第40話「丘陵」
花月十六日。夜明け前。
目が覚めた。寒い。岩が冷たい。腰が痛い。——背中に岩を当てて寝ると、こうなる。
起き上がった。暗い。星がまだ残っているが、空の端がわずかに白い。
アンセルは既に起きていた。荷を整え、外套の紐を締め直している。
「おはようございます」
「ああ」
水を飲んだ。硬いパンを一口齧った。噛むのに力が要る。——腹に入れておかないと身体が動かない。
外套の内側に手を入れた。布の包みの結びを解いた。
短い刃を鞘から抜いた。掌ほどの刃渡り。柄が手に収まる。——手は覚えている。鞘に戻した。
真鍮の筒。端の蓋を回して確かめた。銅の円盤。表面の刻印が指先に伝わる。
問題ない。道具は生きている。——ドルクの十年分の手入れが、ここで効いている。
「段取りを話す」
声を落として手順を伝えた。アンセルが一度だけ聞き返した。確認を取って、頷いた。
「承知しました」
「——お互い、無理はするな」
「ええ」
立ち上がった。腰が軋んだ。膝が鳴った。——関係ない。動け。
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東の岩場。
地面を這った。岩の間を、体を低くして進む。石が肋骨に当たる。膝を擦った。土と草の匂いが鼻に入る。
空がわずかに白み始めている。——時間がない。明るくなれば見つかる。
天幕の裏手が見える位置まで来た。台が見える。布で覆われた精密器具。
見張りが二人。台の近くに一人。天幕の前にもう一人。夜が明ける前の、最も眠い時間帯だ。だが訓練された兵は、この時間にこそ目を張る。
待った。息を殺した。
——南の方角から、石が斜面を転がる音がした。続けてもう一つ。
自然な落石。——だが連続して二つは、自然ではない。
台の近くの見張りが南を向いた。天幕前の見張りと視線を交わした。一人が動いた。南へ。確認に行く。
一人になった。
——今だ。
這い出た。音を立てない。十年前は当たり前にできた。今は意識しなければできない。一歩ごとに「静かに」と頭が命令を出す。
見張りの背後。五歩。四歩。三歩。
見張りが振り返った。——空気の変化か。音か。
目が合った。
相手の口が開きかけた。声が出る前に——間を詰めた。
右手。短い刃。首筋の横に当てた。浅い。皮膚に触れるだけの深さ。
「声を出すな」
耳元で。声を殺して。
男の体が固まった。首に刃が当たれば動きを止める。動けば切れると知っているからだ。左手で男の腰の剣の柄を押さえた。
殺すか。——十年前なら迷わなかった。
柄を返した。鋼の柄が、男の側頭部に当たった。鈍い音。男の膝が折れた。倒れる体を受け止めきれない。地面に落ちた。——音が出た。
台に走った。布を引いた。
器具が露出した。精密な刻印。金属の面。真鍮と銅と——知らない合金。工学派の術式が表面に走っている。あの仕様書が描いた品だ。
銅の円盤を取り出した。器具の上に載せた。表面を——決まった順序で、指でなぞった。
円盤が震えた。微かな熱が指先に伝わる。
器具の表面を走っていた刻印が——曇った。金属の面にひび割れが走っていく。音のない崩壊。
三秒。五秒。——十分だ。
円盤を回収した。
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背後から足音。——南に行った見張りが戻ってきた。
「誰だ!」
声が上がった。他の天幕から人が出てくる気配。
走った。東の岩場に向かって。
足が重い。装備が揺れる。外套の裾が引っかかる。——十年前なら、こんなところで足をもつれさせたりしない。
岩に手をかけた。登った。膝が痛いが、動く。
岩場に入った。息が上がっている。肺が焼ける。
——足音。一つ。近い。
振り返った。
若い男だった。剣を抜いている。足が速い。岩場の中まで追いかけてくる胆力がある。——素人ではない。
男が踏み込んだ。剣が横に薙いだ。
見えている。軌道がわかる。——だが身体が遅い。
避けた。半分だけ。刃が右腕の外套を裂いた。腕に灼ける痛み。——浅い。だが当たった。十年前なら当たらなかった。
短い刃を構えた。右腕が動く。動くが——遅い。
男が二歩目を踏み込んだ。上段からの斬り下ろし。
——右にずれた。岩を背にした。狭い。天井が低い。剣を振り回すには窮屈だ。
掃除屋は、戦える場所を選ばない。戦えない場所に相手を引き込む。
男の剣が岩に当たった。火花が散った。反動で——
——視界が白くなった。
雨が降っている。
石畳。暗い路地。雨が顔に当たる。冷たい。
泣き声。小さい。
外套の裾を——小さな手が掴んでいる。冷たい指。震えている。
あの子は——
——剣。
身体が動いた。頭より先に。
沈んだ。低く。男の振り下ろした腕の下を潜り、右手首の内側——短い刃が走った。
血が散った。
男が剣を取り落とした。手が開いている。右手の腱が断たれている。
蹴った。膝を。男が崩れた。
岩の間を抜けた。——追ってこない。追えない。
他の足音。遠い。こちらには来ない。野営地に戻る方向に動いている。——器具の確認が先か。壊されたものを前にすれば、侵入者一人を追うより態勢の立て直しが合理的だ。
斜面を下った。足が——動いている。走っているつもりだが、走れているかはわからない。
「ヴェルナーさん」
アンセルの声。合流点。茂みの陰にアンセルがいた。
「——ああ」
「腕を」
「浅い」
「座ってください」
座った。——座ったのか、膝が崩れたのか。わからない。
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鳥が鳴いていた。花月の朝の鳥だ。
アンセルが布を巻いてくれた。右腕。手際がいい。慣れている。
「器具は」
「壊した」
「……よくやりましたね」
「やっただけだ」
水を飲んだ。口の中が鉄の味がする。——舌を噛んだか。
「追手は」
「今は来ません。器具の確認が先でしょう」
「ああ。——二十人の野営を一人の侵入者のために崩すか。しない。態勢の立て直しが先だ」
「ええ」
息を吐いた。目を閉じた。
十年前なら、もっと綺麗にやれた。声を出される前に終わらせ、痕跡を消して帰った。今は——見張りを一人昏倒させ、もう一人の手首を切り、器具を壊した。騒がれた。追われた。斬られた。
段取りは正しかった。退路も確保してあった。——身体が追いつかなかっただけだ。
だが壊した。止めた。数週間の時間を作った。
それで十分だ。十分でなくても——今の俺にはこれが限界だ。
「アンセル」
「はい」
「さっき——一瞬、止まった。岩場で」
「……ええ。見ていました」
「何かを思い出しかけた」
雨。石畳。暗い路地。泣き声。小さな手が外套を掴んでいた。——あの記憶は、砂の記憶ではない。あの事件とは違う。もっと——。
「……今は、いい。帰る」
「ええ。帰りましょう」
立ち上がった。足が震えている。膝が笑っている。右腕が痛い。左の脇腹に装備の重さ。全身が重い。
旧街道に出た。南西に。レーベンに向かって。
花月の朝の空が広がっている。雲が白い。風がぬるい。——きれいな朝だ。血の匂いがする腕を抱えて歩くには、場違いなほどに。
足は動いた。——たぶん、ではなく。動いた。




