第38話「出立」
花月十五日。
目が覚めた。——暗い。窓の外に星がある。夜明け前だ。
身体が先に起きている。軍にいた頃の癖が、戻っている。出発の日の朝は、体が勝手に起きる。
布団を畳んだ。水で顔を洗った。冷たい。花月の中頃でも、夜明け前はまだ冷える。
床板を外した。布の包みを取り出した。外套の内側に合わせた。——重い。だが昨日より馴染んでいる。二日目だ。身体が覚え始めている。
荷を背負った。干し肉。硬いパン。水筒。机の上に残した帳簿と木札が、暗がりの中でも目に入った。——仲介屋の道具は、ここに置いていく。
階段を下りた。
一階の事務所に、灯りが漏れていた。
——誰だ。
扉を開けた。
レーネが机の前に座っていた。蝋燭を一本灯して。膝の上に油紙の包みを抱えている。
「……お前」
「おはようっす」
「何をしている」
「先生が早いって言ったっすから」
「来いとは言っていない」
「言ってなくても来るっすよ」
——こういう子だ。
包みを渡された。油紙を開いた。蜂蜜パンが二つ。——また形が崩れている。だが蜂蜜の焦げた匂いがした。
「屋台のおっちゃんに昨日もらったっす。また売れ残りっすけど。——先生、干し肉と硬いパンだけっしょ。朝くらい食べてくださいよ」
蜂蜜パン。——三日前も、この子が持ってきた。花月十三日の朝。あの穏やかな朝。
千切った。口に入れた。甘い。蜂蜜が生地に染みて、噛むと広がる。形が崩れていようが、味は変わらない。
レーネが注いだ茶を飲んだ。冷めかけていた。——この子は、いつからここにいたのか。
もう一つはレーネが食べた。蝋燭の灯りの中で、二人で食べた。外はまだ暗い。
「先生」
「何だ」
「——戻ってきてくださいね」
「うるさい。仕事しろ」
「あたしはちゃんとやるっすから。だから先生も——」
「聞こえなかったか。仕事しろ」
レーネが鼻を啜った。——泣いていない。泣いてはいない。目が赤いのは蝋燭の灯りのせいだ。
「了解っす」
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立ち上がった。外套を羽織った。——重い。だが歩ける。
扉に手をかけた。蝶番が軋んだ。
「先生」
振り返った。
レーネが蝋燭の灯りの中に立っていた。仕事の顔ではなかった。——十九歳の、少し不安そうな顔だった。
「行ってきます」
「——行ってらっしゃい、っす」
扉を閉めた。
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夜明け前の中層区。石畳が暗い。街灯の灯りが等間隔に並んでいる。人の姿はない。
歩いた。外套の下に、十年前の重さがある。左の脇腹。腰。一歩ごとに感じる。歩き方は昨日調整した。まだ完全ではないが、三日前よりは馴染んでいる。
花月の朝だが、夜明け前は冷える。外套の襟を立てた。
商業区を抜けた。日が出れば人であふれる通りが、今は誰もいない。店の看板が暗い中で並んでいる。
北の門。門番が一人。欠伸をしている。
「こんな早くにどちらへ」
「仕事だ」
「ご苦労さんで」
門を抜けた。城壁の外。視界が開けた。
旧街道。石畳が途切れて、土の道になった。草の匂い。夜露の匂い。レーベンの中にいると忘れる匂いだ。
最初の橋。小さな石橋。下を細い川が流れている。水の音が暗闇の中に響いている。
橋の袂に、人影があった。
アンセルが立っていた。荷を背負い、外套の帽子を被っている。こちらに気づいて、小さく頷いた。
「おはようございます」
「ああ」
「——お早いですね」
「お互いにな」
アンセルが橋を渡り始めた。俺が続いた。
石橋を渡った。旧街道は北東に伸びている。暗い道の先に、空の端が——ほんの僅かだけ白み始めていた。
「アンセル」
「はい」
「——何も聞かないんだな」
「お聞きすべきことが、ありますか」
「……いや。ない」
足音が二つ。土の道に、静かに響いている。
——十年ぶりだ。この重さを身につけて、街の外に出るのは。
仲介屋のヴェルナーは、事務所の机の前に帳簿と木札を置いてきた。レーネに蜂蜜パンをもらって、蝶番の軋む扉を閉めてきた。
今、旧街道を歩いている男は——仲介屋か。掃除屋か。
次にあの扉を開ける時、俺は何者として帰るのか。
わからない。——今は、足を動かすだけだ。
空の白い線が、少しだけ広がった。




