水門跡
水門跡は、駅から少し離れた住宅街の外れにあった。
地図で見ればそこまで遠くない。
けれど実際に歩いてみると、街の表情が少しずつ変わっていくのが分かった。駅前の賑やかさは遠のき、商店街の明るい看板も見えなくなる。代わりに増えてきたのは、古い倉庫や資材置き場、フェンスで囲まれた空き地だった。
夏の午後なのに、人通りは少ない。
蝉の声だけが妙に大きく聞こえる。
有斗はリュックを背負い直しながら、周囲を見回した。
「静かだな」
「普通は用事がなければ来ない場所だからね」
葵がそう答える。
彼女はスマホの地図を見ながら歩いていた。
普段の葵なら、こういう人気のない場所へ自分から来ることはまずないだろう。けれど今日は、誰よりも真剣に道を確認している。
その横では莉愛奈が周囲を警戒し、瀬玲奈が少し不安そうに足元を見ていた。
ゼルグラードは何も言わずに前方を見つめている。
相変わらずスーツ姿だ。
水門跡へ向かう格好としてはあまりにも場違いだったが、不思議と本人は気にしていないらしい。
「その服、汚れてもいいのか」
有斗が聞くと、ゼルグラードは視線だけを向けた。
「替えはある」
「そういう問題なのか」
「社長は身だしなみも仕事のうちだ」
「魔王だった頃より面倒そうだな」
「実際、面倒だ」
真顔で返され、有斗は少しだけ肩の力が抜けた。
こんな状況でも、どうでもいい会話ができる。
それだけで、まだ自分たちは日常の側に立っている気がした。
やがて、細い道の先に古いフェンスが見えてきた。
錆びた金網。
色褪せた立入禁止の看板。
その向こうに、コンクリートで造られた低い建物がある。
建物というより、設備と言った方が近い。
水路へ繋がる管理施設のようだった。
葵がスマホを確認してから顔を上げる。
「たぶん、ここ」
誰もすぐには返事をしなかった。
フェンスの向こうにある水門跡は、昼間なのにどこか暗く見えた。
古いコンクリートには黒ずんだ汚れが広がり、建物の奥からは水の流れる音が微かに聞こえてくる。風が通るたびに、湿った匂いが鼻をかすめた。
佐々木が言っていた記憶。
水の音。
古い門。
黒い模様。
それらが一つずつ、目の前の景色と重なっていく。
「間違いなさそうだな」
有斗が言うと、ゼルグラードはフェンスの奥を見たまま頷いた。
「嫌な気配がある」
「お前が言うと説得力がありすぎる」
葵が小さく呟く。
ゼルグラードは何も返さなかった。
それが逆に、状況の悪さを物語っていた。
フェンスの扉には鍵がかかっているはずだった。
だが近付いてみると、南京錠は壊され、扉は少しだけ開いていた。
最近誰かが入ったのは明らかだった。
莉愛奈がすぐに前へ出る。
「私が先に確認します」
「いや、俺も行く」
有斗が続く。
葵はリュックから懐中電灯を取り出し、瀬玲奈も救急セットを抱え直した。
水門跡の敷地内へ入ると、足元の草が伸び放題になっていた。誰かが手入れをしている様子はない。けれど草の一部だけが踏み倒され、奥へ続く細い道ができていた。
人が通った跡だ。
しかも一度や二度ではない。
「黒い傘の人物か」
有斗が呟く。
「本人か、刻まれた者か、どちらかだろう」
ゼルグラードの声は低かった。
コンクリートの建物に近付くにつれ、水の音が大きくなっていく。
入口は半地下へ続く階段になっていた。
薄暗い。
中から流れてくる空気は冷たく、外の暑さとは別の場所に繋がっているようだった。
葵が思わず腕をさする。
「……ここ、絶対普通じゃない」
「普通なら立入禁止だからな」
「そういう現実的な話じゃなくて」
葵の声には冗談めかした響きもあったが、その顔は笑っていなかった。
有斗も同じだった。
階段の奥から漂ってくる気配が、昨日の倉庫に似ている。
埃と湿気と古い水の匂い。
そして、それとは別の何か。
ノクスフィアの魔力に似ているが、少し違う。
もっと濁っていて、冷たい。
「行くぞ」
有斗が言うと、全員が静かに頷いた。
階段を下りる。
一段進むたびに、外の音が遠ざかっていった。
蝉の声。
車の走る音。
遠くの人の声。
それらが少しずつ薄れ、代わりに水の流れる音が耳の奥へ入り込んでくる。
地下へ降りると、狭い通路が左右に伸びていた。
壁は湿っていて、ところどころに苔がついている。天井の古い照明はほとんど壊れており、葵が持つ懐中電灯の光だけが頼りだった。
光の先に、浅い水路が見える。
水はゆっくりと流れていた。
黒く濁っているわけではない。
けれど、不思議と底が見えなかった。
「佐々木さんが言っていた水の音……これですね」
瀬玲奈が小さく言った。
その声は通路に反響して、少し遅れて戻ってくる。
有斗は頷き、足元を確かめながら進んだ。
通路の床には、泥の跡が残っている。
靴跡もあった。
複数人分ではない。
一人分のようにも見える。
ただ、その歩幅は妙に一定だった。
まるで意思を持たずに歩かされた人間の足跡のように。
佐々木も、ここへ来ていたのかもしれない。
そう思った瞬間、有斗は胸の奥が少し重くなった。
「こっちだ」
ゼルグラードが先へ進む。
通路の奥に、錆びた鉄の扉が見えた。
水門と呼ぶには小さい。
けれど、確かに門のような形をしている。
その扉の中央に、黒い模様が描かれていた。
有斗たちは思わず足を止める。
倉庫の床にあった魔法陣。
時計台の下に残されていた簡易の印。
それらと同じ系統の模様だった。
ただし、ここに描かれているものはもっと複雑で、もっと古く見えた。
「これが二つ目の起点か」
有斗が言う。
ゼルグラードは黙って扉へ近付いた。
黒い模様をじっと見つめ、その表面には触れずに指先をかざす。
しばらくして、彼の表情がわずかに変わった。
「……古いな」
「古い?」
「ああ。倉庫の魔法陣は最近描かれたものだった。だが、これは違う。ずっと前からここにあったものを、最近になって再び動かしたように見える」
その言葉に、葵が眉をひそめる。
「ずっと前からって、いつから?」
「分からん」
ゼルグラードは短く答える。
「少なくとも、佐々木が関わるより前だ」
有斗は鉄の扉を見つめた。
黒い模様は、コンクリートと錆の中に半ば埋もれるように刻まれている。誰かが最近ペンキで描いたものではない。もっと深く、まるで施設そのものに傷として残っているようだった。
この街に、最初からこんなものがあったのか。
それとも、ずっと昔に誰かが仕込んでいたのか。
考えれば考えるほど、嫌な予感が強くなる。
莉愛奈が静かに言った。
「勇者様。ここは、倉庫よりも危険に感じます」
「俺もそう思う」
有斗はすぐに答えた。
倉庫の時とは違う。
あそこは起動しようとしている魔法陣だった。
だがここは、眠っていたものが目を覚ましかけているような不気味さがある。
瀬玲奈は胸元に手を当て、目を閉じていた。
祈りの形に似ている。
しばらくして、彼女はゆっくり目を開けた。
「この奥から、何か聞こえます」
「水の音ではなく?」
葵が尋ねる。
瀬玲奈は小さく頷いた。
「声のようなものです。でも、人の声ではありません」
その場の空気が凍った。
有斗は耳を澄ませる。
最初は水の音しか聞こえなかった。
だが意識を集中すると、その奥に別の音が混じっている気がした。
低く、遠く、言葉にならない響き。
まるで扉の向こう側で、何かが眠りながら呼吸しているようだった。
「開けるな」
ゼルグラードが言った。
その声は、これまでで一番鋭かった。
「この扉は開けるな」
有斗は彼を見る。
「開けるつもりはない。だが、調べないわけにもいかない」
「調べるなら外側からだ。中に入れば、戻れなくなる可能性がある」
魔王がそこまで言う。
有斗は扉を見つめたまま、慎重に頷いた。
この扉の向こうに何があるのか。
知りたい。
だが、今は好奇心で踏み込む場面ではない。
葵がスマホを取り出し、写真を撮ろうとした。
その瞬間だった。
画面が真っ暗になった。
「え?」
葵が何度か電源ボタンを押す。
反応しない。
「壊れた?」
「私のもです」
瀬玲奈がスマホを確認する。
莉愛奈のスマホも、有斗のスマホも同じだった。
全て電源が落ちている。
しおりとの連絡も取れない。
ゼルグラードが険しい顔で鉄の扉を見た。
「起点が反応している」
「何に」
有斗が聞く。
答えはすぐに分かった。
鉄の扉に刻まれた黒い模様が、ゆっくりと光り始めたからだ。
赤黒い光。
倉庫で見たものと同じ色だった。
水の音が大きくなる。
足元の水路が波立つ。
地下の空気が一気に冷たくなり、葵が息を呑んだ。
「何もしてないよね?」
「ああ」
有斗は扉から目を離さずに答えた。
「だが、向こうが気付いた」
ゼルグラードの声が低く響く。
その直後、通路の奥から足音が聞こえた。
水を踏む音だった。
一歩。
また一歩。
誰かが、こちらへ近付いてくる。
有斗は身構えた。
莉愛奈も前へ出る。
瀬玲奈が葵を庇うように立つ。
暗い通路の先に、黒い傘が見えた。
地下だ。
雨など降るはずがない。
それなのに、その人物は黒い傘を差したまま、水路の上を歩いていた。
傘の奥から、顔は見えない。
ただ、笑っている気配だけがあった。
「ようやく来たか」
声がした。
男とも女ともつかない、不思議な声だった。
有斗は拳を握る。
目の前にいるのが、ずっと人々に紋様を刻んでいた人物。
佐々木を操り、三枝を狙い、街に印を残していた相手。
黒い傘の人物は、水門の赤黒い光を背にして立ち止まった。
「勇者と魔王が並んでいるとは、面白い時代になったものだ」
その言葉に、有斗の背筋が冷えた。
この人物は知っている。
有斗のことも。
ゼルグラードのことも。
そしておそらく、ノクスフィアのことも。
水門跡の暗い通路で、見えない境界がまた一つ揺れた。




