連れて帰るべきか
倉庫を離れた後、有斗たちは近くのファミリーレストランへ入った。
本当ならすぐに帰りたかった。
だが、そう簡単にはいかない理由があった。
倉庫の中で倒れていた男である。
男は今、店の一番奥の席で眠っていた。瀬玲奈が簡単な応急処置をしたおかげか、呼吸は落ち着いている。顔色も倉庫で見た時よりは少しマシになっていた。
ただ、右手に刻まれた黒い紋様だけは消えていない。
まるで皮膚の奥に焼き付いたように、薄暗い光を帯びているようにも見えた。
葵はドリンクバーのコーヒーを両手で包みながら、眠る男を見つめていた。
「……警察じゃ駄目なの?」
当然の疑問だった。
現代日本で倒れている人を見つけたなら、普通は警察か救急車を呼ぶ。葵の感覚ではそれが一番自然だった。
けれど、有斗はすぐに頷けない。
ゼルグラードも同じだった。
「説明できるか?」
静かに聞かれて、葵は言葉に詰まった。
郊外の廃倉庫。
床一面の魔法陣。
右手に黒い紋様を持つ失踪者。
そして、そこから現れたこの世界のものではない影。
どこをどう切り取っても、普通の事件として説明できる内容ではなかった。
「……無理だね」
葵は諦めたように息を吐く。
有斗も小さく頷いた。
「俺たちが見たことをそのまま話しても、信じられるとは思えない」
「それ以前に、あの男自身が危険かもしれません」
莉愛奈が腕を組んだまま言う。
彼女の視線は眠る男から離れない。
敵を見る目ではない。
だが、警戒は解いていなかった。
「もしまた先ほどの影が現れたら、周囲に被害が出ます」
その言葉に、テーブルの空気が少し重くなった。
確かにそうだった。
倉庫では男を中心に異変が起きたように見えた。あの黒い紋様が何かの鍵になっているなら、男を普通の病院や警察へ預けるのは危険かもしれない。
瀬玲奈は男の様子を見ながら、不安そうに口を開く。
「でも、このまま放っておくわけにもいきませんよね」
「それはない」
有斗はすぐに答えた。
相手が何者なのかは分からない。
だが、少なくとも助けを求めていた。
倉庫で聞いた、かすれた声がまだ耳に残っている。
たすけて。
あれを聞いて見捨てられるほど、有斗は器用ではなかった。
しばらく誰も話さなかった。
ドリンクバーの機械音と、近くの席で子供が笑う声だけが聞こえている。
ここだけ見れば、ただの休日のファミレスだった。
しかしテーブルを囲んでいるのは勇者と女騎士と神官とアパート管理人、そして元魔王である。
状況だけなら、どう考えても普通ではなかった。
「うちで預かるか」
最初に言ったのは葵だった。
自分で言ってから、少しだけ嫌そうな顔をする。
また変な人を拾ってしまう。
そんな予感がしたのだろう。
有斗も同じことを考えていた。
「グリドラにか?」
「他にある?」
葵に聞き返され、有斗は黙った。
ゼルグラードの会社で預かる案もあったが、彼はすぐに首を横に振った。
「社員に説明できん。社長室に意識不明の男を寝かせておくわけにもいかない」
「魔王なのに現代社会にちゃんと気を遣ってるの、なんか嫌だな」
葵がぼそっと呟く。
ゼルグラードは苦笑した。
「会社経営は魔王業より面倒だ」
「魔王業って何」
「聞くな」
少しだけ空気が緩む。
だが、結論は変わらなかった。
男はグリドラへ連れて帰る。
それが一番安全で、一番目の届く選択だった。
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夕方。
グリーンハイツドラゴンへ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
有斗たちは眠ったままの男を204号室へ運び込んだ。
そこは空き部屋だった。
布団も最低限の家具もある。
古いアパートの一室ではあるが、しばらく休ませるには十分だった。
葵は部屋の入口に立ち、妙な疲れを感じながら室内を見回す。
最初は静かな古アパートだった。
それが今では、勇者、女騎士、神官、魔法使い、元魔王、そして正体不明の男まで関わっている。
祖父がこの状況を見たら、どんな顔をしただろう。
少なくとも、普通の賃貸経営ではない。
「また住人が増えた……」
思わず漏れた言葉に、有斗が少し申し訳なさそうな顔をした。
「すまない」
「有斗が謝ることじゃないけどね」
そう言いながらも、葵は深くため息を吐いた。
否定はしない。
たぶん、自分も放っておけなかった。
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共有スペースへ戻ると、しおりがソファでスマホを見ていた。
部長はその隣で丸くなっている。
こちらの騒ぎなど関係ない顔だった。
「ただいま」
葵が言うと、しおりは画面から目を離さずに返事をした。
「おかえり」
「一人増えた」
「そう」
「驚かないの?」
ようやく、しおりが顔を上げた。
少し考える。
そして淡々と言う。
「魔王より驚く?」
葵は何も言えなかった。
確かに。
魔王が社長として現れた後では、意識不明の中年男性が一人増えるくらいでは驚きが薄い。
感覚が完全に麻痺している。
しおりは再びスマホへ視線を戻した。
「部屋、埋まってきたね」
「そこ?」
「経営大丈夫?」
葵は頭を抱えた。
なぜそこで現実的なのか。
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夜。
204号室には静かな空気が流れていた。
男はまだ眠っている。
呼吸は安定していたが、右手の黒い紋様だけは変わらず残っていた。
有斗は部屋の入口からその様子を見ていた。
敵か味方かも分からない。
ただの被害者なのか、それとも何かを呼び寄せる存在なのかも分からない。
分からないことばかりだった。
「気になるか」
背後から声がした。
振り返ると、ゼルグラードが立っている。
今日もスーツ姿だったが、さすがに少し疲れているように見えた。
「気になる」
有斗は正直に答える。
「何者なんだ」
「それを調べている」
ゼルグラードは男の右手を見る。
その表情は真剣だった。
「ただ、一つだけ分かったことがある」
「何だ」
「倉庫の魔法陣は、一人で作れるものじゃない」
有斗は眉をひそめる。
それはつまり、あの男以外にも関わっている者がいるということだった。
黒い紋様を持つ人間が他にもいるのか。
あるいは、その紋様を刻んだ誰かがいるのか。
どちらにしても、厄介な話だった。
「面倒になってきたな」
有斗が呟くと、ゼルグラードは小さく笑った。
「勇者が面倒と言うのか」
「ホームセンターの仕事の方が分かりやすい」
「それは同感だ」
魔王が真顔で頷く。
その光景があまりにおかしくて、有斗は少しだけ肩の力が抜けた。
だがすぐに視線は男へ戻る。
黒い紋様は、薄い影のように右手へ残っている。
グリドラの古い畳の上で眠るその男は、まるでこの平和なアパートに異物が紛れ込んだようだった。
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その頃。
東京のどこか。
薄暗い部屋の中で、一人の男がパソコン画面を見つめていた。
画面には倉庫の監視映像が映っている。
有斗。
莉愛奈。
瀬玲奈。
葵。
そしてゼルグラード。
男は画面越しに彼らを見ながら、楽しそうに口元を歪めた。
机の上には黒い紋様が描かれた資料が並んでいる。
その中心には一枚の古い写真があった。
写っているのは、見覚えのない遺跡。
だが、その遺跡の壁には、倉庫で見た魔法陣とよく似た模様が刻まれていた。
男は椅子にもたれ、静かに呟く。
「勇者も魔王も動き始めたか」
その声には焦りがない。
むしろ、ずっと待っていた舞台がようやく始まったことを喜んでいるようだった。
暗い部屋の中で、モニターの光だけが男の顔を照らしている。
グリーンハイツドラゴンの日常は、また一つ知らない場所から見つめられていた。




