勇者、名札を受け取る
ホームセンターの自動ドアが開く。
涼しい空気が有斗を迎えた。
外は既に夏の気配を帯びているが、店内は快適だった。
天井から流れる控えめなBGM。
規則正しく並んだ商品棚。
開店前の静かな店内。
客はいない。
代わりに従業員たちが慌ただしく動いていた。
段ボールを運ぶ者。
売り場を整える者。
レジの準備をする者。
誰もが当たり前のように働いている。
有斗は入口近くで立ち尽くした。
少し場違いな気分だった。
数週間前まで魔王城へ乗り込んでいた男が、今はホームセンターの入口で緊張している。
人生とは本当に分からない。
「有斗くん?」
声を掛けられた。
振り向くと、面接の時に会った店長が立っていた。
四十代くらいの男性。
穏やかな笑顔を浮かべている。
有斗は少し安心した。
知っている顔がいるだけで違う。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
店長は時計を見て笑った。
出勤時間の十五分前。
有斗は予定通りだと思っていた。
「遅刻はできませんので」
真面目な返事だった。
店長は苦笑する。
「まあ、その意気込みは大事かな」
そう言って事務所へ案内した。
事務所は思ったより狭かった。
机。
ロッカー。
書類棚。
そして壁に貼られた勤務表。
学校の職員室を少し小さくしたような空間だった。
有斗は周囲を見回す。
知らないものばかりだ。
それでも以前ほど戸惑わない。
現代へ来て一か月。
少しずつ慣れてきている証拠かもしれない。
「まずはこれ」
店長が小さなケースを差し出した。
透明なケースの中には白い札が入っている。
有斗は受け取った。
そこには名前が書かれていた。
有斗 蓮
自分の名前だった。
ただ、それだけなのに少し不思議な気持ちになる。
「名札ですね」
「そう。仕事中は付けてもらうから」
有斗は名札を見つめた。
勇者の証でもない。
王国から与えられた勲章でもない。
聖剣でもない。
ただの名札。
それなのに。
なぜか少し嬉しかった。
胸元へ付けてみる。
小さな重みを感じた。
鏡はない。
それでも何となく分かった。
今の自分は勇者ではなく店員なのだ。
「似合ってるよ」
店長が言う。
有斗は少し照れた。
褒められることに慣れていないわけではない。
だが勇者としてではなく、有斗蓮として褒められるのは初めてだった。
朝礼が始まる。
従業員たちが集まっていた。
十人ほどだろうか。
年齢も様々だった。
大学生らしい若者。
主婦。
年配の男性。
みんな普通の人たちだ。
店長が有斗を紹介する。
「今日から入る有斗くんです」
全員の視線が集まった。
その瞬間。
有斗の背筋が伸びる。
王の前で話した時より緊張した。
間違いなく。
「有斗蓮です」
声が少し硬い。
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
数秒の沈黙。
そして。
「よろしくー」
「頑張ってね」
「困ったら聞いて」
思っていたよりずっと優しかった。
有斗は少しだけ肩の力を抜く。
朝礼が終わる。
開店まであと十分。
店長は売り場を案内してくれた。
工具コーナー。
園芸コーナー。
日用品売り場。
ペット用品。
どこまでも続く商品棚。
有斗は圧倒される。
「広いですね」
思わず本音が漏れた。
店長が笑う。
「最初はみんなそう言う」
有斗は頷いた。
本当に広い。
魔王城ほどではない。
だが十分に迷えそうだった。
ふと足が止まる。
ペット用品コーナーだった。
猫用のおもちゃ。
猫用ベッド。
猫用のおやつ。
有斗は商品を手に取る。
部長の顔が浮かんだ。
あの丸い体。
昼寝ばかりしている姿。
「猫飼ってるの?」
店長が聞いた。
「はい」
正確には飼われている気もする。
「太っています」
「ははは」
店長は笑った。
「猫は大体そうだよ」
そういうものらしい。
開店時間が近付く。
店内放送が流れた。
従業員たちが持ち場へ向かう。
空気が少し変わる。
静かな準備時間が終わる。
仕事が始まる。
有斗は胸元の名札に目を落とした。
小さなプラスチックの札。
そこには自分の名前が書かれている。
勇者ではない。
救世主でもない。
ただの新人アルバイト。
それでも。
悪くないと思った。
むしろ少し誇らしかった。
自動ドアが開く。
最初の客が入ってくる。
有斗は深く息を吸った。
そして前を向く。
新しい日常が始まろうとしていた。




