戻りの祠
翌日の夕方、有斗たちはグリーンハイツドラゴンを出た。
空はまだ明るい。
だが、日差しの色は少しずつ傾き始めている。昼間の熱気が地面に残り、住宅街の細い道には夕飯の匂いが漂っていた。
どこにでもある、普通の夕方だった。
子供たちが自転車で走り抜け、買い物袋を持った人が家へ向かう。遠くからは電車の音が聞こえ、どこかの家のベランダでは洗濯物が風に揺れている。
その景色の中を、勇者と女騎士と神官とアパート管理人、そして元魔王が歩いている。
事情を知らない人間から見れば、ただの変わった集団だろう。
だが有斗には、足元の見えない場所で何かが静かに動いているように感じられた。
倉庫。
時計台。
水門跡。
そして、今から向かう戻りの祠。
点が繋がるたびに、街そのものが少しずつ別の顔を見せ始めている。
「本当に普通の住宅街だね」
葵がスマホの地図を見ながら言った。
その声には、安心よりも不安の方が混じっていた。
「こういう場所にある方が嫌なんだけど」
「人が多い場所なら、異常が起きても紛れやすい」
ゼルグラードが答える。
葵は嫌そうに彼を見た。
「そういうこと言わないで。余計怖くなる」
「事実だ」
「事実でも言わない優しさってあると思う」
ゼルグラードは少し考えたようだったが、結局何も返さなかった。
そのやり取りに、有斗はほんの少しだけ肩の力を抜く。
緊張している時ほど、こういう会話がありがたい。
莉愛奈は周囲を警戒しながら歩いていた。現代の住宅街で剣を持つことはできない。それでも彼女の立ち姿には、いつでも前に出られる緊張感があった。
瀬玲奈はリュックの肩紐を握りしめている。
中には救急セットや懐中電灯が入っていた。彼女は戦うためではなく、誰かを助けるために来ている。それが瀬玲奈らしかった。
しおりは今回も留守番だ。
グリドラでネット監視を続けている。
出発前、彼女はソファに寝転がったまま「黒い傘の投稿が出たら即連絡する」と言っていた。姿勢だけ見ればまったく頼りないが、今ではその言葉がかなり心強い。
「ここを曲がるみたい」
葵が小さな路地を指差した。
住宅の間を抜ける細い道だった。
車は通れない。
両側には古いブロック塀が続き、その先に小さな緑地が見える。
有斗は一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった気がした。
音が少し遠くなる。
住宅街の生活音が、薄い膜の向こう側へ押し込まれたようだった。
隣を見ると、ゼルグラードも同じことに気付いていた。
「境界が薄いな」
「もう始まっているのか」
「分からん。だが、何もない場所ではない」
路地を抜けると、小さな緑地に出た。
公園というには狭い。
遊具もない。
古い木が数本立ち、その奥に石段がある。
石段の上に、赤茶けた小さな鳥居があった。
塗装はほとんど剥げ、木はところどころ黒ずんでいる。その奥に、古い祠がひっそりと建っていた。
戻りの祠。
しおりが見つけた名前が、有斗の頭に浮かぶ。
名前だけなら、どこか穏やかにも聞こえる。
だが目の前の祠は、そんな優しい場所には見えなかった。
長い間忘れられ、誰にも手を入れられず、それでも何かを待ち続けていたような不気味さがあった。
「ここ……」
瀬玲奈が足を止める。
顔色が少し悪い。
「どうした」
有斗が聞くと、瀬玲奈は祠の方を見つめたまま答えた。
「祈りの場所なのに、祈りの気配がしません」
葵が不安そうに眉を寄せる。
「どういうこと?」
「うまく言えません。でも、誰かを守るための場所ではなくて、何かを閉じ込めるための場所に感じます」
その言葉に、全員が黙った。
祠とは、本来なら神を祀る場所のはずだ。
だが、もしここが何かを閉じ込めるための場所だったなら。
戻りの祠という名前の意味も、急に違って聞こえてくる。
「近付くぞ。ただし、触れるな」
ゼルグラードが低く言った。
有斗は頷き、先頭に立って石段を上がった。
一段ずつ進むたびに、背中に重いものが乗るような感覚が強くなる。魔力なのか、境界の歪みなのかは分からない。ただ、普通の場所ではないことだけは確かだった。
祠の前まで来ると、地面に小さな黒い線が刻まれているのが見えた。
倉庫の魔法陣。
時計台の印。
水門の模様。
それらと同じ系統の線だった。
ただし、ここでは線が祠を囲むように刻まれている。
まるで、祠そのものを魔法陣の中心にしているようだった。
「三つ目の起点だな」
有斗が言う。
ゼルグラードは祠の周囲を確認しながら、表情を険しくした。
「ここは古い。水門よりも古いかもしれん」
「いつからあるんだ」
「分からん。だが、この街が今の形になる前からあった可能性がある」
葵が小さく息を呑む。
住宅街の片隅にある古い祠。
普段なら誰も気にしないような場所。
そこに、ずっと前から境界に関わる何かが残っていた。
そう考えると、足元の地面まで違って見えてくる。
莉愛奈は祠の扉を見つめていた。
「中に何かあります」
その声で、有斗も視線を向ける。
祠の小さな扉は、少しだけ開いていた。
中は暗い。
だが、その奥に何かが置かれている。
葵が懐中電灯を向けようとした瞬間、ゼルグラードが手で制した。
「待て」
「何?」
「光を当てる前に、全員少し下がれ」
その声は落ち着いていたが、強かった。
有斗たちは素直に数歩下がる。
ゼルグラードは祠の前に立ち、手をかざした。
その指先に、ほんの僅かに黒い炎のような魔力が灯る。
次の瞬間、祠の中から淡い光が漏れた。
赤黒い光ではない。
白に近い、青白い光だった。
水門で見たものとは違う。
倉庫で感じた不気味さとも違う。
有斗は、その光を見た瞬間、胸の奥が強く揺れた。
懐かしい。
そう感じてしまった。
理由は分からない。
だが、確かに懐かしかった。
ノクスフィアの夜明け。
魔王城へ向かう前に見た空。
故郷の村の石畳。
仲間たちと旅した道。
忘れたと思っていた景色が、次々に頭の中へ浮かび上がる。
「勇者様?」
莉愛奈の声が聞こえた。
有斗は我に返る。
だが、莉愛奈も同じように祠の光を見つめていた。彼女の瞳はわずかに揺れている。
瀬玲奈も胸元に手を当て、唇を結んでいた。
三人とも同じものを感じている。
帰る道。
黒い傘の人物の言葉が、また頭の中で響いた。
「これ……何なの?」
葵の声が少し遠く聞こえる。
彼女には同じものが見えていないのかもしれない。
有斗は祠の中を見つめた。
そこには、小さな石の欠片が置かれていた。
ただの石ではない。
青白い光を宿し、表面には古い文字のようなものが刻まれている。
ゼルグラードが低く呟いた。
「境界石か」
「知っているのか」
有斗が聞く。
ゼルグラードは石から目を離さない。
「伝承でしか知らん。世界と世界の境目を固定するための石だと言われていた。だが、実物を見るのは初めてだ」
「それが、どうしてこの世界にある」
「それを知りたいのは俺も同じだ」
ゼルグラードの声にも、珍しく動揺が混じっていた。
黒い傘の人物が仕掛けたものではない。
少なくとも、最近作ったものではない。
もっと前からここにあったものだ。
その境界石が今、目を覚ましかけている。
有斗は嫌な予感を覚えた。
黒い傘の人物は、境界を広げようとしている。
だが、もしかすると彼は最初から何も作っていないのかもしれない。
この街に眠っていたものを、ただ起こしているだけなのではないか。
「帰れるのですか」
瀬玲奈が小さく言った。
その声に、有斗は振り向く。
瀬玲奈自身も、言ってしまってから戸惑っているようだった。
だが、その問いは全員の胸にあった。
この石が境界を固定するものなら。
この祠が戻りの祠と呼ばれているなら。
ここに、本当に帰る道の手掛かりがあるのではないか。
莉愛奈は唇を噛んでいた。
「もし、これがノクスフィアへ繋がるものなら……」
言葉は途中で止まる。
誰も続きを言えなかった。
帰りたい。
けれど、それを言葉にするのが怖かった。
葵は黙って三人を見ていた。
その表情には、複雑な感情が浮かんでいる。
寂しさ。
不安。
それでも止められないという理解。
有斗はそれを見て、胸の奥が痛んだ。
グリドラでの生活は、仮のものではなくなっていた。
だが、故郷もまた消えたわけではない。
どちらを選ぶのか。
そんな問いを突きつけられるには、まだ早すぎた。
「触るな」
ゼルグラードの声が鋭く響いた。
全員が彼を見る。
「その石はまだ安定していない。下手に触れれば、何が起きるか分からん」
その言葉で、有斗は一歩引いた。
自分でも気付かないうちに、祠へ近付いていた。
危なかった。
石の光に引き寄せられていたのだ。
「すまない」
有斗が言うと、ゼルグラードは何も言わずに祠を見た。
その顔も険しい。
彼もまた、何かを感じているのかもしれない。
その時、葵のスマホが震えた。
しおりからのメッセージだった。
葵は画面を開き、すぐに表情を変える。
「しおりちゃんから。黒い傘の投稿が出たって」
「場所は」
有斗が聞く。
葵は画面を見つめたまま答える。
「ここ」
全員が一瞬だけ黙った。
ここ。
戻りの祠。
つまり、黒い傘の人物はすでに近くにいる。
あるいは、ずっと見ている。
有斗は周囲を見回した。
緑地。
古い木。
夕方の住宅街。
人の気配はない。
だが、見られている感覚だけがあった。
ゼルグラードが低く言う。
「誘い出されたな」
その直後、祠の奥の境界石が強く光った。
青白い光が赤黒く濁っていく。
地面に刻まれていた黒い線が、一斉に浮かび上がった。
空気が震える。
葵がよろめき、瀬玲奈が支える。
莉愛奈が前へ出る。
有斗は祠の前に立ち、拳を握った。
木々の向こうから、黒い傘が見えた。
夕方の薄闇の中、雨も降っていないのに、その人物は静かに傘を差している。
「やはり来たか」
傘の下から声がした。
男とも女ともつかない、不思議な声。
水門で聞いた声と同じだった。
「ここは、戻るための場所だ」
黒い傘の人物は、ゆっくりと祠へ近付く。
「お前たちが望むなら、道は開く」
有斗の胸が揺れる。
莉愛奈も、瀬玲奈も、何も言わない。
葵の手が、リュックの肩紐を強く握っているのが見えた。
黒い傘の人物は静かに続けた。
「勇者よ。選べ」
境界石の光が、さらに強くなる。
青白い光と赤黒い光が混ざり合い、祠の周囲を包んでいく。
「この世界に残るか」
傘の奥の声が、甘く響いた。
「故郷へ帰るか」
有斗は祠の光を見つめた。
頭の中に、ノクスフィアの風景が広がる。
同時に、グリドラの古い外階段や、瀬玲奈の味噌汁、葵の呆れた顔、部長の寝息が浮かぶ。
二つの場所が胸の中で重なり、引き裂かれるような感覚があった。
だが、黒い傘の人物の足元で、黒い線がさらに広がっているのが見えた。
祠だけではない。
街へ向かって伸びている。
この選択そのものが、罠なのだ。
有斗は奥歯を噛みしめた。
帰る道が欲しくないわけではない。
だが、誰かに選ばされる道はいらない。
誰かを犠牲にして開く道もいらない。
「俺たちは」
有斗は一歩前へ出た。
祠の光が顔を照らす。
黒い傘の人物が静かに待っている。
有斗は拳を握り、はっきりと言った。
「お前の道では帰らない」
その瞬間、境界石の光が大きく揺れた。
まるで答えに反応したように。
黒い傘の人物の気配が、初めてわずかに乱れた。
「……そうか」
声が低くなる。
「ならば、道の方からお前たちを迎えに来るだけだ」
祠の地面が震えた。
黒い線が一気に広がり、緑地の外へ向かって走っていく。
街全体が、見えない何かに触れられたように震えた気がした。
有斗は目の前の黒い傘を睨む。
帰るか残るか。
その答えを出す前に、止めなければならないものがある。
戻りの祠の前で、境界はついに大きく揺れ始めた。




