境界を広げる者
204号室で佐々木健二の話を聞いた後、共有スペースにはしばらく重たい空気が残っていた。
朝の光は窓から入っている。
瀬玲奈が淹れたお茶の香りもする。
部長は窓際で丸くなっているし、テレビではいつも通り朝の情報番組が流れていた。
それなのに、誰も普段のようにくつろぐ気分にはなれなかった。
境界を広げる。
ゼルグラードが口にしたその言葉が、妙に耳に残っている。
有斗はテーブルの上に置かれた名刺を見つめていた。
蒼城蓮司。
そこに書かれている名前は、今ではただの実業家のものには見えない。
かつてノクスフィアで魔王と呼ばれた男が、現代日本で社長をしている。
それだけでも十分おかしい。
だが今は、その魔王と同じテーブルを囲み、境界崩落について話し合っている。
人生とは本当に分からない。
「境界を広げるって、つまりどういうこと?」
葵が聞いた。
彼女の顔には疲れが見えている。
無理もなかった。
昨日までは古いアパートの管理人だったのに、今は異世界絡みの怪事件に巻き込まれている。
ゼルグラードは少し考えてから口を開いた。
「簡単に言えば、この世界とノクスフィアの境目を薄くする行為だ」
「薄くするとどうなるんだ」
有斗が聞く。
「最悪の場合、こちら側に向こうのものが入り込む」
その言葉に、倉庫で見た黒い影が脳裏に浮かぶ。
輪郭の定まらない、あの奇妙な存在。
魔物とも違う。
人でも獣でもない。
見ているだけで不安になる何かだった。
瀬玲奈は両手でマグカップを包み込むように持っている。
「昨日の影みたいなものが、また現れるということですか?」
「可能性はある」
ゼルグラードの返事は重かった。
「ただし、あれが何だったのかはまだ分からん。ノクスフィアの魔物ではない。少なくとも俺の知る限りではな」
魔王ですら知らない存在。
その事実が、余計に不気味だった。
莉愛奈は腕を組んだまま黙っている。
普段ならすぐに戦うと言いそうな彼女も、昨日の倉庫で見たものを前にして簡単には言葉を出せないらしい。
「その境界を広げようとしている奴がいる」
有斗は確認するように言った。
ゼルグラードは頷く。
「佐々木を操った何者かだ」
部屋の空気がさらに重くなる。
204号室で眠っている男は、少なくとも今のところただの被害者に見えた。
会社帰りに知らない駅で降り、見知らぬ倉庫へ向かい、右手に黒い紋様を刻まれた。
本人に自覚はない。
だが確かに何かに使われていた。
有斗は拳を握る。
目の前で誰かが利用されている。
それだけで、胸の奥に静かな怒りが生まれた。
「その声の主を探す必要があるな」
「探す手掛かりはありますか?」
瀬玲奈が聞く。
ゼルグラードはテーブルの上に一枚の写真を置いた。
昨日、暗い部屋の男が見ていたものとは違う。
倉庫周辺の防犯カメラ映像を印刷したものらしい。
そこには佐々木が写っている。
その少し後ろ。
傘を差した人物がいた。
夏なのに黒い傘を差している。
顔は見えない。
性別も分からない。
ただ、佐々木の後を追うように歩いていた。
「倉庫に入る直前の映像だ」
ゼルグラードが言う。
「こいつが声の主かどうかは分からん。だが無関係とも思えない」
葵が写真を覗き込む。
「黒い傘って怪しすぎない?」
「怪しいですね」
瀬玲奈も素直に頷く。
しおりはソファに寝転がったまま、スマホから顔だけを上げた。
「都市伝説っぽい」
「今そういう話じゃない」
葵が突っ込む。
だが、しおりは真面目だった。
「黒い傘の人間。失踪者。謎の紋様。廃倉庫の魔法陣」
そう並べてから、スマホを操作する。
「ネットなら噂になってるかも」
共有スペースが少し静かになった。
有斗はしおりを見る。
彼女は普段通り寝転がっているだけに見えるが、その指先はかなり早く動いていた。
検索。
掲示板。
地域情報。
動画サイト。
SNS。
現代に来てから一番役に立っているのが、しおりのネット中毒なのではないかと思えてくる。
数分後、しおりの指が止まった。
「ある」
短い一言だった。
全員の視線が集まる。
しおりはスマホの画面をテーブルの方へ向けた。
そこには、最近投稿された短い書き込みが表示されていた。
『夜、黒い傘の人を見た』
『声をかけられた後、記憶が曖昧』
『手に変な痣が出た』
『夢で知らない場所に立っていた』
葵の顔色が変わる。
「これ……佐々木さんだけじゃないってこと?」
ゼルグラードは画面をじっと見つめていた。
その表情は険しい。
「そういうことだろうな」
有斗は背筋に冷たいものを感じた。
昨日の倉庫は始まりに過ぎない。
佐々木だけが巻き込まれたのではない。
同じような人間が、他にもいる。
「場所は分かるか」
有斗が聞く。
しおりは画面をスクロールする。
「駅がバラバラ。でも全部この辺り」
地図アプリを開く。
しおりが指で印を付けていくと、いくつかの地点がゆるい円のように並んだ。
その中心にあるのは、昨日の倉庫があった地域だった。
「円の中心」
しおりが言う。
「そこ、怪しい」
有斗は画面を覗き込む。
現代の地図はまだ完全には読めない。
だが、それが何かの形を作っていることくらいは分かった。
ゼルグラードも同じことに気付いたらしい。
「魔法陣の外周か」
低い声だった。
葵が眉をひそめる。
「え、街全体に?」
「まだ推測だ」
ゼルグラードはそう言ったが、否定はしなかった。
もしこの街の一部を使って巨大な魔法陣を作っているのだとしたら、昨日の倉庫はその中心か、あるいは起動点の一つに過ぎない。
有斗は立ち上がった。
考えているだけでは駄目だ。
「調べに行く」
「勇者様」
瀬玲奈が心配そうに声をかける。
有斗は小さく頷いた。
「分かっている。無茶はしない」
「その言葉、あまり信用できません」
莉愛奈が即座に言う。
有斗は返す言葉に困った。
確かに、過去の自分を考えると説得力がない。
葵がため息を吐く。
「じゃあ全員で行くのはなし。まずは近場だけ確認しよう。昼間、人の多い時間に」
「賛成」
しおりが即答した。
「私はネット班」
「来る気ないよね?」
「ない」
変わらない。
むしろ少し安心した。
ゼルグラードは写真をしまいながら立ち上がる。
「俺も動く。会社の方で調べられることがある」
「会社を私用で使うな」
有斗が言うと、ゼルグラードは苦笑した。
「社長権限だ」
「便利だな、魔王」
「今は社長だ」
そのやり取りに、葵が少しだけ笑う。
緊張していた空気がわずかに和らいだ。
だが、それも一瞬だった。
204号室の方から小さな声が聞こえた。
佐々木の声だった。
有斗たちはすぐに顔を上げる。
声はかすれていたが、確かに何かを呟いている。
有斗が部屋へ向かおうとした時、しおりが先にスマホを止めた。
「待って」
珍しく強い声だった。
全員が振り向く。
しおりは画面を見つめたまま、少しだけ眉をひそめていた。
「今、同じ書き込みが増えた」
「同じ?」
葵が聞く。
しおりは画面を見せる。
そこには、たった今投稿されたばかりの短い文章が並んでいた。
『黒い傘の人に会った』
『声が聞こえる』
『もう一度、繋げろって』
有斗は言葉を失った。
佐々木だけではない。
今この瞬間にも、誰かが同じ声を聞いている。
境界を広げる者は、もう動き始めていた。




