第42話「封書」
花月十七日。午後。
上層区。ヘルマンの両替商。今日も表口から入った。受付を通って二階へ。右腕は外套で隠せる程度に落ち着いている。だが階段を上る足が重い。昨日の疲労が、まだ身体の奥に溜まっている。
扉を叩いた。
「どうぞ」
入った。蝋燭が三本。花月の曇り日は窓からの光が足りない。帳簿の山。古い紙と蝋の匂い。
ヘルマンが茶を注いだ。上等な茶。琥珀色の水面に花のような香りが立つ。
「おかえりなさいまし」
「ただいま」
座った。茶を一口飲んだ。うまい。——この老人の茶を飲むたびに、自分の安茶が惨めになる。
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「報告がある」
短く伝えた。クロイツ丘陵方面の野営地。天幕五つ。荷馬車三台。二十人以上の武装した人間。軍事級の探知器具。——それを壊したこと。数週間の時間を稼いだこと。
右腕の傷のことは省いた。ヘルマンの目が外套の袖をちらりと見たが、何も言わなかった。
「さようでございますか」
「あの連中は撤退しない。態勢を立て直す。——時間を稼いだだけだ」
「ええ。わたくしも同じ見立てでございます」
沈黙が落ちた。
「ヘルマンさん。封書の件を——聞きに来た」
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ヘルマンの手が、杖の上で止まった。
長い間。蝋燭の炎が揺れた。窓の外から馬車の音が遠く聞こえて、消えた。
ヘルマンが眼鏡を外した。布で拭いた。ゆっくりと。かけ直した。
「お約束を——果たす時が参りました」
机の引き出しを開けた。帳簿の下から——小さな箱を取り出した。
机の上に置いた。蓋を開けた。
中に、封書が一通。
古い紙だった。角が僅かに黄ばんでいる。封蝋で閉じてある。蝋の色は暗い赤。十年の歳月を経た色だ。
折り方に見覚えがある。報告書を折るときの——情報部の折り方。
宛名はヘルマンの名前。差出人の名前はない。
「これは、わたくしの旧友が預けてくださったものでございます」
旧友。——俺の元上官。この老人にレーベンを紹介し、俺がこの街に辿り着くきっかけを作った人間。
「十年前に預かりました。『その時が来たら渡してやってくれ』と。何をもってその時とするか——その判断だけが、わたくしに委ねられておりました」
ヘルマンが封書を差し出した。
「その時が——来たと判断いたしました」
受け取った。
軽い。紙一枚の重さだ。——だが指先に、重い。
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封蝋を割った。
ぱり、と乾いた音がした。十年間閉じられていた蝋が、指の下で砕けた。
紙を取り出した。一枚。折り畳まれている。開いた。
筆跡に——見覚えがある。
あの人の字だ。丸みのある、几帳面な字。報告書の末尾にいつも署名を添えていた。十年ぶりに見る字が、蝋燭の灯りの下で黄ばんだ紙の上に並んでいた。
読んだ。
覚書、とある。日付はない。
——作戦に使用された情報の出所について。
あの作戦の。部隊が壊滅した、あの作戦の。
内通者経由で入手した情報として作戦立案に用いた。しかし作戦後、入手経路の検証を試みたところ、内通者の存在は確認できたが、当該情報がその人物を経由した裏付けは取れなかった。
——指先が冷たくなっていた。
情報部の通常手順であれば、入手経路の確認は作戦前に完了しているはずだが、今回はその確認が行われた形跡がなかった。
経路の確認が——されていなかった。あの情報は、出所が確認されないまま作戦に使われた。俺はそれを知らなかった。
この件について上層部に調査を進言した。回答——「調査不要。事案は終結。これ以上の追及を禁ずる」。
この命令の経路が通常と異なっていた。情報部の指揮系統ではなく、別の——
文が途切れていた。最後の行の途中で。書き終わる前に何かが起きたか。あるいは——意図的に、ここで止めたか。
紙を持つ手が震えていた。顔を上げた。
ヘルマンが杖に両手を重ねて、こちらを見ていた。蝋燭の灯りの中で、動かない。
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「ヘルマンさん。これは——」
声が掠れた。喉が乾いている。
覚書の内容を短く伝えた。入手経路が未確認だったこと。調査が止められたこと。命令の経路が通常と異なっていたこと。
「補足をさせていただきます」
ヘルマンが茶碗を手に取った。一口飲んだ。置いた。
「わたくしの方で、書簡による確認を続けておりました。先日の返事と照らし合わせますと——」
間。蝋燭の炎が揺れた。
「あの作戦に使われた情報は——意図的に流された可能性がございます」
部屋が静かだった。
窓の外から遠い馬車の音。花月の午後の日常の音だ。
意図的に流された。あの情報が。俺が分析し、信頼し、作戦を進言するために使った、あの情報が。——出所の確認がされないまま。確認されなかったのではなく——確認させなかった人間がいる。
「……俺の判断ミスでは、なかったということか」
「ミスではなかったかもしれません」
ヘルマンの声は穏やかだった。——だがその穏やかさの下に、何かが張りつめている。
「——ですが、全容はまだわかりません」
椅子の背に身体を預けた。天井を見た。蝋燭の影が天井で揺れている。
十年間。
俺の判断ミスで、あいつらは死んだ。そう思ってきた。酒に逃げた。名前を捨てた。街を渡り歩いた。膝を折って、座り込んで、立ち上がれなかった。
ここまで来るのに——十年かかった。
その前提が、揺らいでいる。
「——はめられたということか」
「その可能性が高いと申し上げております」
ヘルマンが静かに言った。
「覚書にある、『命令の経路が通常と異なっていた』という記述。そして追及が止められたという事実。——誰かが、調査されることを望まなかった」
誰かが。
偽の情報を流した。あるいは、出所不明の情報が確認をすり抜けるように仕向けた。俺がそれを信じて作戦を進言するように。部隊は動いた。壊滅した。——そして調査が止められた。
あいつらの命を使って。何を、隠したかったのか。
「……命令の経路の先に、何がある」
「わたくしにも、まだ全ては見えておりません」
ヘルマンの声が低かった。
「ですが——糸の先に何かがあることは、確かでございます」
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沈黙が長かった。
茶が冷めていた。花のような香りが消えて、ただの苦い液体になっている。——飲んだ。味がしない。
「ヘルマンさん」
「はい」
「……ありがとう」
ヘルマンの目が、僅かに見開かれた。
「十年。この紙を預かり続けてくれた」
「…………お役に立てたのであれば」
ヘルマンの声が、ほんの少しだけ揺れた。——気のせいかもしれない。
封書を懐にしまった。立ち上がった。
「帰ります」
「ヴェルナーさん」
振り返った。
「——焦らぬよう。お願いいたします」
「ああ。……わかっている」
扉を閉めた。
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夜。
事務所に戻った。灯りはつけなかった。窓だけ開けた。花月の夜風がぬるい。
机の前に座った。暗い部屋。窓から入る街灯の灯りだけが、壁と机を薄く照らしている。
引き出しに手を置いた。この中に仕様書がある。軍の調達規格で書かれた、あの仕様書。半年前から追ってきた糸の端が——十年前の事件と繋がった。
煙草を巻いた。巻きながら、手が震えていることに気づいた。
ミスではなかった——かもしれない。
あの情報は流された。確認させなかった人間がいる。追及を止めた人間がいる。あいつらの死は——俺のミスではなかったかもしれない。
なら。
——あいつらは、何のために死んだ。
誰が。なぜ。何を守るために。
十年間の問いが、形を変えた。「俺のせいだ」は終わった。「俺のせいではなかったかもしれない」が始まった。
前のほうが、楽だった。
俺の責任なら、俺が背負えばいい。背負って、潰れて、酒に逃げて、それで済んだ。だが——はめられたなら。意図があったなら。あいつらの死に理由があったなら——それを見つけなければならない。
煙草に火をつけた。吸った。煙を吐いた。窓から出ていく。
今は——まだ全体が見えない。糸の先が何に繋がっているのか。
だが見えないからといって、存在しないわけではない。
煙草を灰皿に押しつけた。窓の外。花月の夜空。星が、街灯に負けて小さく光っている。
明日から——また、動く。




