勇者、知らない視線に気付く
七月最後の週に入っていた。
朝から蝉の鳴き声が響いている。
空は青く、雲は少ない。
夏らしい一日だった。
グリーンハイツドラゴンでも、いつも通りの朝が始まっている。
瀬玲奈は朝食の後片付け。
莉愛奈は出勤前の軽いストレッチ。
しおりはソファでスマホ。
部長は窓際で丸くなっていた。
そして有斗は仕事へ向かう準備をしている。
ホームセンターの制服にもすっかり慣れた。
初めて袖を通した時は少し落ち着かなかったが、今では鎧と同じように仕事着として認識している。
人は案外順応するものらしい。
「行ってきます」
玄関で靴を履きながら声を掛ける。
「いってらっしゃい」
葵が共有スペースから手を振った。
瀬玲奈も顔を出す。
「お気を付けて」
有斗は頷き、そのままアパートを出た。
住宅街を歩く。
学生たちが通学している。
犬の散歩をしている人もいる。
見慣れた朝の景色だった。
ホームセンターへ向かう道も、もう迷うことはない。
だが、その日は少しだけ違った。
最初に違和感を覚えたのは駅前へ向かう途中だった。
誰かに見られている気がする。
そんな感覚だった。
敵意はない。
殺気もない。
だからこそ気のせいだと思った。
実際、現代日本でいきなり襲われるようなことはない。
有斗もそれくらいは理解している。
それでも、胸の奥に小さな引っ掛かりだけが残った。
思わず後ろを振り返る。
だが特に変わったものは見当たらない。
会社員。
学生。
買い物帰りのお年寄り。
いつもの朝だった。
「考え過ぎか」
そう呟いて歩き出す。
しかし違和感は完全には消えなかった。
ホームセンターへ到着すると、忙しい一日が始まった。
商品の搬入。
売り場整理。
接客。
最近では新人扱いされることも減ってきている。
有斗は仕事を覚えるのが早かった。
真面目で体力もある。
重い荷物も苦にしない。
店長からの評価はかなり高かった。
「有斗くん」
昼前。
店長が声を掛けてくる。
「はい」
「この棚、移動お願いできる?」
有斗は棚を見る。
かなり大きい。
だが問題はなかった。
「どこまで運びますか?」
「一人でやる気?」
店長が苦笑する。
有斗は少し不思議そうな顔をした。
持てるものを持つ。
それだけだと思ったからだ。
周囲のスタッフも笑っている。
どうやらまた感覚がズレていたらしい。
最近はこういうことも増えていた。
昼休み。
有斗は休憩室でおにぎりを食べていた。
鮭のおにぎりだった。
すっかり気に入っている。
窓の外を見る。
駐車場には車が並んでいた。
何気なく眺めていると、一台の黒い車が目に入る。
高級そうなセダンだった。
この辺りではあまり見ない種類だ。
一瞬だけ気になったが、それだけだった。
車はしばらく停車した後、静かに走り去っていく。
有斗も深く考えなかった。
その頃。
駅前の高級マンション最上階。
一人の男が窓際に立っていた。
手にはコーヒーカップ。
広いリビングには静かな音楽が流れている。
男の視線は街へ向いていた。
だが、その表情から感情は読み取れない。
机の上には資料が置かれていた。
有斗。
莉愛奈。
瀬玲奈。
しおり。
そして葵。
グリーンハイツドラゴンの住人たちについてまとめられたものだった。
男はその資料を閉じる。
そして窓の外へ目を向けた。
「……」
何かを考えているようだった。
だが独り言はない。
名前も呼ばない。
ただ静かに街を見下ろしている。
やがてコーヒーを一口飲み、再び視線を外した。
それだけだった。
夕方。
仕事を終えた有斗はグリーンハイツドラゴンへ戻っていた。
共有スペースでは夕食の準備が始まっている。
瀬玲奈の料理の匂いが漂う。
莉愛奈は今日の出来事を話している。
しおりはスマホ。
部長は窓際。
いつもの光景だった。
有斗は少しだけ安心する。
この場所へ帰ってくると、不思議と肩の力が抜けるのだ。
異世界へ帰る方法はまだ見つかっていない。
先のことも分からない。
だが、ここはもう居場所になりつつあった。
「どうした?」
葵が聞く。
有斗は首を横に振る。
「いや」
少し迷った後、続けた。
「今日、誰かに見られている気がした」
葵は少し驚く。
「知り合い?」
「分からん」
それが正直な答えだった。
知らない。
だが、完全に他人とも思えない。
そんな妙な感覚だった。
「疲れてるんじゃない?」
葵が笑う。
有斗も少し考えた。
確かにそうかもしれない。
最近は仕事も忙しかった。
結局その話はそこで終わる。
誰も深く気にしなかった。
窓の外では夕日が沈み始めている。
夏の空が赤く染まっていた。
グリーンハイツドラゴンの日常は今日も変わらない。
だが有斗の胸の奥には、小さな違和感だけが残っていた。
それが何なのか。
答えを知る日は、もうそれほど遠くなかった。




