第36話「預け物」
ドルクの工房に着いた時、炉の火は落ちかけていた。
赤い光が石壁を這って、天井の工具の影を揺らしている。炭の匂い。鉄の匂い。開け放した窓から、花月の夕暮れの空気が流れ込んでいた。
ドルクが金床の前に立っていた。腕を組んで、こちらを見た。
「邪魔する」
「ああ」
座らなかった。ドルクも座れとは言わなかった。
沈黙。——いつもの沈黙とは、少し違う。
ドルクが棚から麦酒の瓶を出した。杯を二つ。注いだ。
「飲め」
「ああ」
一口。喉を通る冷たさ。炭の匂いの中で飲む麦酒は、他のどこの酒とも違う。
「ドルク」
「ああ」
「——預け物を、もらいに来た」
ドルクの手が止まった。杯を持ったまま。一秒。二秒。
杯を、金床の端に置いた。
「ああ」
---
ドルクが壁際の棚に向かった。
工具掛けを外した。その裏。普通の客の目には入らない場所。
布の包みを取り出した。両手で持って、こちらに差し出した。
受け取った。
——重い。
手のひら二つ分の大きさ。布の上から伝わる角の固さ。中身が動かない密度。十年前に預けた時と——同じ重さ。同じ固さ。
金床の上に置いた。炉の残り火が赤い光を投げている。
結び目をほどいた。
布を開いた。油紙。その下に、もう一枚の布。丁寧に巻き直されている。——この巻き方は、俺がやったものではない。
油紙を剥がした。布をほどいた。
金属の面が、炉の光を受けて鈍く光った。
短い刃。黒い革の鞘。刃渡りは掌ほど。普段の折り畳み小刀とは何もかもが違う。柄に指を掛けた。
手が形を覚えていた。重心の位置。握りの角度。指の間に収まる感触。
——十年。
その横に、小さな品が幾つか並んでいた。真鍮の筒。銅の円盤。薄い革で包まれた細長い品。指で触れた。冷たい金属。精密な刻印の凹凸が指先に伝わる。
触っていなかったのに、指が迷わない。どれがどの品で、どう持つか。身体に染みついた記憶は、頭で忘れたつもりでも消えない。
---
刃を鞘から抜いた。
立ち上がった。工房の空いた場所に立って、構えてみた。
——遅い。
以前なら、考えるより先に身体が動いた。今は頭が命令を出して、一拍遅れて身体が追いかける。腕を振る角度。足の踏み込み。間に「思い出す」工程が挟まる。
もう一度。
刃を返した。横に振った。踏み込んだ。
——やはり遅い。呼吸が乱れるのも早い。三十八の身体。十年の空白。酒の飲みすぎ。
刃を鞘に戻した。——収める手は、迷わなかった。
息を吐いた。若い頃の動きは無理だ。だが段取りは忘れていない。判断は錆びていない。身体が追いつかない分は、頭で補う。
今はそれでいくしかない。
---
ドルクが見ていた。腕を組んで。何も言わずに。
「整備はしてある」
短い言葉だった。
預けた時、何も聞かなかった。何も言わなかった。名前も用途も知らない品を、工具掛けの裏にしまって、それきりだった。——そのはずだった。
だが巻き方は俺のものではない。油紙が新しい。布も替わっている。刃に油の膜がある。金属の表面に曇りがない。
鍛冶屋として、預かった品の手入れをする。それだけだ——この男なら、そう言うだろう。だが名前も用途も聞かずに、布を開いて油を引いて巻き直して、元の場所に戻す。それを十年続けた。
「ドルク」
「ああ」
「……ありがとう」
ドルクの手が、杯の上で止まった。
「ああ」
——この男との間で「ありがとう」は、珍しい言葉だ。借りた金具を返す時も、干し肉の礼も、普段は言わない。代わりに麦酒を注いで、黙って飲む。それがこの二人の形だった。
だから今日は、言わなければならなかった。
---
品を布に包み直した。油紙を巻いて、元通りに結んだ。巻き方はドルクのものに合わせた。面倒を見てくれた男の手に、俺の手を重ねる。
外套の内側に入れた。重さが、左の脇腹に当たる。日常には存在しなかった重さ。
「かみさんによろしく」
「ああ」
「干し肉、うまかった。——前に食った分だが」
「……ああ」
扉を開けた。夕焼けは終わっていた。薄暮の空に、雲の切れ間から最初の星が一つ。
工房を出た。石畳を歩いた。外套の下に、十年ぶりの重さがある。
掃除屋の道具を身につけた仲介屋が、中層区の夜道を歩いている。——奇妙な話だが、嫌な重さではない。
明日、アンセルと合流する。段取りを決める。
レーネに、頼むことを伝える。
左の脇腹が重い。——歩き方が、少しだけ変わった。




