傘の下の声
地下水路の奥に、黒い傘の人物が立っていた。
水門跡の通路は狭く、湿った空気に満ちている。足元の水路では黒く見える水がゆっくり流れ、錆びた鉄の扉には赤黒い光が浮かんでいた。
雨など降っていない。
ここは地下だ。
それなのに、その人物は黒い傘を差している。
傘の縁が深く顔を隠していて、表情は見えない。声も、男とも女とも言い切れない奇妙な響きを持っていた。
「勇者と魔王が並んでいるとは、面白い時代になったものだ」
その言葉を聞いた瞬間、有斗の背筋に冷たいものが走った。
目の前の相手は知っている。
有斗が勇者だったことを。
ゼルグラードが魔王だったことを。
そして、おそらくノクスフィアのことも。
偶然ではない。
有斗は一歩前へ出た。
「お前は何者だ」
黒い傘の人物はすぐには答えなかった。
水路の音だけが、地下の通路に響く。
その沈黙が妙に長く感じられた。
隣でゼルグラードも動かない。
ただ、彼の表情からはいつもの余裕が消えていた。会社の社長として現代に馴染んだ顔ではない。かつてノクスフィアで魔王と呼ばれていた男の顔だった。
「答えろ」
有斗がもう一度言う。
黒い傘の人物は、わずかに首を傾けた。
「名乗るほどの名は、もう残っていない」
その声には笑みが混じっているようだった。
「ただ、そうだな。お前たちの言葉で言うなら、境界の管理者……いや、残骸とでも呼べばいい」
「境界の管理者?」
葵が小さく呟く。
彼女の声には困惑が滲んでいた。
無理もない。
勇者だの魔王だのだけでも十分おかしいのに、今度は境界の管理者である。
現代日本の地下水路で聞く言葉ではなかった。
ゼルグラードが低い声で言った。
「管理者など聞いたことがない」
「お前が知らぬのも当然だ。魔王ゼルグラード。お前たちが争っていた時代には、すでに我々は表舞台から消えていた」
「我々?」
莉愛奈が反応する。
黒い傘の人物は答えない。
代わりに、ゆっくりと水路の上を歩き始めた。
水を踏んでいるはずなのに、水音はほとんどしない。足元に影がないようにも見える。そこにいるのに、そこに存在していないような不気味さがあった。
有斗は身構えた。
武器はない。
だが、相手を葵たちへ近付けるつもりはなかった。
「止まれ」
黒い傘の人物は止まった。
まるで、命令を聞いたというより、有斗の反応を楽しんでいるようだった。
「変わらないな、勇者」
「俺を知っているのか」
「知っているとも。世界の終わりに立っていた者たちは、忘れようがない」
有斗は眉をひそめる。
世界の終わり。
それがノクスフィアでの最終決戦を指しているのか、それとも別の何かを指しているのかは分からなかった。
だが、その言葉は嫌に重かった。
瀬玲奈が葵の前に立つ。
その手は震えていない。
けれど、顔は少し青ざめていた。
「あなたは、佐々木さんたちに何をしたんですか」
黒い傘の人物は、初めて瀬玲奈の方を向いた。
「印を刻んだだけだ」
「本人の意思を奪って?」
「奪ったのではない。少し、道を示しただけだ」
その言い方に、有斗の中で静かな怒りが生まれる。
佐々木は苦しんでいた。
三枝も怯えていた。
記憶が曖昧になり、知らない場所へ向かわされ、右手に黒い紋様を刻まれた。
それを、道を示しただけと言う。
「ふざけるな」
有斗の声が地下に響いた。
「普通の人間を巻き込んでおいて、道を示しただけだと?」
黒い傘の人物は笑ったようだった。
傘の奥で、かすかに息が揺れる。
「普通の人間、か。勇者よ。この世界に来て、ずいぶん人間らしいことを言うようになったな」
「答えろ。何が目的だ」
「境界を戻す」
その言葉に、ゼルグラードの目が細くなった。
「戻す?」
「ああ。薄れ、閉じ、忘れられた道をもう一度開く。この世界とノクスフィアを、再び繋げる」
水門の黒い模様が、さらに強く光った。
赤黒い光が通路の壁に揺れる。
葵が息を呑む音が聞こえた。
有斗も同じだった。
再び繋げる。
佐々木が聞いた声。
三枝が聞いた声。
もう一度、繋げろ。
その意味が、ようやくはっきりした。
黒い傘の人物は、この世界とノクスフィアを繋げようとしている。
「そんなことをしたら、何が起きるか分かっているのか」
ゼルグラードが低く問う。
その声には、怒りと警戒が混じっていた。
「分かっているとも」
黒い傘の人物は静かに答えた。
「境界が開けば、失われたものが戻る。帰れなかった者たちは帰り、忘れられたものは目を覚ます」
「聞こえはいいな」
ゼルグラードは冷たく言う。
「だが、昨日倉庫で現れたものは何だ。あれはノクスフィアの魔物ではない」
「境界の向こう側には、世界だけがあるわけではない」
その言葉で、空気が一段冷えた。
有斗は昨日の黒い影を思い出す。
人でも獣でもない、輪郭の定まらない存在。
魔王ですら知らない何か。
もし境界を広げることで、あれと同じものがいくつも現れるなら。
それは帰る道どころではない。
この世界も、ノクスフィアも、ただでは済まない。
「お前は危険なものまで呼び込もうとしている」
有斗が言うと、黒い傘の人物はゆっくり首を傾げた。
「危険かどうかは、開いてみなければ分からない」
「人を巻き込んで試すな」
「勇者らしい正論だ」
傘の人物の声が少し低くなる。
「だが、お前も本当は望んでいるはずだ。帰る道を」
有斗は息を止めた。
その言葉だけは、すぐに否定できなかった。
帰れない勇者パーティー。
現代で暮らし、仕事を覚え、グリドラで食卓を囲む日々。
楽しいと思うことも増えた。
ここに居場所ができた。
それでも、ノクスフィアを忘れたわけではない。
自分たちが生まれ、戦い、守ろうとした世界。
そこへ帰る道があると言われれば、心が動かないはずがなかった。
「勇者様」
莉愛奈の声が聞こえた。
有斗は我に返る。
莉愛奈も、瀬玲奈も、きっと同じだ。
帰れるかもしれない。
その可能性は、甘い。
だからこそ危険だった。
ゼルグラードが有斗の横へ一歩出る。
「誘い方が下手だな」
黒い傘の人物がわずかに動いた。
「魔王よ。お前は帰りたくないのか」
「少なくとも、他人を鍵にして開いた道など信用できん」
「変わったな」
「よく言われる」
ゼルグラードは淡々と返した。
その横顔を見て、有斗は少しだけ気持ちを立て直す。
魔王でさえ、この誘いには乗らない。
ならば、自分が揺れている場合ではない。
「帰る道があるなら、いつか自分たちで探す」
有斗は黒い傘の人物を見据えた。
「でも、人を操って開く道はいらない」
地下水路の空気が張り詰める。
黒い傘の人物はしばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「ならば止めてみるといい」
その瞬間、水門の模様が強く輝いた。
足元の水路が大きく波立つ。
有斗たちは一斉に身構えた。
鉄の扉の向こうから、昨日倉庫で聞いたものと同じ低い響きが漏れ出してくる。
何かが、向こう側でこちらを見ている。
瀬玲奈が葵の腕を掴み、莉愛奈が前へ出た。
ゼルグラードの手には黒い炎のような魔力がわずかに灯る。
だが黒い傘の人物は戦おうとはしなかった。
傘を少しだけ傾ける。
その奥に、顔の輪郭のようなものが見えた気がした。
人間の顔ではなかった。
あるいは、人間だったものの顔かもしれない。
「次の起点で会おう」
その言葉と共に、地下の照明が一瞬だけ激しく明滅した。
視界が白く飛ぶ。
有斗は反射的に腕で顔を庇った。
次に目を開けた時、黒い傘の人物は消えていた。
残されたのは、赤黒く光る水門の模様と、足元を流れる冷たい水の音だけだった。
「逃げられた……」
葵が震える声で呟く。
有斗は答えられなかった。
悔しさよりも、今は胸の奥に残った言葉の方が重かった。
帰る道。
その言葉が、ずっと頭から離れない。
ゼルグラードは水門の模様を見つめたまま、静かに言った。
「急ぐ必要がある」
「次の起点か」
有斗が聞く。
「ああ。この水門はまだ完全には開いていない。だが、次は違うかもしれん」
瀬玲奈が不安そうに問う。
「次の起点は、どこにあるんですか」
ゼルグラードはすぐには答えなかった。
その沈黙の間、水の音だけが響いている。
やがて彼は、通路の奥に残された黒い線を見つけた。
壁に刻まれた小さな印。
水門の模様から伸びるように、矢印にも似た形をしている。
「これは……」
ゼルグラードの表情が険しくなる。
葵が懐中電灯を向けた。
印の先には、かすれた文字のようなものがあった。
現代の文字ではない。
ノクスフィアの古い文字だった。
有斗には読めない。
だがゼルグラードは読めたらしい。
低い声で、その意味を告げる。
「次は、祠だ」
「祠?」
葵が聞き返す。
ゼルグラードは頷いた。
「この街に、古い祠があるはずだ。おそらく、そこが三つ目の起点になる」
有斗は水門の奥を見つめた。
黒い傘の人物は消えた。
だが、言葉と痕跡を残していった。
まるでこちらを誘導するように。
それでも行くしかない。
止めるためには、追うしかない。
地下水路の冷たい空気の中で、有斗は静かに拳を握った。
帰る道。
境界を広げる者。
そして、次の起点。
グリドラの日常は、また一歩、ノクスフィアの闇へ近付いていた。




