グリドラの異変
有斗たちは、夕方の住宅街を走っていた。
戻りの祠を離れても、胸の奥に残った感覚は消えない。青白い光。赤黒く濁った境界石。住宅街の向こうに一瞬だけ見えたノクスフィアの景色。
帰る道は、確かに開きかけていた。
その事実が、有斗の心に重く残っている。
だが今は、振り返っている暇はなかった。
しおりから届いたメッセージ。
佐々木の包帯が光っている。
それはつまり、祠で起きた異変がグリドラにも届いているということだった。
「有斗、こっち!」
葵がスマホの地図を確認しながら道を曲がる。
いつもの彼女なら、走ることに文句の一つも言いそうなものだが、今はそれどころではないらしい。息を切らしながらも、足は止めなかった。
莉愛奈は周囲を警戒しながら先頭に出ている。
瀬玲奈は少し遅れながらも、懸命についてきていた。
ゼルグラードはスーツ姿のまま走っている。こんな状況でなければ、かなり奇妙な光景だった。だが彼の顔に余裕はない。
「グリドラが起点になっているのか」
有斗が走りながら聞く。
ゼルグラードは短く答えた。
「可能性はある」
「なぜだ。あそこには魔法陣なんてなかった」
「佐々木がいる。奴に刻まれた紋様が、祠と反応しているのだろう」
「人間を起点にしているってことか」
「そうだ」
有斗は奥歯を噛みしめた。
佐々木はただ巻き込まれただけだ。
それなのに、今もなお何者かの道具にされようとしている。
その怒りが足を前へ押した。
通りを抜け、見慣れた古いアパートが見えてくる。
グリーンハイツドラゴン。
いつもなら少し間の抜けた名前に思えるその建物が、今は妙に遠く感じた。
二階の窓から、淡い光が漏れている。
夕陽の色ではない。
青白く、時折赤黒く揺れる光。
有斗の胸が嫌な音を立てた。
「204号室だ」
葵が顔色を変える。
その瞬間、グリドラ全体がかすかに震えた。
地震のような揺れではない。
建物の内側から、空気そのものが押されたような振動だった。
外階段の金属が小さく鳴り、窓ガラスが震える。
「しおり!」
葵が玄関へ駆け込む。
有斗たちも続いた。
共有スペースの扉を開けた瞬間、いつもの部屋とは違う光景が目に入った。
テーブルの上にはスマホとノートパソコンが広げられ、画面にはいくつもの投稿や地図が表示されている。しおりはソファの横に座り込み、部長を抱えるようにしていた。
部長は珍しく落ち着かない様子で、尻尾を膨らませている。
「おかえり」
しおりの声はいつもより小さかった。
それでも無事だったことに、有斗は少しだけ息を吐く。
「大丈夫か」
「私は大丈夫。でも二階、やばい」
しおりが天井を見上げる。
その時、二階から低い音が響いた。
誰かが床を叩いた音ではない。
もっと深い、建物の奥から鳴るような音だった。
瀬玲奈がすぐに階段へ向かおうとする。
「佐々木さんのところへ」
「待て」
ゼルグラードが制した。
彼は共有スペースの床を見つめていた。
古い木の床。
その隙間に、黒い線が浮かび上がっている。
最初は汚れのように見えた。
だが、それはゆっくりと伸び、枝分かれしながら部屋の四方へ広がっていく。
葵が息を呑む。
「うちの床に……」
「祠と同じだ」
有斗は低く言った。
黒い線は、グリドラの床を這うように進んでいた。
テーブルの脚を避け、畳の縁を伝い、壁際へ向かっていく。まるでこのアパートそのものを魔法陣に組み込もうとしているようだった。
しおりが抱えていた部長が、低く唸る。
普段の部長からは考えられない声だった。
「部長も反応してる」
しおりが不安そうに言う。
有斗は二階を見上げた。
「佐々木さんは」
「ずっと苦しそう。包帯が光って、それから部屋の壁にも黒い線が出た。近付こうとしたけど、扉が開かなくなった」
「開かない?」
「鍵とかじゃない。押しても動かない。たぶん、普通じゃない」
普通ではない。
その言葉はもう、グリドラでは何度も聞いた気がする。
だが今回は、いつもの騒動とは違う。
アパートの内側で、境界が開きかけている。
有斗は階段へ向かって歩き出した。
莉愛奈もすぐ後ろに続く。
瀬玲奈は救急セットを抱え、葵は不安そうにしながらも離れなかった。
ゼルグラードは床の黒い線を一度だけ見てから、低い声で言った。
「急げ。佐々木が完全に鍵になれば、この建物ごと引きずられる」
「どこへ」
葵が聞く。
ゼルグラードは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
有斗は階段を上がった。
二階の廊下には、すでに異変が広がっていた。
壁紙の上に黒い模様が浮かび、天井の照明が不規則に明滅している。廊下の奥、204号室の扉の隙間から青白い光が漏れていた。
そこだけ空気が歪んで見える。
真夏のはずなのに、吐く息が白くなりそうなほど冷たかった。
「佐々木さん!」
瀬玲奈が扉の前で呼びかける。
中から返事はない。
代わりに、苦しそうな呻き声が微かに聞こえた。
有斗は扉のノブを掴む。
動かない。
押しても引いても、まるで壁と一体化したようにびくともしない。
「どけ」
ゼルグラードが前に出た。
彼の手に黒い炎のような魔力が灯る。
現代では薄く、不安定な魔力。それでも今は、祠から流れ込んでいる何かの影響なのか、いつもよりはっきりと形を持っていた。
ゼルグラードが扉へ手をかざす。
黒い線が抵抗するように赤黒く光った。
「こじ開けるぞ」
「佐々木さんは中にいる」
有斗が言う。
「分かっている。扉だけを剥がす」
ゼルグラードの魔力が扉の表面を走った。
木が軋む音がする。
黒い線が震え、廊下全体の空気が重くなる。
葵が思わず一歩下がり、瀬玲奈が支える。
次の瞬間、扉が内側から弾けるように開いた。
204号室の中から、冷たい風が吹き出す。
有斗は腕で顔を庇いながら部屋の中を見た。
佐々木は布団の上で苦しんでいた。
右手の包帯はほどけかけ、その下から黒い紋様が強い光を放っている。腕だけではない。紋様は肩の方へ伸び、首筋にまで薄く広がっていた。
床には黒い魔法陣が浮かんでいる。
誰かが描いたものではない。
畳の下から染み出すように、線が現れていた。
そして部屋の中央、佐々木のすぐ横に、薄い裂け目のようなものが開いている。
向こう側に見えたのは、夜の森だった。
現代の景色ではない。
ノクスフィアの森。
有斗はそれを見た瞬間、胸が強く締め付けられた。
風の匂いまで覚えている。
湿った土。
遠くの魔獣の気配。
旅の途中で何度も通った、あの世界の空気だった。
「開いている……」
莉愛奈が呟く。
その声は震えていた。
瀬玲奈も言葉を失っている。
帰る道。
黒い傘の人物が言っていた言葉が、現実として目の前にあった。
だが、その裂け目の周囲には黒い影が絡みついている。
美しい帰り道ではない。
誰かの身体を鍵にし、苦しみを使ってこじ開けた歪な穴だった。
「たすけ……」
佐々木の声が聞こえた。
有斗は我に返った。
そうだ。
見るべきは道ではない。
今助けるべき人間は、目の前にいる。
「瀬玲奈!」
「はい!」
瀬玲奈が部屋へ入ろうとした瞬間、床の魔法陣が光った。
黒い線が伸び、彼女の足元に絡みつこうとする。
莉愛奈がとっさに瀬玲奈を引き戻した。
「危険です!」
有斗は踏み出そうとする。
その腕をゼルグラードが掴んだ。
「待て。お前が入れば反応が強まる」
「なぜだ」
「勇者だからだ」
その言葉に、有斗は息を詰めた。
「境界はノクスフィアに近い存在へ反応している。お前や俺が中へ入れば、穴がさらに広がる可能性がある」
「じゃあどうする!」
有斗の声が荒くなる。
佐々木は苦しんでいる。
目の前にいる。
それなのに近付けない。
ゼルグラードは部屋の中を睨みながら言った。
「紋様を切り離すしかない」
「切り離す?」
「佐々木と魔法陣の繋がりを断つ。だが、現代の魔力では足りん」
「ならどうする」
「境界石の力を逆に使う」
その時、葵が声を上げた。
「境界石って、祠の?」
ゼルグラードは頷いた。
「今、祠とここは繋がっている。その流れを少しだけ変えれば、佐々木を鍵から外せるかもしれん」
「できるのか」
有斗が問う。
ゼルグラードは即答しなかった。
それが答えに近かった。
「成功する保証はない」
「失敗したら」
「穴が広がる」
部屋の中で、佐々木がまた苦しそうに呻いた。
有斗は拳を握る。
迷っている時間はなかった。
「やるしかない」
「だろうな」
ゼルグラードはそう言って、部屋の入口に片膝をついた。
魔法陣の線へ直接触れないように手をかざす。
黒い炎のような魔力が、床の模様に染み込んでいく。
その瞬間、204号室の裂け目が大きく揺れた。
向こう側の夜の森が近付く。
風が強くなり、有斗の髪を揺らした。
まるでノクスフィアそのものが、こちらへ手を伸ばしているようだった。
有斗の心がまた揺れる。
帰れる。
今なら、本当に。
だが、佐々木の苦しむ声がそれを打ち消した。
「有斗!」
葵の声が響く。
その声で、有斗は完全に我に返った。
今ここにあるのは、帰る道ではない。
助けを求める人間を利用して開いた穴だ。
そんなものを、自分は道とは呼ばない。
「ゼルグラード、俺にできることは」
「お前は佐々木に声をかけ続けろ。意識をこちらへ引き戻せ。鍵にされているなら、本人の意思が繋がりを弱める可能性がある」
有斗は頷き、部屋の入口から佐々木へ声を張った。
「佐々木さん! 聞こえるか!」
佐々木の目がわずかに動く。
「こっちを見ろ! あんたは鍵じゃない。道具でもない。佐々木健二だ!」
紋様の光が揺れた。
瀬玲奈も声をかける。
「佐々木さん、戻ってきてください! ここにいます。大丈夫です!」
葵も必死に叫んだ。
「佐々木さん! 聞こえたら返事して!」
部屋の中で佐々木の指が動いた。
包帯の残りが床へ落ちる。
黒い紋様が激しく明滅し、裂け目が歪んだ。
ゼルグラードが歯を食いしばる。
「もう少しだ!」
その時、裂け目の向こうから黒い腕のようなものが伸びた。
倉庫で見た影と同じ。
輪郭の定まらない、世界の外側から染み出したような何か。
有斗は反射的に前へ出そうになる。
だが入れない。
入れば穴が広がる。
莉愛奈が廊下に置かれていた消火器を掴んだ。
「お借りします!」
「使って!」
葵が叫ぶ。
莉愛奈は迷いなく消火器を構え、裂け目から伸びる影へ向けて噴射した。
白い煙が部屋に広がる。
効くのかどうかは分からない。
だが影の腕は一瞬動きを鈍らせた。
そのわずかな隙に、ゼルグラードの魔力が佐々木の右手へ届く。
黒い紋様が大きく歪んだ。
「今だ、佐々木!」
有斗は叫んだ。
「戻ってこい!」
佐々木の目が見開かれる。
「私は……」
かすれた声だった。
それでも確かに聞こえた。
「帰りたい……家に……」
その言葉と同時に、紋様の光が弾けた。
204号室の床に浮かんでいた魔法陣が崩れ、裂け目が一気に縮んでいく。ノクスフィアの夜の森が遠ざかり、風が止み、黒い影の腕も引きずり込まれるように消えた。
最後に小さな音がして、裂け目は完全に閉じた。
部屋には静けさが戻った。
床の黒い線も薄れ、ただの古い畳へ戻っていく。
佐々木は布団の上に倒れ込んだ。
瀬玲奈がすぐに駆け寄る。
今度は床が反応することはなかった。
「息はあります。意識は……薄いですが、大丈夫です」
その言葉に、葵がその場へ座り込んだ。
しおりも階段の下から顔を出し、部長を抱えたまま小さく息を吐く。
有斗は閉じた裂け目のあたりを見つめていた。
そこにはもう、ノクスフィアの森はない。
畳と、倒れた水のペットボトルと、散らばった包帯だけが残っている。
帰る道は消えた。
ほっとしたはずなのに、胸の奥に小さな痛みが残った。
それを見透かしたように、ゼルグラードが低く言った。
「今のは道ではない」
有斗は彼を見る。
ゼルグラードは疲れた顔で立ち上がる。
「忘れるな。あれは穴だ。帰り道ではない」
有斗は少しだけ黙り、やがて頷いた。
「ああ」
分かっている。
分かっているのに、揺れた。
その事実は消えない。
だが今は、佐々木を救えた。
グリドラを守れた。
それだけで十分だと思うことにした。
その時、しおりのスマホが震えた。
彼女は画面を見て、顔をしかめる。
「……また投稿」
全員がしおりを見る。
しおりは小さく息を吸ってから、画面を読み上げた。
「黒い傘の人を見た。場所は……グリドラの近く」
空気が止まった。
有斗は窓の外を見る。
夜の入り口に差しかかった街。
そのどこかで、黒い傘の人物がこちらを見ている。
佐々木を救った。
だが終わっていない。
むしろ、相手はさらに近くまで来ている。
古いアパートの二階で、有斗は静かに拳を握った。
グリドラの日常を守る戦いは、もう避けられないところまで来ていた。




