部長、消える
七月最初の日曜日。
朝から暑かった。
窓の外では蝉が鳴いている。
夏が来た、と言わんばかりの大合唱だった。
グリーンハイツドラゴンの共有スペースでは、古い扇風機が今日も働いている。
首を振るたびにカタカタと音が鳴る。
もはや風より音の方が仕事をしている気もした。
それでも誰も文句は言わない。
グリドラの住人たちは、もう慣れていた。
有斗はソファに座っていた。
今日は休みだ。
働き始めてから初めての完全な休日だった。
ホームセンターでの仕事にも少しずつ慣れてきた。
レジはまだ苦手だ。
商品の場所も全部は覚えられていない。
それでも、一週間前の自分よりは確実に前へ進んでいる。
そんなことを考えながら麦茶を飲む。
冷たい。
生き返る。
向かいでは莉愛奈がストレッチをしていた。
柔軟運動らしい。
瀬玲奈はキッチンで昼食の準備をしている。
包丁の音が小気味よく響いていた。
しおりはいつもの定位置。
ソファの端でスマホを見ている。
そして葵はテレビを眺めながら休日を満喫していた。
平和だった。
とても平和だった。
だからだろう。
誰も気付かなかった。
違和感に。
「そういえば」
不意に瀬玲奈が顔を上げた。
キッチンから共有スペースを見る。
少し首を傾げていた。
「部長見ませんでしたか?」
その言葉に葵が振り返る。
「部長?」
言われて周囲を見る。
窓際。
いない。
ソファの下。
いない。
テーブルの下。
いない。
いつも昼寝している場所にいなかった。
有斗も視線を動かす。
確かにいない。
少し前まで気にもしていなかった。
だが言われてみると違和感がある。
部長はよく寝る。
本当に驚くほど寝る。
だから大抵はどこかで転がっている。
それなのに今日は姿が見えない。
「部屋じゃないの?」
葵が言う。
瀬玲奈は首を横に振った。
「さっき見ました」
「ベランダは?」
「いませんでした」
共有スペースに小さな沈黙が落ちる。
テレビの音だけが聞こえた。
有斗は立ち上がる。
廊下へ出た。
二階の通路。
階段。
共用スペース。
一通り見て回る。
いない。
呼んでみる。
返事はない。
当たり前だ。
猫だから。
それでも呼んでしまう。
「部長」
返事はなかった。
十分後。
共有スペースには妙な空気が流れていた。
みんな何となく落ち着かない。
部長がいない。
それだけだ。
それだけなのに気になる。
有斗は窓の外を見た。
アパート前の道路。
通り過ぎる自転車。
散歩中の犬。
見慣れた住宅街。
そのどこにも部長はいない。
「最後に見たのは?」
有斗が聞く。
「昨日の夜です」
瀬玲奈が答えた。
「ご飯も食べてました」
「朝は?」
「見てません」
朝ご飯。
その言葉で有斗は眉をひそめた。
部長は食事に関してだけは真面目だ。
誰よりも真面目だ。
その部長が朝から姿を見せていない。
少しおかしい。
葵も同じことを考えていた。
部長は元野良猫だった。
だから外へ出ること自体は珍しくない。
だが最近はほとんどグリドラから離れなかった。
昼寝。
食事。
昼寝。
食事。
たまに有斗の膝。
そんな生活だった。
「……探す?」
葵が言う。
有斗は少しだけ黙った。
たかが猫。
そう思おうとした。
だが無理だった。
気付けば当たり前になっていたのだ。
共有スペースの窓際にいる姿が。
ご飯をねだる声が。
足元に転がる丸い体が。
いないと落ち着かない。
それが答えだった。
有斗は立ち上がる。
そして短く言った。
「探そう」
その声は思った以上に真剣だった。
莉愛奈が立ち上がる。
瀬玲奈も頷く。
しおりはスマホを閉じた。
そして。
休日だったはずのグリドラに、小さな緊張が走る。
部長捜索隊。
結成の瞬間だった。
窓の外では相変わらず蝉が鳴いている。
夏の空は青かった。
そのどこかで、当の本人は呑気に昼寝をしていることなど、まだ誰も知らない。




