郊外の倉庫
翌日の朝。
共有スペースではいつものように朝食が並んでいた。
味噌汁の湯気が立ち上り、瀬玲奈が焼いた卵焼きがテーブルの中央に置かれている。
どこにでもある平和な朝だった。
だが話題だけは穏やかではない。
昨夜、有斗はゼルグラードから聞いた話を全員に伝えていた。
失踪した男。
黒い紋様。
郊外の倉庫。
そして魔王からの協力依頼。
「やっぱり行くんですか?」
瀬玲奈が心配そうに聞く。
有斗は味噌汁を飲みながら頷いた。
「気になるからな」
放っておいて何も起きなければそれでいい。
だが、もし本当に境界崩落が関係しているなら見過ごせなかった。
莉愛奈は当然のように言う。
「私も同行します」
有斗は止めようとしてやめた。
どうせ聞かない。
昔からそういう性格だ。
瀬玲奈も少し迷った後で手を挙げる。
「私も行きます」
「危険かもしれないぞ」
「だからです」
真面目な顔で返され、有斗は苦笑した。
結局、葵を含めた四人で向かうことになる。
しおりは留守番だった。
「なんで来ないんだ」
有斗が聞くと、しおりはスマホから目も離さず答えた。
「外出は週二回まで」
「誰が決めた」
「私」
それ以上聞いても無駄そうだった。
昼前。
駅前でゼルグラードと合流する。
相変わらず完璧なスーツ姿だった。
有斗は見るたびに違和感を覚える。
目の前にいるのは魔王だ。
それなのに営業先へ向かう会社員にしか見えない。
「そんなに見るな」
ゼルグラードが苦笑する。
「慣れん」
有斗が答えると、葵も横で頷いた。
「正直、私もまだ慣れてない」
「俺もだ」
魔王本人がそう言った。
莉愛奈だけは複雑そうな表情をしている。
頭では理解していても、感情が追いついていないのだろう。
それは有斗も同じだった。
車で三十分ほど走る。
街並みは徐々に変わっていった。
住宅地が減り、工場や倉庫が増えていく。
やがて目的地が見えてきた。
古びた倉庫だった。
壁は色褪せ、フェンスも錆びている。
長い間使われていないように見えた。
車を降りた瞬間、有斗は僅かな違和感を覚える。
理由は分からない。
だが嫌な予感だけはあった。
昔、ダンジョンへ入る直前によく感じた感覚に似ている。
隣を見ると、莉愛奈も同じ表情をしていた。
ゼルグラードも無言で倉庫を見つめている。
どうやら気のせいではないらしい。
「行くぞ」
短く言って歩き出す。
誰も反対しなかった。
倉庫の入口は半開きになっていた。
鍵は壊されている。
最近誰かが出入りした形跡もあった。
ゼルグラードが扉を押し開ける。
重い音と共に中の空気が流れ出した。
埃っぽい匂いが鼻をつく。
内部は思ったより広い。
古い機械。
使われなくなった棚。
積み上げられた木箱。
一見すると普通の廃倉庫だった。
だが奥へ進んだところで、瀬玲奈が足を止める。
「これ……」
小さな声だった。
全員が視線を向ける。
床だった。
黒い線が複雑に絡み合い、大きな円を描いている。
文字のようなものも見える。
ただの落書きではない。
有斗は思わず息を呑んだ。
見覚えがあった。
ノクスフィアの魔法陣。
それも子供の遊びではない。
本物だ。
莉愛奈も顔色を変えている。
「現代にあるはずがありません」
その通りだった。
だからこそ不気味だった。
誰かが描いた。
しかも知識を持った誰かが。
ゼルグラードはしゃがみ込み、指先で線をなぞる。
その表情から余裕が消えていた。
有斗が知る魔王の顔だった。
戦場でしか見せなかった真剣な表情。
しばらく黙って調べていたが、やがて立ち上がる。
「まずいな」
その一言で空気が変わった。
有斗は自然と拳を握る。
ゼルグラードが警戒するほどのものなのか。
「何が分かった」
「これを描いた奴は素人じゃない」
低い声だった。
「しかも最近描かれている」
倉庫の中が静まり返る。
有斗は周囲を見渡した。
薄暗い倉庫。
積み上がる木箱。
壊れた機械。
どこにも人影はない。
だが誰かの気配だけは残っている気がした。
ゼルグラードは魔法陣から視線を外さない。
その横顔には明らかな警戒が浮かんでいた。
「帰るぞ」
突然そう言った。
有斗は思わず目を見開く。
魔王が撤退を選ぶ。
それだけで異常事態だった。
だが、有斗が理由を聞こうとした瞬間。
倉庫の奥から金属が擦れるような音が響いた。
全員の動きが止まる。
静まり返った空間に、その音だけが妙に大きく響いていた。
誰も口を開かない。
有斗は暗闇の奥を見つめる。
そこには何も見えない。
それでも確かに何かがいた。




