第35話「花月十三日」
花月十三日。薄曇り。
窓を開けた。ぬるい風が入ってきた。空は高いが、雲が薄く広がっている。陽の光が白い。影が柔らかい。花月の中頃は、こういう空が多い。晴れ切らないが、崩れもしない。
湯を沸かした。茶葉を出した。ひと呼吸待ってから注ぐ。蒸らし。安い茶葉でも、手間をかければ飲める味にはなる。
蝶番が鳴った。
「先生、おはようっす」
レーネが入ってきた。額に薄く汗をかいている。朝の荷運びの帰りだ。片手に油紙の包み。
「今日は屋台のおっちゃんに蜂蜜パンもらったっす。形が崩れた売れ残りっすけど」
机の上に包みを開いた。蜂蜜パンが二つ。形が歪んでいる。だが蜂蜜の焦げた匂いが事務所の中に広がった。
——三日前、市場で足が止まった匂いだ。
「食べてくださいよ」
「……ああ」
千切った。口に入れた。蜂蜜が生地に染みて、噛むと甘さが広がる。形が崩れていようが味は変わらない。
茶を注いだ。二人で食べた。レーネは蜂蜜パンを一口で半分齧って、油紙に落ちた蜂蜜の欠片を指で拭って舐めた。
「行儀が悪い」
「もったいないっすよ」
窓から風が入った。茶の湯気が揺れた。穏やかな朝だ。
——こういう朝が、あと何回ある。
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昼前だった。
レーネを市場に出した後、事務所で煙草を巻いていた。扉を叩く音がした。——レーネではない。レーネは叩かずに開ける。
開けた。十二、三の少年。薄汚れた服。市場の使い走りだろう。
「仲介屋のヴェルナーさんっすか」
「ああ」
「これ、頼まれたっす」
小さな紙片。折り畳まれているが、封はない。
「誰から」
「市場の東口で、旅の格好のおっちゃんから。銅貨二枚もらって届けてくれって」
銅貨を一枚渡した。少年は走っていった。
紙片を開いた。小さく丁寧な字。アンセルの筆跡。
「丘の方へ荷と人。三日と見ます。お会いしたい」
巻きかけの煙草が、指の間で止まった。
丘。クロイツ丘陵方面。組織が荷と人を動かしている。——三日。
紙片を灰皿の上で燃やした。灰を指で潰した。
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上層区。午後。
ヘルマンの両替商。今日も表口から入った。受付を通って二階へ。
執務室。蝋燭が二本灯っている。曇りの日は窓からの光が足りない。帳簿の山は変わらない。
ヘルマンが茶を注いだ。上等な茶。琥珀色の水面から、花のような香りが立つ。——ここに来るたびに自分の安茶が惨めになる。
「急ぎの用件だ」
「お聞きします」
「組織がクロイツ丘陵方面に人と荷を動かしている。外の目から入った情報だ。三日以内に何かが起きる」
ヘルマンの目が細くなった。眼鏡の奥で、何かが動いた。
「……わたくしの方でも、動きがございました」
ヘルマンが眼鏡を外した。布で拭いた。ゆっくりと。
かけ直した。
「前回お話しした、『ある人間』の件でございます。名前の確認はまだですが——かなり絞れてまいりました」
「どこまで」
「元情報部の人間でございます。退役後に身分を変えているようですが、ある資金の流れに関わっている」
元情報部。十年前の事件と、今レーベンで起きていること。その両方に関わる人間。
「もう一つ。書簡の返事に、気になる一文がございました。『ここ数日、その人物の周辺が慌ただしい。何かが始まっている』と」
二つの情報が、一つの像を結びかけている。アンセルの「荷と人」。ヘルマンの「何かが始まっている」。別々の線が、同じ方向を指している。
「ヘルマンさん。封書は——」
「もう少しでございます。もう少しだけ」
声が低かった。いつもの穏やかさの下に、焦りがある。——この老人が焦っているのを、初めて聞いた。
「お約束は守ります」
「ああ。——わかっている」
茶碗を置いた。
「俺は、丘陵方面に出る」
ヘルマンの目が、こちらを見た。長い視線。杖に両手を重ねて、動かない。
「……お気をつけて」
「ああ」
立ち上がった。
「ヴェルナーさん」
振り返った。
「レーネさんのことは——くれぐれも」
「わかっている」
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事務所。夕方。
レーネが市場から戻った。
「港区に新しい顔が増えてるっす。荷運びっぽいけど、荷を運んでない。ぶらぶらしてるだけの男が三人くらい」
——人を集めている。アンセルの情報と合う。
「先生。何かあったっすか」
「座れ」
レーネが椅子に座った。背筋を伸ばした。仕事の顔。
「明日の朝から動く。お前にも頼むことがある」
「了解っす」
「段取りは明日伝える。今日は早く帰れ。休め」
レーネは何か言いかけて、やめた。頷いた。
「了解っす。——先生は?」
「俺はこれから、ドルクのところに行く」
一瞬、レーネの目が大きくなった。「ドルクのところに行く」が今の文脈で何を意味するか。この子は知らないはずだが——何かを感じている。
「先生」
「何だ」
「あたし、ちゃんとやるっすから」
「ああ。頼む」
蝶番が軋んだ。軽い足音が石畳を遠ざかっていった。
窓の外。薄曇りの空が夕焼けに染まりかけている。雲の端が赤い。
煙草を巻いた。火をつけた。煙を吐いた。吐いた煙が、窓から出ていく。
灰皿に押しつけた。外套を取った。
ドルクの工房に、向かった。




