有斗、結果を待つ
有斗が面接を受けてから三日が経った。
六月の終わりが近い朝。
グリーンハイツドラゴンの共有スペースには、古い扇風機の音が響いていた。
首を振るたびに、カタ、カタ、と少し頼りない音がする。
窓際では部長が腹を出して眠っていた。
野生はもうない。
たぶん最初からなかった。
そんな平和な朝の中で、一人だけ落ち着かない男がいた。
有斗蓮。
数週間前までノクスフィアで魔王討伐の旅をしていた勇者は、今、窓の外をじっと見つめていた。
座る。
立つ。
窓を見る。
また座る。
そしてまた立つ。
同じ動作を、もう何度も繰り返している。
葵は出勤用のバッグに荷物を詰めながら、その様子を横目で見ていた。
「落ち着かない?」
声を掛けると、有斗はすぐに振り返った。
「落ち着いている」
返事は早かった。
ただし、説得力はなかった。
「落ち着いてる人は、十分で五回も立ったり座ったりしないよ」
有斗は何か言い返そうとして、やめた。
図星だったらしい。
今日はホームセンターの面接結果が来る日だった。
採用でも不採用でも電話が来る。
葵にとってはよくある話だ。
けれど有斗にとっては違う。
この世界で初めて、自分の意思で踏み出した一歩。
その結果を待つ朝だった。
有斗は窓の外へ視線を戻した。
グリドラの前の道路を、小学生たちが笑いながら歩いていく。
向かいの家では、誰かが洗濯物を干していた。
いつもの朝。
何の変哲もない現代の朝。
けれど有斗には、その何もかもがまだ新しかった。
「受かりたい?」
葵が尋ねる。
有斗は少し黙った。
それから、小さく頷いた。
「受かりたい」
声は静かだった。
だが、その一言には妙な重みがあった。
魔王と戦う時のような覚悟ではない。
王国を背負う勇者の言葉でもない。
ただ、この世界で生きようとしている一人の男の言葉だった。
「そっか」
葵はそれ以上何も言わなかった。
軽く励ますこともできた。
落ちても次がある、と言うこともできた。
でも今の有斗に必要なのは、たぶんそういう言葉ではない気がした。
だから葵は、バッグを肩に掛けて玄関へ向かった。
「連絡来たら教えて」
「分かった」
「あと、部長に履歴書踏ませないように」
窓際で寝ていた部長が、ちょうど大きなあくびをした。
有斗は真面目な顔で頷く。
「警戒する」
「そこまでしなくていい」
葵は少し笑って、グリドラを出た。
---
昼過ぎ。
葵は会社のデスクでパソコンに向かっていた。
画面には新作RPGのイベント資料。
勇者。
魔王。
聖剣。
最近、その単語を見るたびに、どうしてもグリドラの住人たちを思い出してしまう。
仕事のはずなのに、仕事ではない何かが混ざってくる。
不思議な感覚だった。
スマホが震えた。
グリドラ住民グループ。
有斗からだった。
『まだ来ない』
短い文章。
それだけで、共有スペースで落ち着きなくスマホを見つめている有斗の姿が浮かんだ。
葵は小さく笑う。
『仕事中』
そう返すと、すぐに瀬玲奈から返信が来た。
『私も一緒に待っています』
続いて莉愛奈。
『待機しています』
さらにしおり。
『部長が寝てる』
写真が送られてきた。
そこには、窓際で完全に伸びきった部長が写っていた。
面接結果とは何の関係もない。
葵は思わず口元を緩めた。
グリドラは今日も平和らしい。
---
夕方。
仕事を終えた葵がグリドラへ戻ると、共有スペースには全員が揃っていた。
西日が窓から差し込み、部屋の中を薄いオレンジ色に染めている。
テレビでは夕方のニュースが流れていた。
けれど誰もちゃんと見ていない。
有斗はテーブルの上にスマホを置き、その画面をじっと見ていた。
莉愛奈は腕を組んで座っている。
瀬玲奈は両手を胸の前で握っていた。
しおりはソファでスマホを触っているが、いつもより画面を見る速度が遅い。
部長だけが、テーブルの下で丸くなっていた。
「ただいま」
葵が言うと、瀬玲奈が小さく振り向いた。
「おかえりなさい」
その声にも少し緊張が混じっている。
まだ電話は来ていないらしい。
葵はバッグを置き、椅子に腰を下ろした。
不思議だった。
たった一人のアルバイト結果を、全員で待っている。
普通なら大げさだ。
けれどグリドラでは、もうそれが自然になっていた。
その時だった。
テーブルの上のスマホが震えた。
着信音が鳴る。
共有スペースの空気が止まった。
テレビの音だけが妙に大きく聞こえる。
有斗はスマホを見つめた。
知らない番号。
おそらく面接先だ。
手を伸ばすまでに数秒かかった。
その数秒が、やけに長い。
有斗の指先がわずかに強張っている。
数週間前まで魔王軍と戦っていた男が、たった一本の電話を前に息を呑んでいた。
葵は何も言わなかった。
莉愛奈も、瀬玲奈も、しおりも。
誰も急かさない。
やがて有斗は深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「もしもし」
声は普段より少し硬かった。
全員が黙って見守る。
有斗は相手の声に耳を傾ける。
「はい」
短く返事をする。
「はい」
もう一度。
瀬玲奈が祈るように両手を握り締めた。
莉愛奈の背筋も伸びている。
しおりはスマホから顔を上げていた。
部長だけが、テーブルの下で寝返りを打つ。
「分かりました」
有斗はそう言って、通話を切った。
沈黙が落ちる。
スマホを耳から離したまま、有斗はしばらく動かなかった。
表情は読めない。
葵は少しだけ不安になる。
駄目だったのだろうか。
そう思った瞬間、有斗が顔を上げた。
ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。
「採用だった」
その一言で、止まっていた空気が一気に動き出した。
瀬玲奈が椅子から立ち上がる。
「おめでとうございます!」
莉愛奈が有斗の肩を叩いた。
強すぎたのか、有斗の体が少し揺れる。
「やりましたね、勇者様」
しおりも小さく頷いた。
「よかった」
短い言葉だったが、ちゃんと嬉しそうだった。
葵も笑った。
「おめでとう、有斗」
有斗は照れくさそうに視線を逸らした。
王に褒められたことはある。
民衆から歓声を受けたこともある。
けれど、この小さな共有スペースで祝われることは、それとはまったく違っていた。
大きな功績ではない。
世界を救ったわけでもない。
ただ、アルバイトに受かっただけ。
それなのに。
胸の奥がじんわり温かかった。
その夜の夕飯は、少しだけ豪華になった。
瀬玲奈が張り切って味噌汁を作り、莉愛奈は買ってきた惣菜を皿に並べた。
しおりは「祝」と検索して、なぜかクラッカーの動画を流した。
部長はいつも通り、食卓の下で何かを狙っていた。
有斗は湯気の立つ味噌汁を見つめる。
グリドラへ来て三週間。
まだ分からないことばかりだ。
帰る方法も分からない。
この世界で自分が何者なのかも分からない。
それでも。
今日、ひとつだけ増えたものがある。
明日から向かう場所。
自分を待っている場所。
それはきっと、居場所と呼ぶにはまだ小さい。
けれど有斗にとっては、確かな一歩だった。




