黒い傘の人物
しおりのスマホ画面に並んだ書き込みを見た瞬間、共有スペースの空気が変わった。
『黒い傘の人に会った』
『声が聞こえる』
『もう一度、繋げろって』
それは、佐々木だけに起きた出来事ではなかった。
今この瞬間にも、どこかで誰かが同じ声を聞いている。
その事実は、昨日の倉庫で見た黒い影よりも、ある意味では不気味だった。
影は目の前にいた。
魔法陣も目の前にあった。
だが、これは違う。
普通の街の中に、すでに入り込んでいる。
有斗はテーブルの上に置かれたスマホを見つめたまま、しばらく黙っていた。
画面の向こう側にいる投稿者たちは、たぶん自分たちが何に巻き込まれているのか分かっていない。
ただ少し変なものを見た。
記憶が曖昧になった。
手に痣が出た。
その程度の認識なのかもしれない。
だが有斗たちは知っている。
その先に、昨日の倉庫がある。
魔法陣がある。
そして、この世界のものではない何かが現れる。
「場所は?」
有斗が聞くと、しおりは無言で地図アプリを開いた。
投稿に書かれていた駅名や目撃場所を拾い、指で次々と印を付けていく。普段はソファから動こうとしないくせに、こういう時だけは妙に手際が良い。
地図上にいくつかの点が並んだ。
その点は完全な円ではないが、昨日の倉庫を中心に弧を描くように広がっていた。
「やっぱり、この辺り」
しおりが言う。
葵が画面を覗き込んで眉を寄せた。
「うちから近いじゃん」
グリーンハイツドラゴンからも、決して遠くない。
電車で数駅。
自転車でも行こうと思えば行ける距離だった。
つまり、異変はもうどこか遠くの話ではなかった。
ゼルグラードは地図を見つめたまま、静かに言った。
「黒い傘の人物が同じ者なら、目撃地点を順番に移動している可能性がある」
「次に現れる場所も予測できるか?」
有斗が聞く。
「正確には難しい。ただ、もし魔法陣の外周をなぞっているのなら、次の候補は絞れる」
ゼルグラードはスマホを受け取り、地図の上で指を滑らせた。
表示されたのは、駅前の商店街だった。
夕方になると人通りが増える場所だ。
学校帰りの学生。
買い物帰りの主婦。
会社帰りの人たち。
そんな普通の人間が行き交う場所に、黒い傘の人物が現れるかもしれない。
葵は嫌そうな顔をした。
「人が多いところじゃん」
「だから狙うのかもしれない」
ゼルグラードの声は低かった。
「目撃者が多ければ紛れやすい。仮に誰かが異変を感じても、ただの体調不良や思い込みで済まされる」
現代は便利な世界だ。
有斗もそれはよく知っている。
だが便利である一方で、人々は異常を見ても、すぐに異世界や魔法とは結び付けない。
それは当然だ。
だからこそ、何者かにとっては動きやすいのかもしれなかった。
「行こう」
有斗が言うと、葵がすぐにこちらを見た。
「今から?」
「日が落ちる前に確認したい」
「昨日、無茶しないって言ったばかりじゃなかった?」
「確認するだけだ」
「その確認だけって言葉、一番信用できないんだけど」
葵の言葉に、莉愛奈が深く頷いた。
「同感です」
有斗は返す言葉に困った。
たしかに過去の実績が悪い。
ゼルグラードはそんなやり取りを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「今回は大人数で動くべきではない。黒い傘の人物がこちらに気付いているなら、警戒される」
「じゃあ誰が行くの?」
葵が聞く。
ゼルグラードは少し考え、有斗を見た。
「お前と俺で行く」
「二人で?」
「勇者と魔王の散歩だ。目立たないだろう」
「目立つに決まってるだろ」
有斗は即座に言った。
元勇者と元魔王が並んで商店街を歩く。
事情を知らない人間から見れば、ただの青年とスーツの男かもしれない。
だが本人たちからすると、かなり妙な組み合わせだった。
葵は腕を組んで二人を見る。
「……いや、逆に普通に見えるかも。上司と部下っぽい」
「俺が部下なのか」
有斗が聞くと、葵は真顔で頷いた。
「スーツじゃない方が部下感ある」
「納得いかない」
「ホームセンターのバイトだし」
反論できなかった。
しおりはソファに寝転がったまま手を挙げる。
「私はネット監視する。新しい投稿あったら連絡する」
「頼む」
有斗が言うと、しおりは珍しく少し得意げな顔をした。
「任された。外に出ない仕事、得意」
それは威張ることなのか。
有斗は一瞬迷ったが、今は突っ込まないことにした。
瀬玲奈は少し不安そうだった。
「佐々木さんは私が見ています。容体が変わったらすぐ連絡します」
「助かる」
莉愛奈は納得していない顔をしていたが、今回はグリドラに残ることになった。
もし黒い紋様に反応して204号室で何かが起きた場合、戦える者が残っていた方がいい。
そう言われると、彼女も反対できなかった。
「勇者様、危険だと判断したらすぐ戻ってください」
「ああ」
「本当にです」
「分かっている」
「その返事も信用できません」
有斗は苦笑した。
グリドラに来てから、自分の扱いが少しずつ雑になっている気がする。
だが、それが不思議と嫌ではなかった。
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夕方の商店街は、予想通り人で賑わっていた。
八百屋の前では店主が声を張り上げ、総菜屋からは揚げ物の匂いが漂ってくる。
学校帰りの学生が自転車を押しながら笑い合い、会社員らしき人たちが駅へ向かって歩いていた。
どこにでもある普通の夕方だった。
有斗はその景色を見ながら、少しだけ胸の奥が重くなる。
この世界に来たばかりの頃は、すべてが珍しかった。
自動ドアも、コンビニも、信号機も、電車も。
魔法がないのに人々が豊かに暮らしていることに驚いた。
そして今は、その平和な日常の中に、ノクスフィアの歪みが紛れ込もうとしている。
「顔が険しいぞ」
隣を歩くゼルグラードが言う。
有斗は前を向いたまま答えた。
「お前こそ」
「俺は元々こういう顔だ」
「そうか」
短いやり取りの後、二人は人混みの中を進んだ。
傍から見れば、確かに上司と部下に見えるのかもしれない。
葵の言葉を思い出して少し複雑な気分になる。
「黒い傘は?」
有斗が小声で聞く。
「まだ見えん」
ゼルグラードの視線は鋭く周囲を探っていた。
現代に馴染んでいるように見えて、こういう時の目つきは魔王だった頃のままだ。
有斗も人の流れを見ながら歩く。
傘を持っている人は何人かいた。
だが今日は晴れている。
その中で黒い傘を差していれば目立つはずだった。
商店街を半分ほど進んだ時、有斗のスマホが震えた。
しおりからのメッセージだった。
『新しい投稿。駅前の時計台付近。黒い傘、見たって』
有斗はすぐに顔を上げる。
駅前の時計台。
ここから近い。
ゼルグラードも画面を見て頷いた。
「急ぐぞ」
二人は人混みを縫うように歩く速度を上げた。
走れば目立つ。
だからできるだけ自然に、それでも早く。
駅前へ近付くにつれて、人の数はさらに増えていく。
電車の到着時間と重なったのか、改札から人が流れてくる。
その中で、有斗は違和感を覚えた。
人の流れの一部が、ほんの少しだけ乱れている。
誰かを避けるように、自然と隙間ができていた。
有斗はその先を見る。
駅前の時計台。
その下に、一人の人物が立っていた。
黒い傘を差している。
雨は降っていない。
強い日差しもない。
それなのに、その人物は傘を深く差し、顔を隠していた。
服装は黒いコートのようにも見えた。
季節に合っていない。
だが周囲の人間は、ほとんど気にしていないようだった。
目に入っているのに、意識から滑り落ちている。
そんな奇妙な存在感だった。
有斗は息を呑む。
「いた」
「ああ」
ゼルグラードの声が低くなる。
黒い傘の人物は、時計台の下で一人の女性に近付いていた。
買い物袋を持った普通の女性だ。
女性は足を止め、ぼんやりと傘の人物を見上げる。
その瞬間、有斗の耳にかすかな声が届いた。
言葉としては聞き取れない。
だが、意味だけが頭の奥へ染み込んでくるような嫌な感覚があった。
もう一度。
繋げろ。
有斗の全身に緊張が走った。
「止める」
そう言った時には、もう体が動いていた。
人混みの中を抜け、時計台へ向かう。
黒い傘の人物がゆっくりとこちらを向いた。
傘の奥に顔は見えない。
だが、笑った気がした。
次の瞬間、人混みの中に強い風が吹いた。
有斗は思わず腕で顔を庇う。
一瞬だけ視界が途切れた。
風が収まった時、時計台の下に黒い傘の人物はいなかった。
残されていたのは、ぼんやりと立ち尽くす女性だけだった。
そしてその右手の甲には、薄い黒い紋様が浮かび上がっていた




