傘の破片
黒い傘の人物が消えた後も、グリーンハイツドラゴンの前にはしばらく重たい空気が残っていた。
夜の道は静かだった。
街灯の下に浮かんでいた黒い線は、すでにほとんど消えている。アスファルトには何事もなかったように小さなひび割れと汚れだけが残っていて、さっきまでここで境界が開きかけていたとは思えない。
けれど、有斗たちは知っている。
黒い傘の人物は、確かにここにいた。
グリドラを起点にしようとした。
そして、有斗はその傘に触れた。
ゼルグラードの手の中には、黒い布の破片があった。
傘の端が千切れたものだ。
ただの布に見える。
だが、街灯の下で見ると、繊維の奥に青白い光が細く走っていた。布というより、何か別のものを無理やり布の形にしているような不気味さがある。
葵はそれを見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「それ、家の中に持って入るの?」
「調べる必要がある」
ゼルグラードが当然のように答える。
「でも絶対やばいやつじゃん」
「やばいものだから調べる」
「正論だけど嫌な正論」
葵は深いため息を吐いた。
その反応はもっともだった。
ついさっきまで、グリドラの床や壁に黒い線が浮かんでいたのだ。そこへさらに怪しい破片を持ち込むとなれば、嫌がるのも当然だった。
有斗も正直、できるなら外で燃やしてしまいたいと思った。
だが、それでは何も分からない。
黒い傘の人物の正体。
境界を広げようとしている理由。
そして、この街に眠っているもの。
それらを知るためには、手掛かりを逃すわけにはいかなかった。
「共有スペースではなく、空き部屋を使おう」
有斗が言うと、葵は少しだけ考えてから頷いた。
「じゃあ、使ってない一階の部屋。何かあったらすぐ外に出せる場所で」
「助かる」
「助かるじゃなくて、壊したら弁償だからね」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「……分かっている」
葵の疑うような視線が痛かった。
莉愛奈が横から真面目に言う。
「葵殿、万一の場合は私が責任を持って修繕します」
「莉愛奈ちゃん、たぶん修繕って壁を殴って直すことじゃないからね」
「違うのですか」
「違う」
そのやり取りに、瀬玲奈が小さく笑った。
緊張していた空気が少しだけ和らぐ。
部長は玄関の内側から顔を出し、ゼルグラードの手元をじっと見ていた。普段なら食べ物以外に興味を示さないくせに、今夜は妙に警戒している。
しおりが部長を抱え直しながら言った。
「部長、それ嫌いみたい」
「猫にも分かるのか」
有斗が聞くと、しおりは真顔で頷く。
「部長はえらいから」
理由になっているようで、なっていない。
だが、今までの流れを考えると部長の反応も軽視できなかった。
黒い傘の破片は、やはりただの物ではない。
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一階の空き部屋は、長い間使われていなかった。
畳は古く、窓際には少し埃が溜まっている。葵が慌てて換気し、瀬玲奈が簡単に床を拭いた。状況が状況だけに、完全に整える余裕はなかったが、調べものをするくらいなら十分だった。
部屋の中央に古い小さな机を置き、その上に白い皿を乗せる。
ゼルグラードはその皿の上へ、傘の破片を慎重に置いた。
黒い布は、皿に触れた瞬間、ほんのわずかに波打った。
葵が一歩下がる。
「動いたよね?」
「動いたな」
有斗も見ていた。
ただの布ではあり得ない動きだった。
まるで、水面に浮いた影が揺れたように見えた。
ゼルグラードは破片に手をかざし、目を細める。
「魔力とは少し違う」
「境界の力か」
有斗が聞く。
「ああ。ノクスフィアのものでも、この世界のものでもない。境界そのものに近い」
「そんなものを傘にして歩いてるの?」
葵の声が引きつる。
「やっぱり外に捨てない?」
「捨てても戻ってくる可能性がある」
ゼルグラードが淡々と言う。
「最悪じゃん」
葵は頭を抱えた。
しおりは部屋の隅でスマホを構えている。
「撮影してる」
「撮って大丈夫なの?」
「分からない。でも記録は大事」
「しおりちゃん、変なところで肝が据わってるよね」
「外に出なくていいから」
理由は相変わらずだった。
瀬玲奈は皿の近くに立ち、祈るように両手を重ねている。莉愛奈は入口のそばで警戒していた。もし何かが起きた時、すぐに全員を外へ出せる位置だった。
有斗はゼルグラードの隣に立ち、破片を見下ろした。
近くで見ると、布の表面に細かな文字のようなものが刻まれているのが分かる。水門や祠で見た古い文字に似ていた。
「読めるか」
有斗が聞くと、ゼルグラードは少し黙った。
「一部だけならな」
「何て書いてある」
ゼルグラードは破片に顔を近付けすぎないよう注意しながら、低い声で言った。
「境界を渡る者。境界に残る者。境界に喰われた者」
その言葉に、部屋の空気が冷えた気がした。
葵が小さく呟く。
「喰われた者……?」
ゼルグラードは頷いた。
「黒い傘の人物が言っていた。かつては人間だった、と」
有斗は、街灯の下で一瞬だけ見えた顔を思い出した。
目のある場所は黒い空洞になっていた。
その奥で青白い光が揺れていた。
皮膚のようなものには細かな文字が刻まれ、頬のあたりは霧のように薄れていた。
人間ではない。
だが、完全な魔物でもない。
人間だったもの。
その言葉が、一番近いように思えた。
「境界に喰われた人間、ということですか」
瀬玲奈が不安そうに聞く。
ゼルグラードはすぐには答えなかった。
「可能性はある」
「でも、どうしてそんな人がこの世界にいるの?」
葵が言う。
「ノクスフィアの人間なら、私たちみたいに転移してきたってこと?」
「それだけでは説明できん」
ゼルグラードは破片を見つめたまま言った。
「奴は古い文字を知っている。境界石の扱いも知っている。倉庫、水門、祠、この街に残された起点を動かす方法も知っている。単なる転移者ではない」
「昔からいるってことか」
有斗が言うと、ゼルグラードは頷いた。
「あるいは、時間の流れから外れていたか」
その言葉は、すぐには理解しづらかった。
だが黒い傘の人物を見た後では、完全に否定する気にもなれない。
境界に喰われた者。
世界と世界の間に取り残された存在。
もしそうなら、あの人物がノクスフィアへ帰る道にこだわる理由も、少しだけ見えてくる気がした。
けれど、それは人を巻き込んでいい理由にはならない。
佐々木や三枝を利用していい理由にもならない。
有斗は拳を握った。
その時、皿の上の破片がまた波打った。
今度はさっきより大きい。
青白い光が細く伸び、空中に糸のような線を作る。
「下がれ」
ゼルグラードが言うより早く、莉愛奈が全員を庇うように前へ出た。
破片から伸びた光の糸は、空中で揺れながら一本の線になった。
それはまるで地図の道のようだった。
しおりがスマホを見て、目を細める。
「これ、地図?」
「分かるのか」
有斗が聞くと、しおりは首を傾げた。
「たぶん。線の形が街の道路と似てる」
葵がスマホの地図アプリを開き、しおりの画面と見比べる。
「本当だ……これ、グリドラ周辺の道じゃない?」
光の糸は空中で細かく枝分かれし、いくつかの点を結んでいた。
倉庫。
時計台。
水門跡。
戻りの祠。
そして、グリドラ。
今まで見つかった起点が、光の地図の中に浮かび上がっている。
さらに、その先にもう一つ。
まだ見たことのない点があった。
他の点よりも大きい。
まるで全ての線がそこへ集まっているようだった。
「中心点」
しおりが呟く。
ゼルグラードの表情が険しくなる。
「最後の起点か」
「場所はどこだ」
有斗が聞く。
しおりと葵が急いで地図を確認する。
画面上で位置を合わせていくうちに、葵の顔色が変わった。
「ここ……」
「どこだ」
「昔の駅跡。今は再開発で閉鎖されてる場所」
有斗にはすぐにぴんと来なかった。
だが葵の顔を見る限り、普通の場所ではないらしい。
「駅跡?」
「廃駅みたいなもの。昔使われてた地下駅があって、今はもう入れないはず。周辺は工事中で、立入禁止区域になってる」
しおりが補足する。
「都市伝説でも出る。地下に古いホームが残ってるって話」
葵は嫌そうにしおりを見る。
「本当にそういうの詳しいね」
「得意分野」
「できれば得意じゃなくてよかった」
光の地図は、その地下駅跡を中心に揺れていた。
倉庫も、水門も、祠も、グリドラも、全てがそこへ繋がっている。
有斗はその光を見つめながら、嫌な予感を覚えた。
黒い傘の人物は、今まで起点を一つずつ動かしていた。
だが本当に開こうとしている場所は、別にある。
最後の起点。
全ての線が集まる場所。
「そこを開かれたらどうなる」
有斗が聞くと、ゼルグラードは低く答えた。
「街全体の境界が一気に崩れる可能性がある」
葵が息を呑む。
瀬玲奈も顔を青ざめさせた。
莉愛奈は黙って拳を握る。
「止めるしかないな」
有斗が言う。
ゼルグラードは頷いた。
「だが、こちらから向かえば罠だろう」
「分かっている」
「それでも行くのだろうな」
「当然だ」
有斗は即答した。
ゼルグラードは小さく息を吐く。
呆れているようにも見えたが、止めるつもりはないらしい。
「勇者らしい」
「褒めているのか」
「今回は半分だけな」
葵が深いため息を吐いた。
「半分でも褒められてる場合じゃないからね。行くならちゃんと準備。無策で突っ込むの禁止」
「分かっている」
有斗が答えると、葵は目を細める。
「その返事、毎回聞いてる」
「今回は本当に分かっている」
「信用度が低い」
しおりがぼそっと言う。
有斗は何も言い返せなかった。
だが、葵の言う通りだった。
相手は何度もこちらを誘導している。
帰る道という言葉で心を揺さぶり、起点へ向かわせ、グリドラまで狙った。
次はおそらく、もっと大きな仕掛けがある。
無策で行けば、今度こそ取り返しがつかないかもしれない。
その時、皿の上の破片が最後に一度だけ強く光った。
空中に浮かんでいた地図が消える。
代わりに、低い声が部屋に響いた。
黒い傘の人物の声だった。
『最後の道で待つ』
その言葉だけを残して、破片は黒い灰のように崩れた。
皿の上には、もう何も残っていない。
誰もすぐには動けなかった。
静まり返った空き部屋の中で、有斗は消えた破片の跡を見つめていた。
最後の道。
地下駅跡。
そこに、黒い傘の人物がいる。
そしておそらく、境界を広げるための最後の仕掛けも。
有斗は静かに息を吸った。
怖くないわけではない。
帰る道への迷いが完全に消えたわけでもない。
それでも、今ははっきりしている。
誰かに開かれる道ではなく、自分たちで選べる未来を取り戻す。
そのために、次は待つのではなく、こちらから向かう番だった。




