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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep10「対等」

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第34話「掃除屋」

 花月十二日。晴れ。風がある。


 窓を開けると、雲のない空が広がっていた。風が事務所を通り抜ける。乾いた、春の風。昨日までの曇りが嘘のように、空が高い。


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす。今日は屋台の手伝い休みなんで、朝から来たっす」


 レーネが入ってきた。片手に布の包み。もう片方に鍋を抱えている。——鍋?


「何だそれは」


「春野菜のスープっす。蕪と人参。市場で安かったんで」


「事務所で鍋を振るな」


「昨日のうちに下宿で作ったっす。温め直すだけっすよ」


 竈に鍋をかけた。布の包みを開けると、焼き立てのパンが入っていた。まだ温かい。市場の朝一番に焼く、安い丸パンだ。


 スープが温まった。器によそった。蕪が柔らかい。人参が歯応えを残している。レーネの味付けは単純だが、素材が良ければ文句はない。パンを千切ってスープに浸した。麦の味と、蕪の甘みが混じる。


「……悪くない」


「でしょ。春の蕪、甘いんすよ」


 レーネも向かいに座って、同じものを食べた。スープの湯気が事務所の中に立ち込めた。


---


「今日、アンセルと会う」


 レーネが匙を止めた。目が変わった。——仕事の顔だ。


「場所はどこっすか」


「中層区の外れ。前回とは別の空き家だ。——お前は外で見張ってくれ」


「了解っす。何を見ればいいっすか」


「いつも通り。見慣れない人間、尾けてくる人間、通りの空気の変化。——何かあれば声をかけろ。ただし入ってくるな」


「了解っす」


---


 昼前。中層区の外れ。


 前回とは二つ通りを離した場所に、同じような空き家がある。窓が一つ割れていて、扉が傾いている。退路は二つ。裏手の路地と、崩れた壁の隙間。


 レーネが通りの角に立った。フードを被って、買い物帰りの住人のふりをしている。——あの子はこういう仕事が上手い。市場で人に紛れるのに慣れている。


 中に入った。埃の匂い。光が窓から差し込んで、埃が舞っているのが見える。


 足音。——聞こえる。今日も聞かせている。信頼の形。


 アンセルが路地の方から現れた。今日は巡礼僧の装いではない。商人風の地味な外套を羽織っている。短剣の膨らみが腰にある。


「おはようございます」


「ああ。——商人に見えるな」


「ありがとうございます。目立たないのが仕事です」


 石段に並んで座った。風が空き家の中を通り抜ける。


---


「花月四日以来、八日ぶりですね」


「ああ。八日分の話がある」


「わたしも、いくつか」


 アンセルが外套の内側から紙を出した。折り畳まれた覚書。開いて、膝の上に置いた。


「まず、組織の動きについて。活発化しています。リュッケ周辺だけでなく、港区にも人が増えました」


「港区」


「ええ。船の荷を動かすのに使える人間を集めているようです。——何を運ぶか、まではまだわかりません」


 覚書には日付と場所が並んでいる。アンセルの手で書かれた細かい字。密偵の記録だ。


「こちらからも出す」


 俺も情報を出した。ヘルマンの「十年前と今が同じ影を持つ」。セリーナの書式確認。レーネが持ってきた測量の情報。——出す情報は選んだ。ヘルマンの封書のことは出さない。セリーナの「関係者が消えている」も出さない。あれは俺個人の問題だ。


 アンセルが頷いた。目が鋭くなっている。穏やかな面の下に、別の顔がある。


「場所の特定が、かなり進んでいるようですね」


「ああ。クロイツ丘陵の手前。測量もしている。——見つかるのは時間の問題だろう」


「わたしの方でも、同じ見立てです」


 風が窓から入って、埃が舞った。覚書の端がめくれる。アンセルが手で押さえた。


「連絡方法を決めましょう。頻度も」


 二人で段取りを詰めた。接触は市場で。必要があれば使いを出す。急ぎの場合は巡礼宿に書簡を。頻度は十日に一度を目安に。——密偵と仲介人が、レーベンの中層区の空き家で連絡体制を作っている。奇妙な話だが、今は必要なことだ。


---


 段取りが終わりかけた時だった。


 アンセルが覚書を折り畳んで、外套に戻した。終わりだ。あとは互いに別の方向へ歩き出すだけ——。


 立たない。


 外套の前を直して、一拍置いて、こちらを見た。


「ヴェルナーさん。もう一つだけ」


 声の調子が変わった。穏やかさの下に、注意深さがある。


「あなたについて、組織が調べているようです。仲介屋のヴェルナーとしてだけではなく」


 風が止まった。空き家の中が静かになった。


「——どういう意味だ」


「『掃除屋』という名前が、組織の中で出始めています」


 心臓が一拍止まった。


 ——掃除屋。


 その名前を聞くのは、何年ぶりだ。レーベンに来てから一度も聞いていない。捨てた名前だ。使わないと決めた名前。


「……その名は、もう使っていない」


 声は平静だった。——平静に聞こえるように出した。


 アンセルが静かに頷いた。


「存じています。ですが——名前は、使い手を選びません」


「……どこから出た」


「わたしの経路では確認できていません。ただ、組織の中で『仲介屋のヴェルナー』と『掃除屋』が同一人物ではないか、という問いが立ち始めている。まだ確信ではないようですが」


 ブルーノの顔が浮かんだ。——あの時だ。「おまえの名前が出た。仲介屋のヴェルナーじゃなくて、別の——」。あの「別の」が、ようやく形になった。


「俺が掃除屋だと確定すれば——組織の対応が変わるな」


「ええ。仲介屋一人なら放置できます。少し嗅ぎ回っている面倒な男、という扱いで済む。ですが——掃除屋であれば」


「排除対象になりかねない」


「ええ」


 沈黙が落ちた。風が戻ってきて、窓から差す光の中で埃が舞った。


「……アンセル。聞いていいか」


「はい」


「お前は、いつから知っていた」


 アンセルの目が、こちらを見た。穏やかだが——正直な目だ。


「花月四日にお会いした時には、可能性として」


「密偵の情報か」


「ええ。わたしの方でも、過去のある記録を確認しました。確信には至りませんでしたが」


「……そうか」


 互いに嘘つきだと知っている。互いに素性を知りながら、出す情報を選ぶ。——対等な取引とはそういうことだ。


「危険をお伝えしなければ、と思いました」


「ありがたい。——だが、ここから先は俺の問題だ」


「ええ。承知しています」


 アンセルが立ち上がった。外套の埃を払った。


「ヴェルナーさん」


「何だ」


「捨てた名前と、消された名前は——違います」


「……わかっている」


---


 通りに出た。


 レーネがフードの下から目だけで確認した。問題なし、と首を横に振る。——異常なし。上手くなった。


 二人で並んで歩いた。中層区の石畳。花月の風が通りを吹き抜けている。


「先生。何かあったっすか」


「何故そう思う」


「先生、顔変わってるっす。会談の前と後で」


 ——レーネの目は良い。


「これから先、今までより危険になるかもしれない」


 レーネが歩きながら、こちらを見た。


「了解っす。——あたし、もう勝手には動かないっす」


「ああ。頼む」


「でも、先生が動けない時は——」


 足が止まりかけた。——こいつは、あの時のことを覚えている。四日間動けなかった時のことを。


「その時は、俺が動けないことを認めてから、お前に頼む。勝手に判断するな。俺もしない」


 レーネが少しだけ笑った。口の端が上がっただけの、小さな笑い。


「それ、先生が一番苦手なやつっすね」


「……うるさい」


 風が髪を揺らした。花月の空が高い。


---


 夕方。ドルクの工房。


 槌の音が聞こえた。扉を開けると、炭と鉄の匂いが顔に当たった。


 ドルクが炉の前にいた。腕を組んで、冷えかけた鉄材を見ている。


「邪魔する」


「ああ」


 椅子を引いた。ドルクが棚から麦酒の瓶を出した。杯を二つ。妻が切った干し肉の包みが、棚の脇に置いてある。


 注いだ。飲んだ。——麦酒が喉を通る。炭の匂いの中で飲む麦酒は、他の場所の酒とは味が違う。


 干し肉を千切った。分厚い。顎が疲れる。塩気が舌に染みる。——この塩加減は妻の味だ。


 沈黙。


 いつもの沈黙だ。週に一度の晩酌。何を話すでもなく、干し肉を噛んで、麦酒を飲む。


 炉の火が落ちかけている。赤い光が壁を這って、天井の道具の影を揺らしている。


「ドルク」


「ああ」


「預け物——近いうちに、取りに行くかもしれない」


 ドルクの手が止まった。杯を持ったまま。一秒、二秒。杯を置いた。


「ああ」


 沈黙。干し肉を噛む音。


「いつでもいい」


 ——この男は何も聞かない。聞かないが、わかっている。預け物が「普通の品ではない」ことも。取りに行くということの意味も。


 麦酒を飲み干した。干し肉をもう一切れ噛んだ。


「かみさんによろしく」


「ああ」


 工房を出た。夕焼けが石畳を赤く照らしていた。


---


 事務所。夜。


 窓から星が見えた。花月の夜空は澄んでいる。風が落ちて、静かだ。


 煙草を巻いた。手は震えない。紙の端を舌で湿らせて、丁寧に仕上げた。火をつけた。煙を吐いた。


 仕様書の入った引き出しを見た。


 開けなかった。開ける必要がない。中に何があるかは知っている。7の横棒。あの部隊の書式。俺が教えた書き方。


 ——もう膝は崩れない。


 掃除屋。


 軍を辞めた後、各地を転々とした時期に背負った名前。名前の通りの仕事だ。情報部のスキルだけで生き延びた、暗い時期の名残。——レーベンに来た時に、その名前を捨てた。仲介屋のヴェルナーとして生き直すと決めた。


 捨てたはずの名前が、追いかけてきた。


 十年逃げた。名前からも。記憶からも。砂と血の匂いからも。——だが、逃げ切れなかった。仕様書の書式が追いかけてきた。掃除屋の名前が追いかけてきた。過去が俺を見つけた。


 灰が膝に落ちた。煙草が短くなっている。——どのくらいそうしていたか、わからない。


 窓の外で、夜風が通りの木を鳴らしている。遠くで犬が吠えた。——レーベンの夜だ。俺が十年暮らした街の夜だ。


 ならば——俺のやり方で、向き合う。


 煙草の煙が、星の見える窓から流れていった。


 明日から、また動く。


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