勇者、レジに立つ
有斗がホームセンターで働き始めて三日が過ぎていた。
朝の緊張はまだ消えていない。
だが、初日ほどではない。
店長の顔も覚えた。
従業員たちの名前も少しずつ覚えてきた。
品出しにも慣れてきた。
それでも。
今日だけは違った。
「今日、レジやってみる?」
開店前の店内。
工具売り場で商品を並べていた有斗は、その言葉を聞いて固まった。
声の主は店長だった。
レジ。
有斗はその単語を頭の中で反芻する。
品出しはいい。
掃除もいい。
案内も何とかなる。
だが。
レジは別だ。
お金が関わる。
失敗したらまずい気がする。
非常にまずい気がする。
店長はそんな有斗の表情を見て笑った。
「いきなり一人ではやらせないよ」
そう言って肩を軽く叩く。
「隣にいるから」
有斗は小さく頷いた。
それでも緊張は消えなかった。
午前十時。
店内は少しずつ客が増え始めていた。
平日の午前中。
混雑するほどではない。
だが人はいる。
レジ前に立った有斗は、目の前の機械を見つめていた。
画面。
ボタン。
バーコードリーダー。
お釣りを入れる引き出し。
何だか魔導具みたいだった。
ノクスフィアにこんな物はない。
説明は受けた。
バーコードを読む。
金額を確認する。
会計する。
言葉にすると簡単だ。
しかし。
実際にやるとなると話は違う。
「大丈夫」
隣の先輩店員が言った。
「みんな最初はそうだから」
有斗は少しだけ深呼吸する。
魔王城へ突入した時より緊張している気がした。
自分でも認めたくなかった。
最初の客がやってくる。
五十代くらいの女性だった。
買い物かごの中には洗剤とスポンジ。
ごく普通の商品。
ごく普通の客。
なのに。
有斗の心臓は妙に速かった。
「お願いします」
女性がかごを置く。
有斗は頷いた。
バーコードを通す。
ピッ。
音が鳴る。
少し安心する。
もう一つ。
ピッ。
大丈夫だ。
問題ない。
画面に金額が表示される。
「千三百二十円になります」
少しだけ声が硬い。
女性は財布からお金を出した。
有斗は受け取る。
レジへ入れる。
お釣りを確認する。
頭の中で何度も計算する。
間違えていないか。
大丈夫か。
そして。
「お釣りになります」
女性へ渡した。
女性は笑顔だった。
「ありがとう」
たった一言。
それだけだった。
しかし。
有斗は少し驚いた。
怒られなかった。
失敗もしなかった。
ちゃんとできた。
ただそれだけなのに。
妙に嬉しかった。
昼休憩。
休憩室の椅子へ腰を下ろす。
冷たい麦茶を飲む。
窓の外では夏の日差しが強くなっていた。
駐車場の車が熱を帯びている。
有斗は天井を見上げた。
疲れていた。
戦ったわけではない。
走ったわけでもない。
なのに疲れている。
接客というのは不思議だった。
「どうだった?」
店長が隣へ座る。
有斗は少し考えた。
初めてのレジ。
初めての会計。
初めてのありがとう。
色々あった。
だが。
頭に残っているのは一つだった。
「ありがとうと言われました」
店長は少し笑った。
「言われるね」
「不思議です」
有斗は正直に言う。
魔物を倒した時も。
王国を救った時も。
感謝されたことはある。
だが。
洗剤を売っただけで感謝される。
それは何だか新鮮だった。
「こっちの世界はね」
店長が窓の外を見る。
「そういう小さい積み重ねで回ってるんだよ」
有斗はその言葉を覚えておこうと思った。
夕方。
仕事を終えてグリドラへ帰る。
西日が廊下を赤く染めていた。
共有スペースからはテレビの音が聞こえる。
誰かの笑い声も聞こえた。
有斗は玄関の前で少し立ち止まる。
数週間前。
この場所は知らないアパートだった。
今は違う。
帰ってきた。
そう思える場所になっていた。
扉を開ける。
「ただいま」
共有スペースの空気が少し動く。
瀬玲奈が振り返る。
莉愛奈が本を閉じる。
しおりはスマホから顔を上げた。
葵はコーヒーカップを置く。
部長だけは寝ていた。
「おかえり」
葵の言葉に、有斗は少し笑う。
今日一日を思い返す。
レジ。
接客。
ありがとう。
疲れた。
だが。
悪くなかった。
むしろ。
明日も頑張ろうと思えた。
それはきっと。
仕事のおかげだけではなかった。
帰る場所があるからだ。
そう思いながら、有斗は共有スペースへ足を踏み入れた。




