第39話「前哨」
花月十五日。午後。
足が重い。
旧街道を半日歩いた。北の門を出た時は暗かったが、今は陽が頭の上にある。花月の空は高い。雲が薄く流れている。街の中にいると忘れるが、空というのはこういう広さのものだ。
土の道が続いている。石畳はとうに途切れた。草の匂い。土の匂い。鳥の声が遠くで鳴っている。——レーベンの路地裏とは別の世界だ。
外套の下の装備が、歩くたびに左の脇腹と腰に当たる。重心がまだ完全には馴染んでいない。城壁の中を歩いている分にはごまかせたが、半日歩くと誤魔化しが利かなくなる。足の裏が痛い。太腿が張っている。——三十八の身体だ。文句を言っても仕方がない。
「少し休みましょう」
アンセルが道の脇の木陰に腰を下ろした。荷を降ろさない。座った姿勢からすぐ立てる体勢。——密偵の休み方だ。俺も木の根元に腰を下ろした。同じ姿勢。身体が覚えている。
水筒の水を飲んだ。干し肉を齧った。硬い。噛むと顎に響く。安い干し肉の味しかしない。昨日の朝、レーネが持ってきた蜂蜜パンが恋しい。——干し肉は干し肉でしかない。
「道に変わったことは」
「ええ。轍が増えています。数日前に通った時より——荷馬車が追加されたかもしれません」
見た。確かに。新しい土の跡が古い轍に重なっている。——人が増えている。
「ここからは」
「もう少しです。旧街道をさらに行って、脇に折れます」
煙草を巻きたかったが、やめた。煙が立つ。匂いが残る。——十年前は、作戦行動中にそんな真似はしなかった。身体は怠けても、頭の中の規律は消えていない。
立ち上がった。足を動かした。
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旧街道から外れた。
アンセルが先に立ち、俺が後を追った。道なき道だが、アンセルは迷いなく歩く。下草を踏む足音が小さい。巡礼僧の足ではない。——この男は、何度ここを歩いたのか。
丘陵が近づいてきた。地面が緩やかに上がり始めている。草丈が短くなり、岩が目立ち始めた。低木の間を縫って登る。膝が痛い。息が上がる。——情けないが事実だ。
「ここから先は、声を落としてください」
頷いた。
身を屈めた。岩場に入った。アンセルが先に滑り込み、俺が続いた。
岩の隙間から、下の谷間が見渡せた。
——呼吸を止めた。
天幕が五つ。
等間隔に並んでいる。周囲に荷馬車が三台。アンセルの前回の報告では二台だった。増えている。
天幕と天幕の間に人が動いている。遠いが、腰に帯びた金属が陽に光るのが見える。武装している。目に入る範囲で六人。だが天幕の中に何人いるかは——。
「前回は天幕が三つでした。二日で二つ増えた」
声が低い。唇がほとんど動いていない。
「人数は」
「確認できた分で十五名。ですが——」
「二十は超えるか」
「おそらく」
見張りが立っている。北に一人。東に一人。南に二人。——南は旧街道に面しているからだ。交代の時間を決めた配置。天幕の間隔。荷馬車の停め方。——こういう布陣は、素人にはできない。
目を凝らした。南側の見張りの男。若い。だが——立ち方が違う。重心の置き方。両手の位置。腰の剣の吊り方。あの構えは、俺が軍にいた頃に毎日見ていたものだ。
天幕の横に、低い台が据えられていた。上に箱が載っている。布で覆われているが、形はわかる。角ばった箱。精密器具の台だ。
「あの台ですが——前回来た時、あの周囲で淡い光が出ていました。魔導具です」
探知系の魔導具。——あの仕様書が、あの分散発注が、この装備を組み上げるためのものだった。特注品の精度で、地面の下の何かの位置を探っている。
半年以上前に、「誰かが何かを探している」と結論した。盗品を集め、特注品を発注し、古い地図を調べ、場所を絞り込んできた。
今、目の前に——その「探している」が現実として動いている。二十人以上の武装した集団と、軍事級の魔導具を使って。
「……盗品稼ぎの集団じゃない」
口に出した。わかっていた。ずっと。だが——目の前に見ると、喉の奥が乾く。
「ええ。——もう、疑う余地はありません」
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日が傾き始めた。
岩場を離れた。アンセルが前回使った隠れ場所。丘の裏側の窪地。大きな岩と茂みに挟まれた空間で、三人が座れる程度の広さだ。上からは見えない。
「火は焚けませんが、風は凌げます」
荷を降ろした。途端に足の裏から腰にかけて疲労が広がった。半日歩いただけだ。——十年前なら、一日歩いても平気だった。
水を飲んだ。硬いパンを千切った。干し肉と交互に口に入れた。味気ない。灰色猫亭の煮込みが恋しい。マルタの煮込みは腹が満ちるだけじゃない。——安心する味がする。
今は、硬いパンと干し肉だ。
「連絡がありました」
アンセルが外套の内側から小さな紙片を取り出した。
「道の途中の連絡点です。市内から」
紙片を開いた。レーネの字ではない。中継されて書き写されたものだ。元の紙片は処分されているだろう。——俺たちが教わった作法だ。
「港区に新しい顔が五、六人。仲介屋がどこにいるか聞いている。ドルクの工房の前に知らない男。商業区でも動き。——気をつけて」
短い。だが十分だ。
組織が動いている。俺の不在に気づいた。仲介屋がどこに行ったかを聞いて回っている。ドルクの工房の前に人を立たせている。——ドルクに手を出すつもりか。
紙片を細かく破って、土に埋めた。
「市内が荒れ始めていますね」
「ああ。——予想通りだ」
予想通りだが、胸の奥が重い。俺がいない間に、周りの人間が圧力をかけられている。ドルク。マルタ。——レーネ。
信じるしかない。あの子は「ちゃんとやります」と言った。灰色猫亭は退避先だ。マルタがいる。——信じている。
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暮れかけた空を見た。雲が西から流れている。花月の夕暮れは長い。空の色がゆっくり変わっていく。——明日の天気は曇りか。曇りなら動きやすい。
「アンセル。見張りの配置だが——北側だけ交代が遅い」
「……お気づきでしたか」
「北は斜面がきつい。視界が悪い。だから見張りを長く立てる。逆に言えば——北からの接近を警戒しているが、視界が悪いということは、こちらからも使えるということだ」
「ええ」
「西は谷の入口。荷馬車が出入りする道だ。——使えない。南は街道に面していて見張りが厚い。東は岩場で足場が悪い。だが——人ひとりが這って動くなら」
干し肉の残りを齧った。硬い。——思考の時間に口が動く癖は、十年経っても変わらない。
あの規模の野営地を、二人で正面から止めることはできない。当然だ。はじめからそのつもりはない。
掃除屋の仕事は、正面衝突ではない。相手にとって「割に合わない」状況を作ることだ。壊す。止める。混乱させる。——そのために、何が使える。
「探知系の器具。あれが本命だ」
「わたしもそう思います」
「あの精度の魔導具は替えが利かない。壊れれば——」
「探査作業が止まります。替えを用意するまで、数週間は」
数週間。その間にこちらが態勢を立て直す時間ができる。市内の情報を整理する。ヘルマンの封書を開く。——全てが必要だ。
「明日。夜明け前に動く」
「段取りは」
「少し考えさせてくれ」
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毛布にくるまった。岩が背中に当たる。硬い。冷たい。——灰色猫亭の椅子のほうがまだましだ。
目を閉じた。——閉じたまま、頭が動いている。
見張りの配置。交代のタイミング。天幕の間隔。台の位置。器具を覆っている布の大きさ。北側の斜面の傾斜。東の岩場の足場。——映像が頭の中で回っている。
十年前は、こういう作業が得意だった。見たものを頭に焼きつけて、穴を探す。段取りを組む。退路を確保してから動く。
今も、頭は動く。身体が追いつかないだけだ。
明日、身体が追いつかない分を段取りで補う。——掃除屋の仕事は、段取りが九割だ。残りの一割は足が動くかどうか。
足は——たぶん動く。たぶん。
星が出ていた。花月の星だ。レーベンの街灯の下では見えない星が、ここでは数え切れないほど見える。
レーネは、今頃何をしているか。
報告を思い出した。港区に新しい顔が五、六人。ドルクの工房の前に知らない男。——あの子に危険が及んでいないか。
信じている。頼んだ。引き受けてくれた。
目を閉じた。星が瞼の裏で揺れている。
——明日。




