黒い傘、グリドラへ
しおりのスマホに表示された投稿を見た瞬間、204号室の空気が止まった。
『黒い傘の人を見た』
場所は、グリーンハイツドラゴンの近く。
それだけで十分だった。
有斗は窓へ駆け寄り、外を見下ろした。二階の窓から見えるのは、いつもの細い道と、向かいの古い塀と、少し離れた街灯だけである。夜になりかけた空の下、グリドラの周囲は静かだった。
だが、その静けさが逆に嫌だった。
いつもなら、どこかの家から夕飯の匂いがして、遠くで自転車のブレーキ音が鳴って、部長がのんきに鳴く。そんな何でもない音が、このアパートには似合っている。
今は、その全部が薄く遠ざかっているように感じた。
「本当に近くなの?」
葵がしおりに聞く。
声は落ち着いていたが、顔は青ざめていた。
しおりはスマホを操作し、投稿に添付された写真を拡大する。夜道の写真だった。画質は悪い。手ぶれもある。それでも、街灯の下に黒い傘を差した人物が立っているのが分かった。
そして、その背景に見える古い看板。
グリーンハイツドラゴンまで徒歩数分の場所にある、小さなコインランドリーの看板だった。
「近い」
しおりが短く言う。
「かなり」
204号室の布団では、佐々木が意識を失ったまま静かに呼吸している。先ほどまで右手を覆っていた黒い紋様は薄くなっていたが、完全に消えたわけではない。
瀬玲奈は佐々木の様子を確認しながら、不安そうに顔を上げた。
「ここへ来るつもりなのでしょうか」
「来るだろうな」
答えたのはゼルグラードだった。
彼は廊下側に立ち、窓の外ではなく部屋の床を見ていた。畳に浮かんでいた黒い線はほとんど消えている。だが、完全に消えたわけではなく、薄い傷跡のように残っていた。
「佐々木を鍵として使えなくなった。ならば、次は直接来る」
葵が小さく息を吐く。
「最悪じゃん」
「最悪だな」
有斗も同意した。
だが、不思議と恐怖だけではなかった。
黒い傘の人物が近くまで来ている。
それは危険であると同時に、逃げ続けていた相手がようやく手の届くところに現れたということでもある。
有斗は窓から離れ、部屋の入口へ向かった。
「迎え撃つ」
莉愛奈がすぐに頷いた。
「私も行きます」
「当然だ」
今回は止める理由がなかった。
相手はグリドラへ来ようとしている。
ここは、彼らの今の住まいだ。
守るべき場所だった。
葵は一瞬迷ったように佐々木を見てから、強く首を振った。
「私も下に行く」
「危険だ」
有斗が言うと、葵は真っ直ぐこちらを見た。
「ここ、私のアパートなんだけど」
その言葉に、有斗は何も言えなくなった。
葵の声は震えていなかった。
怖くないわけではないだろう。
むしろ、怖いに決まっている。
それでも彼女は、この場所の持ち主として、そしてこの数ヶ月ずっと自分たちを受け入れてきた者として、下がるつもりはないらしかった。
「無茶はするな」
有斗が言うと、葵は少しだけ笑った。
「それ、こっちの台詞」
しおりは部長を抱えたまま、廊下の影から顔を出していた。
「私はネットと部長担当」
「避難していてください」
瀬玲奈が言うと、しおりは首を横に振る。
「部長が動かない」
部長はしおりの腕の中で、珍しく暴れることもなく外を睨んでいた。太った茶トラの猫とは思えないほど真剣な目をしている。
「たぶん、部長もここにいる気」
「猫なのに?」
葵が思わず言う。
しおりは真顔で頷いた。
「部長だから」
誰も反論できなかった。
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一階の共有スペースへ降りると、グリドラはいつもと同じ姿をしていた。
古いテーブル。
少し軋む床。
隅に置かれた電子レンジ。
使い込まれた食器棚。
何度も食卓を囲み、何度もくだらない話をした場所。
ここで瀬玲奈が味噌汁を作り、莉愛奈が現代の箸に苦戦し、しおりがスマホを見ながら寝転がり、葵がため息をつき、部長が当然のように一番いい場所を占領していた。
そんな場所に、境界崩落の影が入り込んでいる。
有斗はそれがどうしても許せなかった。
「外で止める」
ゼルグラードが言った。
「中に入れれば、また建物が反応する可能性がある」
「分かった」
有斗は頷く。
黒い傘の人物が何をしようとしているのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、ここを次の起点にされるわけにはいかないということだった。
共有スペースの扉を開けると、夜の空気が流れ込んできた。
湿った夏の匂いがする。
遠くで車の音が聞こえた。
だが、グリドラの前の道には誰もいない。
街灯が一つ、古いアスファルトを照らしている。
有斗、莉愛奈、瀬玲奈、葵、ゼルグラードが外へ出る。
しおりは玄関の内側に立ち、部長を抱えたままスマホを握っていた。
「来る」
しおりが言った。
その声とほぼ同時に、道の向こうから足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音だった。
急ぐ様子はない。
だが、確実にこちらへ近付いてくる。
街灯の下に、黒い傘が現れた。
雨は降っていない。
風もない。
それなのに、傘の布だけがゆっくりと揺れている。
黒い傘の人物は、グリドラの前で足を止めた。
傘の奥に顔は見えない。
だが、笑っている気配がした。
「良い住処だな」
その声が夜道に落ちる。
男とも女ともつかない、不思議な声。
水門で聞いた声。
祠で聞いた声。
有斗は一歩前へ出た。
「ここに何をしに来た」
「見に来た」
「何を」
「お前たちが選んだ場所を」
黒い傘の人物は、グリドラを見上げるように少しだけ傘を傾けた。
「勇者、女騎士、神官、魔王。そして境界に巻き込まれた人間たち。よくもまあ、これほど都合よく一つの場所に集まったものだ」
ゼルグラードの声が低くなる。
「お前が集めたのか」
「まさか。流れ着いたのだ。境界が薄い場所には、境界に触れた者が集まる」
その言葉に、有斗は眉をひそめた。
境界が薄い場所。
つまり、このグリドラも最初からただの古いアパートではなかったということか。
葵も同じことを考えたのだろう。
顔を強張らせてグリドラを見た。
「ここが……?」
「この建物そのものに大きな力があるわけではない」
黒い傘の人物は、葵の疑問に答えるように続けた。
「だが、土地には記憶がある。昔から、この辺りは境界が揺らぎやすかった。だから勇者たちはここへ来た。魔王も近くへ流れ着いた。そして、鍵にされた者もここへ運ばれた」
「ふざけるな」
有斗の声が低くなった。
「俺たちは流れ着いたんじゃない。ここで暮らしている」
黒い傘の人物がわずかに黙った。
その沈黙が、ほんの少しだけ意外そうに感じられた。
「暮らしている、か」
「そうだ」
有斗ははっきり言った。
「ここは俺たちの家だ」
その言葉に、葵が息を呑んだのが分かった。
有斗自身も、口にしてから胸の奥が熱くなるのを感じた。
家。
ノクスフィアには故郷がある。
帰りたい場所がある。
それでも今、有斗が守ろうとしている場所もまた、家と呼べるものになっていた。
莉愛奈が隣に並ぶ。
「勇者様の言う通りです。ここは私たちが帰る場所です」
瀬玲奈も静かに頷いた。
「誰かを傷つけて開く道より、今ここで守るべき食卓があります」
葵は二人を見て、少しだけ目を伏せた。
そして顔を上げる。
「家賃は払ってほしいけどね」
有斗は思わず振り向いた。
この状況でそれを言うのか。
だが、葵は真剣だった。
「でも、払う払わないは別として、勝手に壊されるのは困る。ここはうちのアパートだから」
しおりが玄関の内側から付け足す。
「あと部長の縄張り」
部長が低く鳴いた。
まるで同意するようだった。
黒い傘の人物は、しばらく黙っていた。
笑っているのか、呆れているのか分からない。
やがて、小さく息を漏らす。
「面白い」
その声には、初めてわずかな感情が混じっていた。
「帰る道を前にして、古いアパートを選ぶか」
「選ぶ」
有斗は迷わなかった。
「今はな」
完全に帰ることを捨てたわけではない。
ノクスフィアを忘れたわけでもない。
だが、今この瞬間に選ぶべきものははっきりしていた。
黒い傘の人物は傘を少し下げた。
足元に黒い線が広がる。
グリドラの前のアスファルトに、細い模様が浮かび上がった。
倉庫、水門、祠で見たものと同じ。
だが、今回は有斗にも分かった。
それはまだ浅い。
起点として完全に刻まれているわけではない。
今なら止められる。
「ゼルグラード!」
有斗が叫ぶより早く、元魔王は動いていた。
黒い炎のような魔力が彼の手に灯り、アスファルトの線へ叩きつけられる。
黒い傘の人物は一歩下がった。
同時に、有斗も前へ出る。
武器はない。
それでも、足は止まらなかった。
黒い線が有斗の足元へ伸びる。
触れた瞬間、頭の中にノクスフィアの景色が流れ込んできた。
青い空。
石畳の街。
遠くに見える城。
旅の途中で見た、懐かしい世界。
一瞬だけ足が鈍る。
だが、その直後に聞こえたのは葵の声だった。
「有斗!」
その声で、有斗は踏みとどまった。
帰る道の幻を振り払い、黒い傘の人物へ向かって走る。
相手は傘を傾ける。
直接戦うつもりはないらしい。
「まだ選びきれていないな、勇者」
「選んだと言っただろ」
「今は、だろう?」
黒い傘の人物の声が耳の奥に残る。
有斗は答えず、手を伸ばした。
あと少しで傘に届く。
その瞬間、黒い傘の人物の足元の線が弾けた。
強い風が起きる。
水門の時と同じだ。
有斗は腕で顔を庇う。
視界が一瞬だけ白くなる。
だが今回は、逃がすつもりはなかった。
「莉愛奈!」
有斗が叫ぶ。
莉愛奈はすでに動いていた。
彼女は地面に落ちていた小石を掴み、黒い傘の人物の足元へ投げつける。狙いは本人ではない。アスファルトに浮かんだ黒い線だった。
小石が線に当たった瞬間、ゼルグラードの魔力がそこへ重なる。
黒い線が大きく歪んだ。
風が乱れる。
黒い傘の人物が初めて、はっきりと動きを止めた。
「……なるほど」
その声が少しだけ低くなる。
有斗はその隙に手を伸ばし、黒い傘の端を掴んだ。
布の感触があった。
確かにそこにいる。
有斗は力を込めて引いた。
傘が大きく傾く。
その奥の顔が、街灯の光に一瞬だけ照らされた。
人間の顔ではなかった。
いや、人間だったものが、長い時間をかけて別の何かに変わってしまった顔だった。
目のある場所には黒い空洞があり、その奥に青白い光が揺れている。皮膚のように見えるものには細かな文字が刻まれ、頬のあたりが霧のように薄れていた。
葵が息を呑む。
瀬玲奈が小さく祈るように手を握る。
ゼルグラードの表情が険しくなった。
「お前……人間ではないな」
黒い傘の人物は、傾いた傘をゆっくり持ち直した。
「かつては、そうだった」
その声は初めて、少しだけ悲しげに聞こえた。
だが次の瞬間には、また元の奇妙な響きへ戻る。
「今日はここまでだ。グリーンハイツドラゴン。実に興味深い場所だった」
「逃がすか」
有斗が踏み出す。
だが黒い傘の人物は、もう一度黒い線の上へ足を置いた。
ゼルグラードが止めようとしたが、間に合わない。
今度は風ではなく、影が広がった。
街灯の光が一瞬で暗くなる。
有斗が瞬きをした時、黒い傘の人物は消えていた。
アスファルトに残っていた黒い線も薄れていく。
ただ一つ、地面に小さな破片が落ちていた。
傘の布の端。
有斗が掴んだ時に千切れたものだった。
ゼルグラードがそれを拾い上げる。
布のように見えるが、指先で淡く光っている。
「手掛かりにはなる」
有斗は悔しさを飲み込みながら頷いた。
黒い傘の人物は逃げた。
だが、完全に逃げられたわけではない。
顔を見た。
触れた。
そして、相手はグリドラを起点にしようとして失敗した。
それだけでも大きい。
葵はゆっくりと息を吐き、グリドラを見上げた。
古びたアパートは、相変わらずそこに立っている。
少し軋んで、少し汚れていて、名前だけはやたら強そうな古い建物。
けれど今は、それが妙に頼もしく見えた。
「守れた……のかな」
葵が呟く。
有斗はグリドラを見上げたまま答えた。
「今はな」
完全に終わったわけではない。
黒い傘の人物はまだいる。
境界も揺れ続けている。
帰る道の誘惑も、胸の奥から消えたわけではない。
それでも、今夜グリドラはここに残った。
有斗たちの家として。
部長が玄関の内側から、いつものように短く鳴いた。
まるで勝利宣言のようだった。
しおりがそれを聞いて、小さく言う。
「部長、勝ったって」
葵が苦笑する。
「はいはい。部長のおかげです」
そのやり取りに、有斗は少しだけ笑った。
夜の街に、いつものグリドラの空気が戻ってくる。
だがゼルグラードは、拾った傘の破片を見つめたまま険しい顔をしていた。
「次は、こちらから探す番だ」
有斗は頷いた。
守るだけでは終われない。
黒い傘の人物が何者なのか。
なぜ境界を広げようとしているのか。
そして、この街とグリドラに何が眠っているのか。
知らなければならない。
帰るためではなく。
残るためでもなく。
自分たちで選ぶために。




