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帰れない勇者パーティーがうちに住みつきました  作者: leemero


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消えた黒い傘

駅前の時計台の下には、夕方の人混みだけが残っていた。


ついさっきまでそこにいたはずの黒い傘の人物は、跡形もなく消えている。


雨も降っていない。


強い日差しがあるわけでもない。


それなのに、その人物は黒い傘を差して立っていた。


そして有斗が駆け寄ろうとした瞬間、強い風と共に姿を消した。


魔法。


そう考えるのが一番自然だった。


だが、ここはノクスフィアではない。


駅前の商店街であり、周囲には買い物客や学生、会社帰りの人間が普通に歩いている。


その中で起きた異常に、誰一人気付いていないように見えた。


「……消えた」


有斗は人混みの向こうを睨みながら呟いた。


ゼルグラードも隣に立ち、同じ方向を見ている。


その表情は険しかった。


「あれは転移ではないな」


「分かるのか」


「完全に移動したなら、もっと痕跡が残る。今のは周囲の認識をずらして姿を隠したに近い」


有斗には半分ほどしか理解できなかった。


ただ、目の前で逃げられたことだけは分かる。


悔しさが胸の奥に残った。


けれど、今は黒い傘を追うより先にやるべきことがあった。


時計台の下で立ち尽くしている女性である。


買い物袋を片手に持った、三十代くらいの女性だった。


目の焦点が合っていない。


まるで夢の中を歩いているように、ぼんやりと空を見上げている。


そして右手の甲には、薄い黒い紋様が浮かんでいた。


倉庫で見た佐々木のものよりは淡い。


だが、形はよく似ている。


有斗は周囲に不審がられないよう気を付けながら、女性へ声をかけた。


「大丈夫ですか」


女性はすぐには反応しなかった。


数秒遅れて、ゆっくりと有斗を見る。


「え……?」


その声はひどく頼りなかった。


自分がどこに立っているのかも分かっていないようだった。


「気分が悪いんですか」


ゼルグラードが落ち着いた声で聞く。


スーツ姿の彼が声をかけると、周囲から見てもそこまで不自然ではない。こういう時だけは、現代社会に馴染んだ魔王という存在が妙に便利だった。


女性は自分の手を見る。


黒い紋様に気付いた瞬間、小さく息を呑んだ。


「なに、これ……」


恐怖が声に滲む。


有斗はすぐに言葉を選んだ。


ここで魔法だの異世界だのと言っても混乱させるだけだ。


「落ち着いてください。さっき、黒い傘の人物と話していましたよね」


「黒い、傘……」


女性はその言葉を繰り返す。


記憶を探るように眉を寄せた。


だが、すぐに首を横に振る。


「分からないんです。買い物をして、駅に向かって、それから……誰かに声をかけられて……」


そこまで言って、女性は口元を押さえた。


何かを思い出したのか、顔色が一気に悪くなる。


「もう一度、繋げろって」


その言葉を聞いた瞬間、有斗とゼルグラードは視線を交わした。


佐々木と同じだった。


黒い傘の人物は、間違いなく同じ言葉を使っている。


「名前を聞いてもいいですか」


ゼルグラードが尋ねると、女性は少し怯えながらも答えた。


「三枝です。三枝真由美」


「三枝さん。今は安全な場所へ移動した方がいい。ご家族に連絡は取れますか」


「夫が……でも、なんて説明すれば」


三枝は右手の紋様を隠すように左手で覆った。


無理もない。


突然、手に得体の知れない模様が浮かび、記憶も曖昧になっている。


普通なら病院へ行くべきだ。


だが、病院で説明できるものではない。


まして、この紋様が佐々木と同じように何かを呼び寄せる可能性があるなら、人の多い場所へ置いておくのは危険だった。


有斗は小さく息を吐いた。


まただ。


また、普通の人間が巻き込まれている。


「グリドラに連れて行くのは危険だ」


先に言ったのはゼルグラードだった。


有斗は彼を見る。


「なぜだ」


「佐々木がいる。もし二つの紋様が反応すれば、アパートごと巻き込まれる可能性がある」


その言葉に、有斗は黙った。


確かにそうだ。


守るために連れて帰るつもりが、逆に危険を呼び込むかもしれない。


「じゃあどうする」


「俺の会社に一時的な部屋がある。表向きは体調不良の客人として休ませることはできる」


「社員に説明できないと言ってなかったか」


「一人ならどうにかなる。二人目は無理だ」


ゼルグラードは真顔で答えた。


変なところで現実的だった。


有斗は少し迷ったが、今はそれが一番安全に思えた。ゼルグラードの会社なら人目も管理しやすい。少なくとも駅前で放置するよりはいい。


「三枝さん、少しだけ俺たちについて来てもらえますか」


有斗が言うと、三枝は不安そうにこちらを見る。


当然だ。


見知らぬ男二人に突然そう言われて、安心できるはずがない。


有斗はできるだけ穏やかに続けた。


「無理にとは言いません。でも、その手の模様は、さっきの黒い傘の人物と関係しているかもしれない。放っておくと危ない可能性があります」


三枝は迷っていた。


その時、右手の紋様が一瞬だけ薄く光った。


彼女自身もそれに気付き、肩を震わせる。


「……お願いします」


小さな声だった。


有斗は頷いた。


---


ゼルグラードが手配した車に三枝を乗せた後、有斗は駅前に残った。


黒い傘の人物が消えた場所を、どうしてももう一度確認したかった。


時計台の下には、特に変わったものはない。


石畳。


ベンチ。


駅へ向かう人の流れ。


ただ、時計台の柱の根元に、黒い線のようなものが薄く残っていた。


有斗はしゃがみ込み、指先で触れないように覗き込む。


見覚えのある形だった。


完全な魔法陣ではない。


だが、倉庫の床に描かれていた模様の一部と似ている。


「簡易の印だな」


戻ってきたゼルグラードが隣に立った。


「ここで紋様を刻むための目印か」


「おそらくな。黒い傘の人物は、場所ごとにこうした印を残している」


つまり、街のあちこちに同じものがあるかもしれない。


有斗は顔を上げ、駅前の人混みを見た。


誰も気付いていない。


自分たちが毎日歩く道の下に、異世界に関わる印が刻まれていることなど、誰も想像していない。


それが不気味だった。


魔物が目の前に現れるよりも、ずっと静かで、ずっと嫌なやり方だった。


「これを消せるか」


有斗が聞くと、ゼルグラードは少しだけ考えた。


「完全には無理だ。だが、一時的に働きを鈍らせることはできる」


そう言って、彼は時計台の柱に手をかざした。


ほんの一瞬だけ、黒い炎のような魔力が指先に宿る。


周囲の人間には見えていないのか、誰も反応しない。


印の黒い線が薄くなり、やがて石畳に溶けるように消えていった。


ゼルグラードは手を下ろす。


「長くは持たん」


「それでも今は十分だ」


有斗は立ち上がった。


黒い傘は逃げた。


けれど、何も掴めなかったわけではない。


紋様を刻まれかけた三枝。


時計台に残された印。


そして、黒い傘が使う方法。


少しずつだが、相手の動きが見え始めている。


その時、有斗のスマホが震えた。


しおりからだった。


『さっきの投稿、消えた』


続けてもう一通。


『でもスクショは取った。あと、似た書き込み見つけた。水の音、古い門、黒い模様って書いてある』


有斗はその文面を見つめた。


水の音。


古い門。


黒い模様。


まだ意味は分からない。


だが、次に向かうべき場所を示している気がした。


ゼルグラードも画面を覗き込み、表情を険しくする。


「水門かもしれんな」


「水門?」


「古い施設だ。この辺りには、昔使われていた地下排水路がある」


有斗は駅前の喧騒を聞きながら、どこか遠くで水が流れる音を想像した。


街の下。


人々の足元。


見えない場所で何かが動いている。


黒い傘の人物は消えた。


だが、追うべき糸は残されていた。


---


夜。


グリーンハイツドラゴンへ戻ると、共有スペースではしおりが得意げにスマホを掲げていた。


「スクショ、全部保存した」


葵が感心したように言う。


「今回ばかりは本当に助かる」


「今回ばかり?」


「いや、いつも助かってる」


「嘘っぽい」


しおりはそう言いながらも、少しだけ満足そうだった。


瀬玲奈は佐々木の様子を見てから戻ってきた。


「佐々木さんは落ち着いています。ただ、三枝さんのことを話したら、少し動揺していました」


無理もない。


自分と同じことが他の人間にも起きていると知れば、不安になるだろう。


有斗はテーブルに座り、しおりが印刷した地図を見る。


水の音。


古い門。


黒い模様。


その手掛かりを、しおりが地図上の一か所へ結び付けていた。


「ここ」


しおりが指差す。


「古い水門跡。今は使われてないけど、地下水路に繋がってるらしい」


葵は地図を見て嫌そうな顔をした。


「絶対行きたくない場所だ」


「行くことになるな」


有斗が言うと、葵はさらに嫌そうな顔をした。


「分かってたけどさ」


ゼルグラードは地図を見ながら静かに言った。


「倉庫が一つ目の起点なら、水門跡はもう一つの起点かもしれない」


その言葉で、共有スペースの空気が引き締まる。


街全体を使った魔法陣。


複数の起点。


黒い傘の人物。


境界を広げる者。


ばらばらだったものが、少しずつ形を作り始めている。


有斗は地図から目を離さなかった。


次に行くべき場所は決まった。


水門跡。


そこに、黒い傘の人物へ繋がる手掛かりがある。


そしておそらく、境界崩落がまだ終わっていない証拠も。


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