もう1つの起点
翌朝のグリーンハイツドラゴンは、いつもより少しだけ騒がしかった。
騒がしいといっても、大声で誰かが叫んでいるわけではない。瀬玲奈が朝食の皿を並べる音、莉愛奈が椅子を引く音、しおりがスマホを操作する小さな音。それぞれはいつもと変わらないはずなのに、共有スペースに漂う空気だけが明らかに違っていた。
テーブルの中央には、しおりが印刷した地図が広げられている。
昨日の駅前。
時計台。
黒い傘の人物が立っていた場所。
三枝真由美の右手に紋様が浮かんだ場所。
さらに、佐々木が倒れていた郊外の倉庫。
それらを赤い線で結ぶと、街の中にいびつな形が浮かび上がる。
有斗はその地図を見下ろしながら、昨夜からずっと消えない嫌な感覚を覚えていた。
ノクスフィアの魔法陣は、床や壁に描くものだと思っていた。少なくとも有斗が知っている範囲ではそうだった。だが今、目の前にある地図は、街そのものを線で結んで魔法陣にしようとしているように見える。
もしそれが本当なら、相手の狙いは倉庫一つでは終わらない。
この街の一部を使って、境界を広げようとしていることになる。
「こうやって見ると、やっぱり気持ち悪いね」
葵がコーヒーを片手に呟いた。
眠そうな顔をしているが、目だけは地図から離れない。昨日の出来事で、葵も完全に他人事ではいられなくなっていた。
「普通の地図なのに、普通に見えない」
「普通の地図を普通じゃないことに使っているからな」
有斗が答えると、葵は嫌そうに眉を寄せた。
「それ、最悪な説明」
「俺も言っていて嫌になった」
二人のやり取りに、瀬玲奈が苦笑しながら湯呑みを置いた。
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐに全員の視線は地図へ戻った。
しおりはソファに半分沈み込むように座りながら、スマホとノートパソコンを同時に見ていた。普段は部屋から出ることすら面倒くさがるくせに、ネット上の情報を追う時だけは妙に集中力がある。
「昨日の書き込み、かなり消えてる」
しおりがぽつりと言った。
葵が顔を上げる。
「消えてるって、本人が消したの?」
「分からない。でも、似た書き込みが出ては消えてる。黒い傘、声、手の痣、記憶が変。だいたい同じ」
「それって、結構まずくない?」
「かなりまずい」
しおりは淡々と答えた。
淡々としているせいで、逆に怖さが増す。
有斗は画面を覗き込んだ。
そこには、投稿されたばかりの短い文章が表示されていた。
『駅の近くで黒い傘の人を見た気がする』
『声をかけられた後、家までの記憶がない』
『手に変な模様が出たけど、写真を撮ろうとしたら消えた』
どれも曖昧な内容だった。
だが、昨日の三枝と同じだ。
完全に紋様が刻まれる前なら、痕跡は薄い。本人も体調不良や勘違いだと思ってしまうのかもしれない。
「佐々木さんの時は、もっと濃かった」
瀬玲奈が静かに言う。
「倉庫の魔法陣と結び付いていたからでしょうか」
「おそらくな」
そう答えたのはゼルグラードだった。
彼は朝早くからグリドラに来ていた。スーツ姿で共有スペースの椅子に座っている様子は、何度見ても妙な違和感がある。元魔王というより、取引先との打ち合わせ前に資料を確認している社長にしか見えない。
「佐々木は起点に使われた。三枝という女は、その前段階で止められた。そう考えれば説明はつく」
「起点……」
葵がその言葉を繰り返す。
「つまり、人を使って魔法陣を動かしてるってこと?」
「正確には、人に刻んだ紋様を鍵にしているのだろう」
ゼルグラードは地図の倉庫の位置を指差した。
「倉庫に描かれていた魔法陣だけでは、あの影は完全には出てこられなかったはずだ。佐々木に刻まれた紋様が反応して、境界を一時的に開いた」
「じゃあ、同じことが別の場所でも起きる可能性がある」
有斗が言うと、ゼルグラードは頷いた。
「ある」
短い答えだった。
その一言だけで、共有スペースにまた重たい沈黙が落ちる。
昨日の倉庫で見た黒い影が、別の場所にも現れるかもしれない。
それも、人の多い街の中で。
有斗は無意識に拳を握っていた。
普通の人間を使い、記憶を曖昧にし、街に印を刻み、境界を広げる。
やり方があまりにも静かで、いやらしい。
魔物が目の前から襲ってくる方がまだ分かりやすかった。
「その水門跡っていうのが、次の起点なんだよな」
有斗が地図を見る。
昨日、しおりが見つけた書き込みにあった手掛かり。
水の音。
古い門。
黒い模様。
それらが示していたのは、街外れにある古い水門跡だった。
今はほとんど使われていない地下排水施設で、周辺は人通りも少ない。しおりによれば、ネットの廃墟系や都市伝説系の話題では何度か名前が出ている場所らしい。
「確定ではない」
ゼルグラードはそう言ったが、その声にはほとんど否定の響きがなかった。
「だが、倉庫と時計台の位置関係を見る限り、もう一つ起点があるなら水門跡の可能性は高い」
「行くしかないか」
有斗が言うと、葵がすぐに睨む。
「今すぐ飛び出すのはなし」
「分かっている」
「本当に?」
「……分かっている」
少し間が空いたせいで、葵の目がさらに疑わしくなった。
莉愛奈まで真面目な顔で頷く。
「勇者様は、分かっていると言いながら危険な方へ進む癖があります」
「そこまでか」
「そこまでです」
瀬玲奈も否定しなかった。
有斗は思わず黙る。
グリドラに来てから、自分の扱いがずいぶん雑になった気がする。だが、それだけ心配されているのだと分かるから、強く言い返す気にもなれなかった。
「今回は準備して行く」
葵がテーブルを軽く叩いた。
「懐中電灯、軍手、救急セット、飲み物。あと、危なかったらすぐ引き返す。これ絶対」
「分かった」
「あと、スマホは必ず持つ。充電も満タン。しおりちゃんと常に連絡できるようにする」
「ネット班、待機する」
しおりがソファから手を上げる。
やる気があるのかないのか分からない姿勢だったが、少なくともスマホの画面を見る目は真剣だった。
「水門跡の情報、できるだけ集める。あと、周辺の書き込みも監視する」
「助かる」
有斗がそう言うと、しおりは少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
「外に出ない仕事なら任せて」
葵が呆れたように笑う。
いつものグリドラの空気が少しだけ戻った。
けれど、その時だった。
二階から足音が聞こえた。
全員が階段の方を見る。
ゆっくり降りてきたのは佐々木だった。
顔色はまだ悪いが、昨日よりはしっかり歩けている。右手には包帯が巻かれていて、黒い紋様は見えない。それでも本人はその手を庇うようにしていた。
「佐々木さん、まだ休んでいた方が」
瀬玲奈が慌てて近付く。
佐々木は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。部屋にいると、どうしても落ち着かなくて」
その声は弱いが、昨日よりは確かだった。
葵が椅子を引く。
「座ってください。お茶入れますね」
「ありがとうございます」
佐々木は遠慮がちに腰を下ろした。
その姿は本当に普通の会社員にしか見えない。倉庫で黒い影を呼び寄せた中心にいた人物とは、とても思えなかった。
有斗は少し迷ってから、地図を隠さずにそのままにした。
もう佐々木は巻き込まれている。
本人にとってはつらい情報でも、何も知らせないまま守ることはできない。
「水門跡のことを調べている」
有斗が言うと、佐々木の肩が僅かに揺れた。
「水門……」
その反応に、全員が気付いた。
ゼルグラードの目が細くなる。
「何か思い出したか」
佐々木は額に手を当てた。
無理に思い出そうとしているのか、呼吸が少し乱れる。
瀬玲奈が止めようとしたが、佐々木は小さく首を横に振った。
「水の音が、しました」
「水の音?」
有斗が聞き返す。
佐々木はゆっくり頷いた。
「倉庫に行く前も、夢の中でも、ずっと水が流れる音がしていた気がします。暗い場所で、足元に水があって……古い鉄の扉みたいなものが見えて……そこに黒い模様がありました」
共有スペースが静まり返る。
それは、しおりが見つけた書き込みと同じだった。
水の音。
古い門。
黒い模様。
佐々木の記憶と、ネット上の断片が繋がった。
「やっぱり水門跡だ」
しおりが小さく言う。
葵は顔をしかめた。
「できれば外れててほしかった」
有斗も同じ気持ちだった。
だが、もう偶然とは思えない。
ゼルグラードは地図の水門跡に指を置いた。
「倉庫が一つ目の起点。時計台は紋様を刻むための中継地点。そして水門跡が二つ目の起点だとすれば、かなり筋が通る」
「二つ目があるなら、三つ目もあるのか」
莉愛奈が聞く。
ゼルグラードはすぐには答えなかった。
その沈黙が答えのようなものだった。
「あると考えるべきだ」
有斗は地図を見る。
赤い線で結ばれた街。
その中に、まだ見えていない点がいくつも隠れているのかもしれない。
黒い傘の人物は、それを一つずつ起動させようとしている。
境界を広げるために。
「俺も行きます」
佐々木が突然言った。
全員が彼を見る。
佐々木は包帯を巻いた右手を握りしめていた。
声は震えている。
それでも、目だけは逃げていなかった。
「私が見た場所かもしれないんですよね。だったら、行けば何か思い出せるかもしれません」
「駄目です」
瀬玲奈がすぐに言った。
優しい彼女にしては、かなりはっきりした言い方だった。
「まだ体が戻っていません。それに、佐々木さんは紋様に狙われています。現場へ行けば、また何か起きるかもしれません」
「でも」
佐々木は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
悔しそうだった。
怖いのに、逃げるだけではいられない。
その気持ちは有斗にも分かった。
ゼルグラードは静かに佐々木を見ていた。
「お前は鍵にされた可能性がある。連れて行けば、相手の思う通りになるかもしれん」
言い方は厳しい。
だが、間違ってはいなかった。
佐々木は俯き、包帯の上から右手を押さえた。
葵が少しだけ表情を和らげる。
「ここで待っていてください。何か思い出したら、すぐ教えてください。それも大事な役目です」
佐々木はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「分かりました」
その声には、まだ悔しさが残っていた。
有斗はその気持ちを胸にしまう。
自分が何とかする。
そう簡単に言える相手ではない。
けれど、放っておくことはできない。
昼過ぎ、有斗たちは水門跡へ向かう準備を始めた。
準備といっても、現代で剣や鎧を持ち歩くわけにはいかない。葵が用意したリュックには、懐中電灯、軍手、タオル、飲み物、簡易救急セットが入っている。
「完全に廃墟探索の装備だね」
葵がリュックを確認しながら言った。
「廃墟探索とは何だ」
有斗が聞くと、葵は少し困った顔をする。
「普通はやっちゃ駄目なやつ」
「駄目なのか」
「駄目。でも今回は……まあ、世界の危機っぽいから特例」
葵は自分で言ってから、ものすごく嫌そうな顔をした。
世界の危機。
その言葉は、古いアパートの共有スペースにはあまりにも似合わない。
部長が窓際でのんびりあくびをしているせいで、余計にそう思う。
だが、冗談では済まなくなってきている。
ゼルグラードは玄関でスマホを確認していた。
会社の部下に何か指示を出しているらしい。
魔王だった男が部下に業務連絡をし、そのまま街の水門跡へ向かおうとしている。
有斗はその光景を見て、少しだけ頭が痛くなった。
「社長も大変だな」
有斗が言うと、ゼルグラードは視線だけを向ける。
「勇者も似たようなものだろう」
「俺は今、ホームセンターのバイトだ」
「ならば今日は休みか」
「そうだ」
「有給か?」
「有給って何だ」
葵が横で小さく笑った。
緊張していた空気が少しだけ和らぐ。
こういうくだらない会話があるだけで、グリドラはまだ日常の中にあるのだと思える。
玄関では莉愛奈が靴ひもを結び、瀬玲奈が救急セットを確かめていた。
しおりはソファから手だけを振る。
「何かあったら連絡して」
「お前もな」
有斗が返すと、しおりは親指を立てた。
「ネットの海は任せて」
やる気があるのかないのか、やはり分からない。
だが今は頼もしかった。
有斗は玄関の扉を開ける。
夏の空気が流れ込んでくる。
いつもの街。
いつもの午後。
そのどこかに、もう一つの起点がある。
振り返ると、佐々木が階段の途中からこちらを見ていた。
不安そうで、悔しそうで、それでも何かを託すような目だった。
葵が「行ってくるね」と声をかけると、佐々木は深く頭を下げる。
有斗はその姿を見て、改めて思った。
これはもう、自分たちだけの問題ではない。
この世界に生きる人間が、すでに巻き込まれている。
だから止めなければならない。
勇者だったからではなく、今この場所で暮らしている一人として。
有斗はグリドラの外へ踏み出した。
水門跡へ向かう道の先で、見えない境界が静かに揺れているような気がした。




