか? 大人が子供を助けるのに、理由も見返りも要らないんだよ」
「……っ」
「それに、俺は今日『大人の女性』と酒を飲むつもりで来たんだ。こんなガチガチに緊張した子供とコーヒー飲んで終わるなんて、割に合わない。これは俺からの手切れ金だと思って、さっさと持って帰りなさい」
わざとぶっきらぼうに言ったその言葉が、どれだけ不器用な優しさでコーティングされているか。十五歳の友梨佳にも、痛いほど伝わってきた。
「……っ、うわああぁぁぁんっ!!」
今日一番の、大きな泣き声だった。喫茶店の他のお客さんがチラチラとこちらを見ているが、凌空は気にする素振りも見せず、「あーあ、せっかくの化粧がパンダみたいになってるぞ」と苦笑いしながら、また紙ナプキンを差し出した。
この日。最悪な出会いから始まった夜は、友梨佳にとって一生忘れられない、初めて「ヒーロー」に出会った夜になった。
【次回 8月2日 10:00 第2章:不器用な距離の縮まり】




