第41話「代償」
花月十六日。昼前。
旧街道を南西に歩いている。レーベンに向かって。
右腕が痛い。布の下で傷が脈と一緒に疼いている。アンセルが巻いてくれた布には血が滲んでいるが、止まりかけている。浅い傷だ。——浅いが、外套の袖が裂けているので片腕を庇って歩く形になる。
足が重い。太腿が張っている。膝が鳴る。昨夜ろくに眠れず、夜明け前に動いて、走って、斬られて、歩いている。三十八の身体に二日分の無茶が溜まっている。
パンの残りを齧った。昨日の朝から同じパンだ。硬い。顎に響く。干し肉はもうない。——灰色猫亭の煮込みが恋しい。マルタの煮込みと、安い茶と、軋む椅子が。
「ヴェルナーさん。腕を見せてください」
立ち止まった。アンセルが布を解いて確認した。傷口を見て、軟膏を薄く塗り直してから、新しい布で巻いた。手際がいい。
「化膿していません。このまま清潔にしていれば」
「ああ。——ありがとう」
歩き出した。水筒の水を飲んだ。温い。
「あの器具のことですが——」
「ああ。あの精度のものを据えて探査していた。目標は地面の下だ」
「わたしも同じ推測です。クロイツ丘陵の東側斜面。あの地形と、器具の向きを照らし合わせると——何かがあります。かなり大きなものだ」
何か。古い時代のものか。仕様書が示していた探知対象が、初めて具体的な場所を持った。半年前は「誰かが何かを探している」だった。今は——「何が、どこにあるか」が見えかけている。
「数週間の時間は稼いだ。替えの器具を用意するまで、あの精度の探査は再開できない」
「ですが——」
「撤退はしない。ああ。あの規模の投資をした集団が、一度の妨害で手を引くか。——引かない」
風がぬるい。花月の空が高い。草が道の両脇で揺れている。
「もう一つ気になったことがある」
「何でしょう」
「見張りの動き方。交代の仕方。追手の判断速度。——あの末端の人間まで、動きに迷いがなかった」
「ええ。わたしもそう感じました」
「金で雇った傭兵なら、あそこまで統制が取れない。組織が自前で育てた人間だ。——つまり、あの連中を揃えるだけで相当な年数がかかっている」
「長い準備のうえで、今動いている」
「ああ」
——長い準備。十年かもしれない。それ以上かもしれない。あの仕様書が軍の調達規格だったことと、今の野営地の軍事的な布陣が、同じ線の上に並んでいる。
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旧街道の最初の橋が見えた。
小さな石橋。下を細い川が流れている。水の音が昼の静けさの中に響いている。——昨日の夜明け前に、ここでアンセルと合流した。一日半前だ。
橋の手前で立ち止まった。
「ここから先は一人で行ける」
「ええ」
アンセルが帽子を被り直した。穏やかな旅人の顔。——この男の本当の顔がどちらなのか、もうわからない。もっとも、俺も人のことは言えないが。
「これで終わりではないですね」
「始まっただけだ」
アンセルが微かに笑った。——この男が笑うのは珍しい。
「引き続き、外から見ています。何かあれば同じ方法で」
「ああ。——頼む」
「お身体、お大事に」
「お互いにな」
石橋を渡った。振り返らなかった。足音が一つになった。
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レーベン。北の門。午後。
門番が別の男に変わっている。昨日の朝、欠伸をしていた男ではない。
「おかえりなさい。——あれ、腕どうしました」
「仕事で転んだ」
「お気をつけて」
中層区の石畳を歩いた。砂利道から石畳に変わると、足音が違う。匂いが違う。人の声。荷馬車の軋み。市場の残り香。——街の音だ。
事務所の扉に手をかけた。蝶番が軋んだ。灯りが漏れていた。
「先生!」
レーネが机の前に立っていた。こちらを見た瞬間、目が見開かれた。
「腕——!」
「浅い。問題ない」
「問題あるっすよ! 座ってください!」
座った。——座りたかった。足がもう限界だった。
レーネが棚から布と軟膏を出した。アンセルの応急処置の上から、丁寧に巻き直してくれている。手が微かに震えていたが、手際は悪くない。
「先生、ちゃんと食べてたっすか」
「干し肉と硬いパン」
「それだけっすか……。お茶、入れます」
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温かい茶が出てきた。安い茶葉だが、蒸らしが丁寧だ。——この子は、俺の淹れ方を見て覚えている。
干し肉と硬いパンの二日間の後に飲む茶は、安い茶葉でもうまい。
レーネが向かいに座った。顔が変わった。報告の顔。
「先生がいない間のこと、話します」
「ああ」
「港区の連中、増えてるっす。十人近い。商業区にも二人くらい。先生がどこに行ったか聞いて回ってました」
「ドルクのところは」
「工房の前に立ってた男——ドルクのおっちゃんが外に出て睨んだら、いなくなったっす」
——あの巨漢に正面から睨まれて動かない人間は、そういない。
「それから——」
レーネの声が、低くなった。
「港区で、二人に尾けられたっす」
「……続けろ」
「路地に入ったところで追いつかれて、一人が腕を掴んできました。あたし——膝を蹴って、走りました。灰色猫亭に逃げ込んだっす」
膝を蹴る。——俺が教えた。使えたか。
「マルタさんが出てきて、扉の前に立っただけっすけど。あいつら、帰りました」
マルタが扉の前に腕を組んで立つ。元冒険者の大柄な女主人。——組織の末端なら、退散する。
「怪我は」
「腕を掴まれた跡がちょっと」
「見せろ」
左の手首。指の跡が薄く残っていた。——もう消えかけている。だが。
「……よくやった」
レーネの肩が、小さく揺れた。
「怖かったっす」
短い一言だった。——この子が「怖い」と口にすることは、めったにない。
「怖くて当然だ。怖くなくなったら、そっちのほうが危ない」
「……はい」
「だが逃げ切った。灰色猫亭に行ったのも正解だ。判断は間違っていない」
レーネが茶碗を両手で包んだ。指先に力が入っている。
——この子に、怖い思いをさせた。俺が丘陵に出ている間に。
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夜。
レーネを帰した。「まっすぐ下宿に帰れ。寄り道するな」。頷いて出ていった。軽い足音が石畳を遠ざかった。
一人になった。
窓を開けた。花月の夜風がぬるい。レーベンの石畳の匂い。遠くで誰かの笑い声が聞こえる。——日常だ。
煙草を巻いた。火をつけた。吸った。二日ぶりだ。肺に煙が入ると、身体の緊張が少しだけ緩んだ。
数えてみる。
器具を壊した。組織の探査を数週間止めた。クロイツ丘陵の東側斜面の下に、何かがある。それがわかった。
代わりに。
右腕を斬られた。一人の手首の腱を断った。殺してはいない。だが野営地に騒ぎを起こした。——俺が来たことは、もう向こうも知っている。
仲介屋の不在中に、市内で人を動かした。レーネが尾けられた。ドルクの工房に人が立った。——俺の周りの人間に圧がかかっている。
組織は、仲介屋と掃除屋が同一人物だという確信に近づいている。繋がれば——レーベンでの暮らしが、変わる。
もう、仲介屋だけの顔では——やっていけないかもしれない。
煙を吐いた。窓から出ていく。
明日、ヘルマンに会う。
あの老人が「もう少し」と言っていた封書。「お約束は守ります」と言った。——明日は、その約束の日だ。
煙草を灰皿に押しつけた。
右腕が疼いている。足が重い。背中が痛い。身体中が軋んでいる。
だが——帰ってきた。蝶番の軋む扉の向こう側に。
戻ってきてくださいね、とあの子は言った。
——ああ。戻ってきた。




