古い祠
水門跡から戻る頃には、空はすっかり夕方の色に染まっていた。
グリーンハイツドラゴンの前まで来た時、有斗は思わず足を止めた。古びた二階建てのアパート。少し錆びた外階段。風に揺れる洗濯物。窓際で丸くなっている部長の姿。
いつもと変わらない景色だった。
それなのに、地下水路で聞いた言葉が頭から離れない。
帰る道。
黒い傘の人物は、確かにそう言った。
帰れなかった者たちは帰り、忘れられたものは目を覚ます。
有斗は自分の手を見下ろした。
剣はない。
鎧もない。
今の自分は、ホームセンターで働く現代の若者にしか見えない。
だが、その中身まで完全に変わったわけではない。
ノクスフィアで生まれ、勇者として戦い、仲間と共に魔王城へ向かった記憶は、今もはっきり残っている。
「有斗?」
葵の声で我に返る。
振り向くと、葵が少し心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「……ああ」
有斗は頷いた。
しかし、その返事が自分でも少し遅れたことに気付いていた。
葵も気付いていたのだろう。
何か言いたそうにしたが、結局何も言わずに玄関の扉を開けた。
今は、言葉にするには早すぎることがある。
有斗もそれを分かっていた。
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共有スペースへ戻ると、しおりがソファから半分だけ身を起こした。
片手にはスマホ、膝の上にはノートパソコン。
周囲にはメモと地図が散らばっている。
どう見てもだらしない姿なのに、目だけは妙に真剣だった。
「おかえり」
「ただいま」
葵が返事をしながら、テーブルの上を見て眉をひそめる。
「何これ。戦場?」
「情報戦」
しおりは短く答えた。
部長はその紙の上に前足を乗せて、何か重要な資料を踏んでいた。
しおりはそれをどかそうともせず、画面を指差す。
「祠、たぶん見つけた」
その一言で、疲れていた全員の空気が引き締まった。
有斗はテーブルへ近付く。
ゼルグラードも無言で画面を覗き込んだ。
表示されていたのは、住宅街の端にある小さな緑地だった。地図上では公園のようにも見える。だが拡大すると、その奥に古い祠があるらしい。
「ここ?」
葵が画面を見ながら首を傾げる。
「この辺、普通に住宅地じゃない?」
「普通の住宅地。でも昔は神社の一部だったっぽい」
しおりはノートパソコンの画面を切り替える。
古い地図。
地域の歴史をまとめた個人ブログ。
誰かが撮った祠の写真。
それらが順番に表示されていく。
「今はほとんど誰も管理してない。小さい祠だけ残ってる。地元だと“戻りの祠”って呼ばれてるらしい」
「戻りの祠……」
瀬玲奈が小さく呟いた。
その名前だけで、嫌な予感がした。
黒い傘の人物が言った“帰る道”。
水門に残された“祠”の文字。
それらが偶然重なったとは思えない。
莉愛奈も画面を見つめながら険しい顔をしていた。
「場所はグリドラから近いのですか?」
「歩きだと少しある。電車を使えば一駅。そこから徒歩十五分くらい」
「近すぎるな」
有斗が言うと、ゼルグラードが頷いた。
「倉庫、水門、時計台、そして祠。点が揃い始めている」
しおりは地図に赤い印を追加した。
それまで歪んでいた線が、祠の位置を入れたことで少しだけ形を持つ。
完全な円ではない。
だが、明らかに何かの構造だった。
街の中に巨大な魔法陣が描かれている。
そんな馬鹿げた考えが、だんだん馬鹿げていないものになっていく。
葵は腕を組んだまま、地図を睨むように見ていた。
「これ、本当にまずいよね」
誰も否定しなかった。
まずい。
その一言で済ませるには大きすぎる話だったが、今のところそれ以上うまい言葉も見つからなかった。
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佐々木は204号室で休んでいたが、話を聞きたいと言って共有スペースまで降りてきた。
まだ顔色は悪い。
右手の包帯も取れていない。
それでも昨日よりは歩き方がしっかりしている。
葵が椅子を引くと、佐々木は深く頭を下げてから腰を下ろした。
「すみません。またご迷惑を」
「今さらです」
しおりがスマホを見たまま言う。
葵が慌てて突っ込む。
「言い方」
「でも事実」
「事実でも言い方」
佐々木は少しだけ笑った。
その笑いは弱かったが、昨日よりも人間らしい表情だった。
少しずつ落ち着きを取り戻しているのだろう。
有斗はその姿を見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
普通の人だった。
仕事をして、家に帰って、たぶん家族や日常があった人。
それを、黒い傘の人物は勝手に巻き込んだ。
「佐々木さん」
瀬玲奈が穏やかに声をかける。
「祠という言葉に、何か覚えはありますか?」
佐々木は少し考えた。
包帯を巻いた右手を無意識に押さえる。
しばらく黙っていたが、やがて表情が曇った。
「……夢で、見たかもしれません」
全員が静かに続きを待つ。
「水の音の後に、赤い鳥居のようなものが見えました。でも、神社というより……もっと古くて、小さくて。誰もいない場所でした」
しおりが画面に表示された祠の写真を佐々木に向ける。
「これ?」
佐々木は写真を見た瞬間、息を呑んだ。
顔色がさらに悪くなる。
「これです」
その声は震えていた。
「私は、ここを知っています。行ったことがないはずなのに、知っている」
共有スペースの空気が重く沈んだ。
佐々木の記憶にまで祠が出てきた。
もう疑う余地はほとんどない。
次の起点はそこだ。
ゼルグラードは腕を組み、しばらく黙って地図を見ていた。
「黒い傘の人物は、こちらを誘導しているな」
「誘導?」
有斗が聞き返す。
「ああ。水門でわざわざ次の場所を示した。隠すつもりなら、あんな痕跡は残さない」
「罠ってこと?」
葵が言う。
ゼルグラードは否定しなかった。
「罠かもしれん。あるいは、見届けさせたいのかもしれん」
「見届けさせたい?」
「境界が広がる瞬間をだ」
その言葉で、全員が黙った。
黒い傘の人物は、有斗たちを避けているわけではない。
むしろ見せようとしている。
倉庫。
水門。
祠。
起点を追わせることで、何かを理解させようとしているようにも思えた。
それが余計に不気味だった。
「なら、行かないという選択肢もあるんじゃない?」
葵が言った。
その声は冷静だった。
「罠だって分かってるなら、わざわざ行く必要ない。警戒だけして、別の方法を探すとか」
正しい意見だった。
有斗もそう思った。
だが、行かなければ黒い傘の人物は次の誰かを使うかもしれない。
祠が起点として動き出せば、昨日の倉庫で見た影のようなものが現れるかもしれない。
そして、何より。
帰る道という言葉が、彼の中でずっと引っかかっていた。
行かないことが、本当に正解なのか。
止めに行くべきなのか。
それとも、もしかしたら。
本当に帰る道がそこにあるのか。
考えたくないはずの可能性が、どうしても心の奥に残る。
「勇者様」
莉愛奈が静かに言った。
有斗は顔を上げる。
彼女はまっすぐこちらを見ていた。
「私も、帰る道という言葉が気になっています」
有斗は何も言えなかった。
莉愛奈は続ける。
「ですが、あの人物のやり方は信じられません。誰かを操り、誰かを傷つけ、その先にある道が本当に故郷へ続いていたとしても、私はその道を選びたくありません」
瀬玲奈もゆっくり頷いた。
「私もです。帰れるなら、もちろん知りたいです。でも、佐々木さんや三枝さんのような人を犠牲にする道なら、それはきっと違います」
二人の言葉が、有斗の胸に静かに落ちていく。
自分だけではなかった。
皆、揺れている。
帰りたい気持ちがないわけではない。
それでも、選んではいけない道がある。
ゼルグラードが小さく息を吐いた。
「勇者パーティーらしい答えだな」
「馬鹿にしているのか」
有斗が睨むと、ゼルグラードは首を横に振った。
「褒めている」
その言葉が本心かどうかは分からない。
だが、少なくとも今のゼルグラードは笑っていなかった。
葵は少しだけ安心したように肩の力を抜く。
「じゃあ、行くなら止めに行くってことでいいんだよね」
「ああ」
有斗は頷いた。
「帰る道を探しに行くんじゃない。あいつを止めに行く」
言葉にした瞬間、迷いが少しだけ薄れた。
完全に消えたわけではない。
それでも、今はそれでよかった。
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祠へ向かうのは翌日の夕方に決まった。
昼間に様子を見る案もあったが、しおりの集めた情報では、黒い傘の目撃は夕方以降に集中している。危険は増すが、相手が動く時間に合わせなければ手掛かりを逃す可能性もあった。
葵はかなり嫌そうな顔をしたが、最終的には納得した。
ただし条件をいくつも付けた。
無理に近付かないこと。
連絡手段を確保すること。
佐々木は絶対に連れて行かないこと。
危険なら即撤退すること。
有斗は全てに頷いた。
葵の疑わしそうな目は最後まで消えなかったが。
夜になり、共有スペースに静けさが戻った後、有斗は一人で外階段に出た。
古い手すりに肘を乗せ、夜の街を見る。
遠くに駅前の明かりが見えた。
どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
グリドラのどこかの部屋では、しおりが動画を見ているのか小さな音が漏れていた。
普通の夜だった。
けれど、その下に境界崩落の影が広がっている。
「帰りたいか」
背後から声がした。
振り向かなくても分かった。
ゼルグラードだった。
「突然何だ」
「聞いておきたくなった」
有斗は夜の街へ視線を戻す。
すぐに答えは出なかった。
帰りたい。
その気持ちはある。
ノクスフィアを忘れたことなど一度もない。
だが、今の生活を失いたいかと聞かれたら、それも違った。
グリドラでの毎日。
葵の面倒くさそうな顔。
瀬玲奈の味噌汁。
莉愛奈の真面目すぎる言葉。
しおりのネット越しの情報戦。
部長のどうでもよさそうな寝顔。
それらはもう、ただの仮住まいではなくなっている。
「分からない」
有斗は正直に答えた。
ゼルグラードは少しだけ黙った後、低く笑った。
「勇者らしくない答えだな」
「そうか」
「ああ。昔のお前なら、迷わず帰ると言っただろう」
「昔のお前なら、迷わずこの世界を利用しただろうな」
有斗が言うと、ゼルグラードは否定しなかった。
「そうかもしれん」
短い沈黙が流れる。
敵だった二人が、古いアパートの外階段で並んで夜景を見ている。
おかしな光景だった。
それでも今は、それほど不自然ではない。
「俺も分からん」
ゼルグラードが静かに言った。
有斗は少し驚いて彼を見る。
「お前もか」
「帰る場所があるのかどうかも分からん。仮に戻れたとして、戻るべきなのかもな」
魔王だった男の横顔は、夜の中で少しだけ疲れて見えた。
現代で会社を受け継ぎ、人の中で生きている彼にも、もう簡単には捨てられないものがあるのかもしれない。
有斗は再び街を見た。
帰る道。
残る理由。
守るべき場所。
答えはまだ出ない。
だが一つだけはっきりしている。
黒い傘の人物に、その答えを決めさせるつもりはない。
翌日の夕方、古い祠へ向かう。
そこで何が待っているのかは分からない。
それでも有斗は、もう逃げるつもりはなかった。




