第37話「段取り」
花月十四日。快晴。
窓を開けた。乾いた風が入ってきた。昨日の薄曇りが嘘のように空が青い。花月の中頃にしては涼しい朝だ。
昨夜の包みは二階にしまってある。床板の下。事務所に戻ってから、左の脇腹の重さが消えるのに時間がかかった。十年間忘れていたはずの重さが、一晩で身体に戻ろうとしている。
湯を沸かした。茶葉を出した。安い茶葉でも蒸らしを丁寧にやれば飲める。
蝶番が鳴った。
「先生、おはようっす」
レーネが入ってきた。額に汗はない。荷運びの帰りではなく、朝一番で来ている。
「早いな」
「段取りって言ったっすよ。昨日」
——言った。
「座れ」
レーネが椅子に座った。背筋を伸ばして手を膝の上に置いた。仕事の顔。
茶を注いだ。二人分。茶碗を渡した。
「聞け」
「了解っす」
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「俺は明日の夜明け前に出る。丘陵方面だ」
レーネの唇が動きかけて、止まった。
「……はい」
「お前は市内に残れ。頼みたいことがある」
レーネの目が僅かに大きくなった。——「頼みたい」は、俺の口からめったに出ない言葉だ。
「港区と市場。お前の庭だろう」
「……はい」
「組織が市内でも人を動かしている。昨日お前が言った通りだ。荷を運んでいない荷運びが増えている。あの連中がどう動くか。増えるか。どこにいるか。——見てくれ」
レーネが頷いた。
「もう一つ。アンセルという男がいる。セレナードの巡礼僧だが、事情がある。俺の外の目だ」
「——あの、巡礼団の人っすか」
「ああ。俺が丘陵に出ている間、お前がアンセルとの連絡の中継になる。直接は会うな。紙片を使え。使い走りの少年に持たせる」
「紙片で中継……」
「お前に届けるか、灰色猫亭に預けるか。状況で判断しろ。マルタのところは退避先にもなる。何かあったら、まずあそこに行け」
レーネが両手で茶碗を包んだ。指先が白くなるほど力が入っている。——緊張しているのか。
「それから——仕事のことを、市場の仲間には一切話すな。俺がどこに行ったかも、お前が何をしているかも」
「……はい」
「お前に悪意がなくても、聞いた側がどう使うかは選べない。誰から何が漏れるかわからない」
レーネの目が、一瞬だけ曇った。市場の仲間を疑えと言われている。——わかっている。だが、言わなければならない。
「先生」
「何だ」
「——あたしじゃなきゃ駄目っすか。これ」
正しい問いだ。
「ああ。港区と市場の間で、顔が利いて、足が速くて、怪しまれずに動ける人間は——お前しかいない」
レーネの目が変わった。唇を引き結んで、顎を引いた。
「了解っす」
「危なくなったら逃げろ。情報を持ったまま死んだら意味がない。——生きて報告しろ」
「了解っす」
茶を一口飲んだ。安い茶だが、今朝は蒸らしを丁寧にやった。少しだけ甘みがある。
「先生」
「何だ」
「……あたし、ちゃんとやります」
昨日も聞いた。だが——昨日は「やるっすから」だった。今日は「やります」。語尾が違う。
「ああ。頼む」
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昼前。商業区の通りから一本入った路地の茶店。
壁を背にして座った。窓から通りの一部が見える。荷を運ぶ人の流れ。花月の商いは忙しい。
アンセルが来た。巡礼僧の装いではなく、旅人の外套に帽子を深く被っている。向かい合って座った。安い茶を二つ頼んだ。
「丘陵方面です」
前置きなし。この男も急いでいる。
「クロイツ丘陵の手前、旧街道沿いに数日前から人が出入りしています。十人前後。荷馬車が二台。天幕を張って野営していますが、調査隊ではありません」
「装備は」
「武装しています。見張りの配置が、素人のそれではない。——軍の訓練を受けた人間がいます」
——やはり。盗品稼ぎの集団ではない。
「旧街道から外れた場所で、探知系の魔導具を使った測量のような作業も確認しました」
探知系。——場所の特定が最終段階に入っている。
「三日と言ったな」
「ええ。特定が完了するか、あるいは完了した後の次の段階に移るか。いずれにしても、加速しています」
「明日の夜明け前に出る」
「承知しました。北の門を出て、旧街道の最初の橋で合流しましょう。——そこから先は、わたしが案内します」
この男は、もう道を歩いている。密偵として、何度か足を運んでいる。
「市内側は手配した。レーネが情報の中継をする。連絡は紙片で。灰色猫亭経由もある」
「了解しました」
茶を飲んだ。この店の茶は悪くない。
「アンセル。——組織が、俺の動きを探っている」
「掃除屋と仲介屋が——繋がりかけていますね」
「ああ」
「丘陵に出れば、確信に変わる可能性があります」
「わかっている」
アンセルが杯を置いた。帽子の影の下の目が、こちらを見た。
「それでも、行かれるのですね」
「行かなければ、向こうが先に見つける」
「ええ。同感です」
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午後。事務所に戻った。
机の上に紙片が一枚。レーネの字ではない。ブルーノの字だ。汚いが読める。
「あんたのことを聞いて回ってるやつがいる。港区だけじゃなく商業区にも。いつどこにいるかの聞き方だ。——気をつけろ。俺はもう関わらない」
紙片を灰皿の上で燃やした。灰を指で潰した。
いつどこにいるか。——行動パターンを洗っている。仲介屋ヴェルナーが掃除屋だという確信はまだなくても、関心の質が変わっている。
ブルーノが手を引いた。あの男なりの判断だ。——責められない。
煙草を巻いた。火をつけた。煙を吐いた。
セリーナに短い手紙を書いた。丘陵方面に出ること。二、三日のこと。何かあれば灰色猫亭のレーネに。署名は一文字。——セリーナならわかる。
封をして、使い走りの少年に銅貨一枚を渡した。
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夕方。買い出しに出た。
干し肉。硬いパン。水筒に水を詰めた。二日分。——贅沢な旅ではない。
事務所に戻って荷を確認した。外套。折り畳みの小刀。火打ち具。紐。薄い毛布。
二階に上がった。床板を外した。布の包みを取り出して、外套の内側に合わせた。——重い。だが歩ける。脇腹から腰にかけて重心が変わる。歩き方を調整する必要がある。昨夜も感じたが、装備の重さに身体が慣れていない。
窓の外。花月の夕焼けが、西の空を赤く染めている。昨日より晴れた分、色が鮮やかだ。
明日の夜明け前に出る。
——十年前、こういう準備をしていた。荷を確かめ、道具を合わせ、退路を頭に入れて、出る。段取りは変わらない。身体が覚えている。
あの頃と違うのは、身体が重いことと、待っている人間がいることだ。
煙草を灰皿に押しつけた。窓を閉めた。
布団を敷いた。明日は早い。




