勇者、お客様に話しかけられる
開店から三十分。
有斗は園芸コーナーに立っていた。
ホームセンターの朝は思っていたより忙しい。
次々と客が入ってくる。
花の苗を選ぶ人。
工具を探す人。
洗剤を買いに来た人。
年齢も目的も様々だった。
店内には落ち着いたBGMが流れている。
天井のスピーカーから流れる案内放送。
遠くで聞こえるレジの電子音。
そして時折響く店員たちの声。
有斗は商品棚の前で立ち尽くしていた。
何をしていいか分からないわけではない。
店長から説明は受けた。
商品の整理。
品出し。
清掃。
客の案内。
頭では理解している。
だが実際に店に立つと話は別だった。
周囲の全員が慣れて見える。
自分だけが初心者だった。
少しだけ居心地が悪い。
軍に入ったばかりの頃も、こんな気持ちだったかもしれない。
有斗はふと思い出した。
騎士見習いだった頃。
先輩たちの後ろを付いて歩き、何をすればいいのか分からず緊張していた。
あの頃と少し似ている。
違うのは剣ではなく名札を付けていることくらいだった。
店長から言われた仕事を一つ終えた頃だった。
背後から声が掛かる。
「すみません」
有斗の背筋が伸びた。
反射だった。
ほとんど条件反射に近い。
振り返る。
そこには七十代くらいの男性が立っていた。
普通のお客さんだ。
魔物ではない。
魔王軍でもない。
ただのおじいさんだった。
それなのに妙に緊張する。
「はい」
少し声が硬かった。
自分でも分かった。
男性は気にした様子もなく尋ねる。
「脚立ってどこにあります?」
有斗は固まった。
脚立。
知っている。
見たこともある。
たぶんあれだ。
高い所に登るやつ。
だが。
どこにあるかは知らない。
沈黙は二秒ほどだった。
しかし有斗にはもっと長く感じられた。
店長の顔が浮かぶ。
困ったら聞く。
朝、そう言われていた。
「申し訳ありません」
有斗は頭を下げた。
「確認して参ります」
男性は笑った。
「新人さん?」
「はい」
「頑張ってね」
その言葉に少し驚いた。
怒られると思っていたからだ。
有斗は急いで近くの先輩店員の元へ向かった。
場所を聞く。
案内してもらう。
そして再び男性の元へ戻った。
脚立売り場まで案内する。
「こちらです」
男性は棚を見上げた。
「ありがとう」
短い一言だった。
それだけだった。
だが。
有斗は少し嬉しかった。
昼前。
休憩室。
有斗は紙コップのお茶を飲んでいた。
窓の外では夏の日差しが強くなっている。
駐車場のアスファルトが白く光っていた。
初めての接客。
失敗したわけではない。
成功したわけでもない。
ただ。
無事に終わった。
その事実だけで少し安心していた。
「どう?」
声がした。
店長だった。
有斗は少し考える。
色々あった。
緊張もした。
分からないことだらけだった。
それでも。
「難しいです」
正直な感想だった。
店長は笑う。
「そうだろうね」
「ですが」
有斗は窓の外を見た。
店へ入ってくる人たち。
家族連れ。
年配の夫婦。
学生。
それぞれの生活がある。
それぞれの目的がある。
ノクスフィアでは見なかった光景だった。
「少しだけ」
言葉を探す。
「面白いです」
店長は嬉しそうに頷いた。
「それなら大丈夫だ」
何が大丈夫なのかは分からない。
だが。
その言葉には不思議と説得力があった。
夕方。
仕事を終えた有斗はグリドラへ戻っていた。
玄関を開ける。
共有スペースから声が聞こえる。
瀬玲奈の笑い声。
テレビの音。
部長の鳴き声。
いつものグリドラだった。
「ただいま」
そう言いながら中へ入る。
すると。
全員がこちらを見た。
まるで結果発表を待っていたような顔だった。
有斗は少しだけ笑う。
朝とは違う。
緊張はもうなかった。
「どうだった?」
葵が尋ねる。
有斗は少し考える。
今日一日を振り返る。
初めての名札。
初めての接客。
初めての案内。
初めてだらけだった。
それでも。
「楽しかった」
自然とそう答えていた。
その言葉を聞いて。
葵は少しだけ安心したように笑った。
グリドラの夕暮れは、今日も穏やかだった。




