開き始めた道
戻りの祠を中心に、黒い線が地面を走っていった。
それはまるで生き物のようだった。
石畳の隙間を伝い、土の下へ潜り、緑地の外へ伸びていく。目で追えるのはほんの一瞬で、次の瞬間には住宅街の道の方へ消えていた。
有斗はその光景を見て、息を呑んだ。
地面に描かれた線ではない。
街そのものの下に、もともと眠っていた何かが目を覚ましたように見えた。
祠の中に置かれた境界石は、青白い光と赤黒い光を交互に放っている。最初に見た時の懐かしさは、もうほとんど消えていた。今はただ、不安定で危険なものにしか見えない。
黒い傘の人物は、祠の前で静かに立っている。
傘の奥に表情は見えない。
けれど、こちらの反応を楽しんでいる気配だけは伝わってきた。
「道が開き始めた」
その声が、夕方の緑地に落ちる。
周囲には住宅街があるはずだった。
すぐ近くには人の生活がある。
夕飯の匂いも、どこかの家から聞こえるテレビの音も、少し前までは確かに感じられた。
だが今は、その全てが遠い。
戻りの祠の周囲だけが、別の場所に切り離されたようだった。
「止めるぞ」
有斗は言った。
迷いを振り払うように、強く。
黒い傘の人物がわずかに首を傾ける。
「止める? 何をだ。お前たちが失った道を戻しているだけだ」
「人を巻き込んでいる」
「境界は人の都合など見ない」
「なら、なおさらお前に任せられない」
有斗は一歩踏み出した。
祠の光が強くなり、胸の奥にまた懐かしい景色が浮かぶ。
ノクスフィアの風。
旅の途中で見た草原。
雨上がりの街道。
魔王城へ向かう前、仲間たちと囲んだ小さな焚き火。
帰れるかもしれない。
その思いは、消そうとしても消えなかった。
だが同時に、グリドラの景色も浮かんだ。
古い共有スペース。
瀬玲奈の作る味噌汁。
しおりがソファでスマホを見ている姿。
葵が呆れた顔でため息をつく声。
部長が窓際でのんびり眠る姿。
それらもまた、有斗にとってはもう失いたくない場所だった。
「勇者様、下がってください」
莉愛奈の声がした。
彼女は有斗の横に並んでいた。
剣はない。
鎧もない。
それでも、その立ち方はノクスフィアにいた頃と変わらない。
有斗を守るためではなく、同じ方向を見て戦うための立ち方だった。
「私も揺れています」
莉愛奈は黒い傘の人物から目を離さずに言う。
「帰れるなら、帰りたいと思ってしまう。けれど、あれは私たちを帰すための道ではありません」
瀬玲奈も葵の隣に立ち、静かに頷いた。
「はい。あの光は、懐かしいのに怖いです。祈りではなく、引きずり込むものに感じます」
葵は二人の言葉を聞いて、何かを言いかけた。
けれど、すぐには言葉にならなかった。
彼女だけはノクスフィアを知らない。
帰るという言葉の重さも、故郷を奪われた感覚も、本当の意味では分からないはずだった。
それでも、葵はリュックの肩紐を強く握りしめて、有斗たちの前へ半歩だけ出た。
「よく分かんないけど」
声は少し震えていた。
だが、逃げる声ではなかった。
「帰りたいなら、ちゃんと帰ればいいと思う。でも、こんなやり方で帰るのは違うでしょ。だってこれ、絶対まともじゃない」
その言葉に、有斗は少しだけ胸が軽くなった。
葵らしい。
難しい理屈ではなく、目の前の違和感をまっすぐ口にする。
それが今はありがたかった。
ゼルグラードは祠の境界石を見つめていた。
彼の手には黒い炎のような魔力が灯っている。
だが、それは以前よりも不安定に揺れていた。
「この石を壊せるか」
有斗が聞く。
ゼルグラードはすぐには答えなかった。
「壊せば止まる可能性はある」
「なら」
「だが、同時に境界が暴走する可能性もある。固定具を無理やり砕けば、開きかけた道がどこへ繋がるか分からん」
有斗は歯を食いしばった。
壊せばいいという単純な話ではない。
倉庫でも、水門でもそうだった。
境界に関わるものは、現代の道具のように壊して終わりにはならない。
黒い傘の人物は、静かに笑った。
「さすが魔王だ。壊せば済むものではないと知っている」
「お前が仕組んだのか」
ゼルグラードの声が低くなる。
「この街に境界石を置いたのはお前か」
黒い傘の人物は少しだけ黙った。
その沈黙には、今までとは違う重さがあった。
「置いたのは、私ではない」
やがて返ってきた声は、ほんの少しだけ遠く聞こえた。
「この街には、もともと綻びがあった。お前たちがここへ落ちたのも偶然ではない。勇者、魔王、そして境界崩落の欠片。全てはこの場所へ流れ着いた」
「どういう意味だ」
有斗が問い詰める。
黒い傘の人物は答えず、祠の方へ手を向けた。
その指先から黒い糸のようなものが伸び、境界石へ触れる。
瞬間、光が大きく膨れ上がった。
緑地の空気が歪む。
木々の向こうに見えていた住宅街の景色が、波打つように揺れた。
葵が小さく悲鳴を上げる。
有斗は振り向いた。
そこには、あるはずのない景色が見えていた。
住宅街の塀の向こう。
夕暮れの空の代わりに、赤い月が浮かんでいる。
石造りの塔。
崩れた城壁。
遠くで揺れる黒い森。
それは一瞬だけだった。
すぐに元の住宅街へ戻る。
だが、有斗には分かった。
今のは幻ではない。
ノクスフィアの景色だった。
「見えたか」
黒い傘の人物の声が甘く響く。
「道は確かに繋がり始めている」
莉愛奈が息を呑んだ。
瀬玲奈も言葉を失っている。
有斗も同じだった。
目で見てしまった。
本当に、向こう側がそこにある。
帰れるかもしれないという言葉が、ただの誘いではなくなってしまった。
その時、有斗のスマホが震えた。
祠の影響で通信が乱れているはずなのに、画面にはしおりからの通知が出ていた。
『やばい』
続けて、短い文が表示される。
『街の別の場所でも黒い線が出てるって投稿あり』
さらにもう一通。
『佐々木さんの包帯、光ってる』
有斗の表情が変わった。
「佐々木さんが」
葵も画面を覗き込み、顔色を変える。
「まずい。グリドラで何か起きてる」
黒い傘の人物が静かに笑った。
「一つの起点だけで道が開くと思ったのか」
有斗は拳を握りしめる。
祠だけではない。
倉庫。
水門。
時計台。
そして佐々木の右手に刻まれた紋様。
全てが繋がっている。
ここで起きていることは、街の別の場所にも広がっているのだ。
「お前……!」
有斗が踏み出そうとした瞬間、ゼルグラードが横から腕を伸ばして制した。
「追うな」
「なぜだ!」
「今こいつを追えば、グリドラが危ない」
その言葉で、有斗は動きを止めた。
グリドラ。
佐々木。
しおり。
部長。
今この瞬間、戻るべき場所で異変が起きている。
黒い傘の人物は、それを分かっていてここで時間を稼いでいたのだ。
「勇者よ」
黒い傘の人物は、静かに言った。
「選べと言ったはずだ」
祠の光がさらに強くなる。
ノクスフィアの景色が、また住宅街の向こうに揺らいだ。
「道を追うか」
その声は甘く、冷たい。
「今の居場所を守るか」
有斗は一瞬だけ目を閉じた。
答えはもう出ていた。
帰る道は欲しい。
だが、今守るべき場所を捨ててまで追う道ではない。
有斗は目を開ける。
「グリドラへ戻る」
その声に迷いはなかった。
莉愛奈もすぐに頷いた。
瀬玲奈は葵の手を取り、ゼルグラードは黒い傘の人物を睨んだまま一歩下がる。
黒い傘の人物は追ってこなかった。
ただ、傘の奥で笑っている気配だけがあった。
「それでいい。道は逃げない」
その言葉を背に、有斗たちは祠を離れた。
走り出す。
夕方の住宅街を抜け、グリドラへ向かう。
背後では、戻りの祠の光がまだ揺れていた。
青白く、赤黒く。
まるで二つの世界の境目が、ゆっくりとほどけていくように。
有斗は走りながら、胸の奥で強く思った。
帰る道を否定したわけではない。
けれど今は。
今だけは。
帰る場所より、守る場所がある。




