勇者、初出勤
セリフみたいな書き方とこんな感じの書き方どちらが好きですか?教えてもらえたら嬉しいです。
有斗がグリーンハイツドラゴンで暮らし始めてから、一か月が過ぎようとしていた。
六月最後の月曜日。
朝六時半。
共有スペースには静かな空気が流れていた。
窓は少しだけ開いている。外から吹き込む風がカーテンを揺らし、古い扇風機がカタカタと頼りない音を立てながら首を振っていた。
窓際では部長が腹を見せて寝ている。
警戒心という言葉を知らない顔だった。
そんな平和な朝の中で、一人だけ落ち着きを失っている男がいた。
有斗だった。
テーブルに座っているものの、視線は何度も壁時計へ向かう。
六時三十一分。
六時三十二分。
六時三十三分。
時間は進んでいるはずなのに、今日は妙に遅く感じた。
今日から仕事だった。
ホームセンターのアルバイト初日。
面接結果を待っていた時とは違う。
受かるかどうかではなく、ちゃんと働けるかどうか。
その不安が胸の奥に居座っている。
数週間前まで魔王軍と戦っていた男が、アルバイト初日を前に緊張している。
自分でも少しおかしかった。
共有スペースの扉が開く。
眠そうな顔をした葵が入ってきた。
髪は少し乱れている。
まだ完全には目が覚めていないらしい。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。
氷がカランと音を立てた。
葵はそのまま向かいの席へ座ると、有斗の様子を眺めた。
時計。
スマホ。
時計。
窓の外。
また時計。
忙しい。
本人は座っているだけなのに落ち着きがない。
「眠れなかった?」
不意に聞かれ、有斗は言葉に詰まった。
否定しようと思ったが、無理だった。
見れば分かる。
「少し」
そう答えると、葵は笑った。
「少しって顔じゃないけど」
有斗は返事をしなかった。
図星だったからだ。
窓の外では小学生たちが登校している。
近所の主婦がゴミ出しをしている。
いつも通りの朝。
だが有斗には、その全てがどこか遠く感じられた。
今日一日のことばかり考えてしまう。
「緊張するのは当たり前だよ」
葵は麦茶を飲みながら言った。
「私も最初の出勤日はそうだったし」
「葵もか」
「そりゃそう」
意外そうな顔をする有斗に、葵は苦笑する。
ゲーム会社の社員も、最初から完璧だったわけではない。
誰にだって初めてはある。
有斗は少しだけ肩の力を抜いた。
朝食の頃には全員が集まっていた。
瀬玲奈が作った卵焼きの匂いが部屋に広がる。
莉愛奈は朝のランニング帰りらしく、タオルを首に掛けていた。
しおりはソファに座り、相変わらずスマホを眺めている。
部長だけはずっと同じ場所で寝ていた。
朝食を囲む光景も、もう見慣れたものになっている。
有斗は味噌汁を口に運んだ。
温かい。
旅の途中にも仲間と食事をしたことはある。
だが、あの頃はいつも次の戦いが待っていた。
食事は休息であり準備だった。
今は違う。
戦いはない。
魔物もいない。
目の前にあるのは仕事だけだ。
そう考えると少し笑えてくる。
「勇者様」
莉愛奈が声を掛けた。
「何だ」
「失敗しても死にません」
真面目な顔だった。
有斗はしばらく考える。
そして納得した。
確かにそうだ。
レジを打ち間違えても死なない。
商品の場所を間違えても死なない。
客に怒られても死なない。
魔王軍に追われるよりはずっと安全だった。
「その通りだな」
思わず笑う。
瀬玲奈も笑った。
葵も吹き出した。
緊張していた空気が少しだけ軽くなる。
八時半が近づく。
有斗は立ち上がり、玄関へ向かった。
新品のスニーカーを履く。
まだ少し硬い。
立ち上がったところで、ふと後ろを振り返った。
共有スペースが見える。
古い扇風機。
少し傷の付いたテーブル。
窓際の部長。
洗い物を片付ける瀬玲奈。
タオルで髪を拭く莉愛奈。
ソファの上のしおり。
コーヒーを飲む葵。
どれも当たり前の景色だった。
けれど一か月前の自分には想像もできなかった景色でもある。
ノクスフィアに帰る方法はまだ見つかっていない。
これから先どうなるかも分からない。
それでも。
この場所はもう他人の家ではなかった。
「行ってきます」
自然と口から出た。
誰かに教わったわけではない。
だが今は、この言葉が一番しっくりきた。
瀬玲奈が顔を上げる。
莉愛奈も振り返る。
しおりはスマホから視線だけをこちらへ向けた。
葵はコーヒーカップを置く。
「行ってらっしゃい」
特別な言葉ではない。
ただの日常の挨拶だ。
それなのに、有斗は少しだけ嬉しくなった。
玄関の扉を開く。
夏の空気が流れ込んできた。
蝉の鳴き声。
青空。
朝の日差し。
有斗は一歩外へ出る。
ホームセンターまでの道を歩きながら、自分でも不思議なことを思った。
緊張している。
不安もある。
だが、嫌ではない。
むしろ少し楽しみだった。
勇者としてではなく。
救世主としてでもなく。
有斗蓮として働く。
その最初の一日が、今始まろうとしていた。
その頃。
高層ビルの一室。
スーツ姿の男は報告書へ目を通していた。
そこには有斗たちの名前が並んでいる。
男はしばらく黙ったまま資料を見つめた。
やがて小さく息を吐く。
「予想より早いな」
誰に向けた言葉でもない。
だがその表情は僅かに険しかった。
窓の外では夜の街が輝いている。
そして男は再び資料へ視線を落とした。
その中には。
有斗たちですら知らない情報が記されていた。




