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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep11「出立」

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第38話「出立」

 花月十五日。


 目が覚めた。——暗い。窓の外に星がある。夜明け前だ。


 身体が先に起きている。軍にいた頃の癖が、戻っている。出発の日の朝は、体が勝手に起きる。


 布団を畳んだ。水で顔を洗った。冷たい。花月の中頃でも、夜明け前はまだ冷える。


 床板を外した。布の包みを取り出した。外套の内側に合わせた。——重い。だが昨日より馴染んでいる。二日目だ。身体が覚え始めている。


 荷を背負った。干し肉。硬いパン。水筒。机の上に残した帳簿と木札が、暗がりの中でも目に入った。——仲介屋の道具は、ここに置いていく。


 階段を下りた。


 一階の事務所に、灯りが漏れていた。


 ——誰だ。


 扉を開けた。


 レーネが机の前に座っていた。蝋燭を一本灯して。膝の上に油紙の包みを抱えている。


「……お前」


「おはようっす」


「何をしている」


「先生が早いって言ったっすから」


「来いとは言っていない」


「言ってなくても来るっすよ」


 ——こういう子だ。


 包みを渡された。油紙を開いた。蜂蜜パンが二つ。——また形が崩れている。だが蜂蜜の焦げた匂いがした。


「屋台のおっちゃんに昨日もらったっす。また売れ残りっすけど。——先生、干し肉と硬いパンだけっしょ。朝くらい食べてくださいよ」


 蜂蜜パン。——三日前も、この子が持ってきた。花月十三日の朝。あの穏やかな朝。


 千切った。口に入れた。甘い。蜂蜜が生地に染みて、噛むと広がる。形が崩れていようが、味は変わらない。


 レーネが注いだ茶を飲んだ。冷めかけていた。——この子は、いつからここにいたのか。


 もう一つはレーネが食べた。蝋燭の灯りの中で、二人で食べた。外はまだ暗い。


「先生」


「何だ」


「——戻ってきてくださいね」


「うるさい。仕事しろ」


「あたしはちゃんとやるっすから。だから先生も——」


「聞こえなかったか。仕事しろ」


 レーネが鼻を啜った。——泣いていない。泣いてはいない。目が赤いのは蝋燭の灯りのせいだ。


「了解っす」


---


 立ち上がった。外套を羽織った。——重い。だが歩ける。


 扉に手をかけた。蝶番が軋んだ。


「先生」


 振り返った。


 レーネが蝋燭の灯りの中に立っていた。仕事の顔ではなかった。——十九歳の、少し不安そうな顔だった。


「行ってきます」


「——行ってらっしゃい、っす」


 扉を閉めた。


---


 夜明け前の中層区。石畳が暗い。街灯の灯りが等間隔に並んでいる。人の姿はない。


 歩いた。外套の下に、十年前の重さがある。左の脇腹。腰。一歩ごとに感じる。歩き方は昨日調整した。まだ完全ではないが、三日前よりは馴染んでいる。


 花月の朝だが、夜明け前は冷える。外套の襟を立てた。


 商業区を抜けた。日が出れば人であふれる通りが、今は誰もいない。店の看板が暗い中で並んでいる。


 北の門。門番が一人。欠伸をしている。


「こんな早くにどちらへ」


「仕事だ」


「ご苦労さんで」


 門を抜けた。城壁の外。視界が開けた。


 旧街道。石畳が途切れて、土の道になった。草の匂い。夜露の匂い。レーベンの中にいると忘れる匂いだ。


 最初の橋。小さな石橋。下を細い川が流れている。水の音が暗闇の中に響いている。


 橋の袂に、人影があった。


 アンセルが立っていた。荷を背負い、外套の帽子を被っている。こちらに気づいて、小さく頷いた。


「おはようございます」


「ああ」


「——お早いですね」


「お互いにな」


 アンセルが橋を渡り始めた。俺が続いた。


 石橋を渡った。旧街道は北東に伸びている。暗い道の先に、空の端が——ほんの僅かだけ白み始めていた。


「アンセル」


「はい」


「——何も聞かないんだな」


「お聞きすべきことが、ありますか」


「……いや。ない」


 足音が二つ。土の道に、静かに響いている。


 ——十年ぶりだ。この重さを身につけて、街の外に出るのは。


 仲介屋のヴェルナーは、事務所の机の前に帳簿と木札を置いてきた。レーネに蜂蜜パンをもらって、蝶番の軋む扉を閉めてきた。


 今、旧街道を歩いている男は——仲介屋か。掃除屋か。


 次にあの扉を開ける時、俺は何者として帰るのか。


 わからない。——今は、足を動かすだけだ。


 空の白い線が、少しだけ広がった。


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