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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep09「旧い傷」

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第32話「花月十日」

 花月十日。晴れ。


 窓を開けたら、風が入ってきた。


 乾いた、暖かい風。花月の朝の匂い。石畳と、どこかの台所の煙と、少し遠くに市場の賑わいが混じっている。空は高い。昨日と同じ青さだ。


 事務所の中を見回した。


 ——散らかっている。


 安葡萄酒の空瓶が机の脇に二本。灰皿に溜まった灰。茶碗が二つ、棚の横に放り出してある。椅子の下に紙くずが一つ。四日間で、ここは物置より酷い有様になっていた。


 溜め息を一つ吐いて、立ち上がった。


 空瓶を棚の下に並べた。灰皿を窓際に持っていって灰を払った。茶碗を水で洗った。紙くずを拾った。机を布で拭いた。——布が黒くなった。どれだけ放っておいたんだ。


 窓から風が入って、事務所の空気が入れ替わった。紙と埃と安酒の残り香が、花月の風に押し出されていく。


 椅子に座って、煙草を巻いた。手は震えない。紙の端を舌で湿らせて、丁寧に仕上げた。火をつけた。煙を吐いた。


 ——静かだ。


---


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす」


 レーネが入ってきた。額に薄く汗をかいている。朝の荷運びを済ませてきたのだろう。片手に油紙の包み。


「……おはようっす」


 二度言った。声が少し硬い。——昨日の「次からは俺に言ってから動け」が、まだ効いている。


 机の上を見て、レーネが目を丸くした。


「先生、片付けたんすか。珍しい」


「散らかしすぎた」


「……あたしに言ってくれたら掃除したのに」


「自分で散らかした分は、自分で片付ける」


 レーネが油紙の包みを机に置いた。開けると、黒パンと茹で卵が二つ。市場の屋台で買ってきたものだ。


「食べてください」


 茹で卵の殻を剥いた。硬めに茹でてある。塩を振って口に運んだ。黄身が粉っぽくて、少し甘い。——味がする。四日前は味がしなかった。それだけの違いだ。


 二つ目も食べた。黒パンを千切って口に入れた。噛んでいるうちに、麦の味が出てくる。


 レーネがこちらの手元を見ていた。二つとも食べたことを確認して、小さく息を吐いた。——こいつは、俺がどれだけ食べたか数えている。


「レーネ」


「はい」


「見せたいものがある」


 机の引き出しを開けた。仕様書の控えを取り出した。紙を広げて、余白の数字を指で示した。


 7の横棒。


「この書き方が見えるか」


「……7に線が入ってるっすね」


「ああ。情報部の暗号教範で教える書体だ。1と読み間違えないようにする。座標がずれれば人が死ぬ——そう言って、俺が新兵に教えた」


 レーネの目が大きくなった。


「……先生の部隊の」


「俺が昔いた部隊の人間が書いた書式だ。——これ以上は今は言えない。だが、俺が三日間動けなかった理由はこれだ」


 レーネは何も言わなかった。仕様書の余白の数字を見つめて、それからこちらの顔を見た。追わなかった。追わないが、理解した——目を見ればわかる。


「……了解っす」


 仕様書を引き出しに戻した。引き出しを閉める手は、震えなかった。


---


「今日の動きを言う」


 レーネが姿勢を正した。向かいの椅子に座り直す。——こういう時の切り替えは早い。


「市場で耳を立てておけ。中層区と商業区だけだ。外壁区には近づくな」


「了解っす。何を聞けばいいっすか」


「いつもと同じでいい。変わったこと、見慣れない顔、流れてきた噂。市場の空気は日によって違う。違いに気づけ」


「了解っす」


「それと——明日、アンセルと会う。おそらく、これから動きが早くなる」


 レーネの目が少し光った。——仕事がある顔だ。


「あたし、何をすれば——」


「明日の段取りは、今夜までに決める。今日は市場だ。行け」


「了解っす。——先生は?」


「少し出かける」


 レーネがフードを直して、扉に手をかけた。振り返った。


「先生」


「何だ」


「……片付いた事務所、いいっすね」


 蝶番が軋んで、扉が閉まった。


---


 昼前。一人で市場を歩いた。


 花月の市場は活気がある。新しい季節の食材が並び始めている。新玉葱、若葉の菜、春蕪。屋台の煙が通りに漂って、焼ける匂いが空気に混じっている。


 串焼きの屋台に立ち寄った。豚の串焼き。塩と油の匂いが鉄板から立ち上っている。一本買って、歩きながら齧った。脂が熱い。塩気が舌に広がる。肉の繊維を噛み千切る感触。——うまい。


 四日前はこの味がわからなかった。干し肉を齧っても塩気しか感じなかった。茹で卵の黄身の甘さも、マルタの汁物の旨味も、消えていた。


 今は、豚の串焼きの味がわかる。それだけの違いだ。——だが、その「だけ」が、案外重い。


 市場の角を曲がった先に、焼き菓子の屋台があった。


 蜂蜜と木の実の焼き菓子。ヘルマンが置いていった干し菓子と同じ種類だ。屋台の前を通り過ぎようとして——足が止まった。


 甘い匂い。蜂蜜が焦げた匂い。


 ——買わない。懐が寒い。先月のツケもまだ残っている。ここで菓子に手を出せば、マルタに「だから金がないんだよ」と言われる。言われなくてもわかっている。


 足が動かない。


 三秒。


 歩き出した。——次に報酬が入ったら、一つだけ買う。一つだけ。


---


 夕方。灰色猫亭。


 扉を開けると、煮込みの匂いが顔に当たった。カウンターの奥でマルタが鍋の蓋を持ち上げている。湯気が上がった。


 壁を背にできる席に座った。


 マルタがこちらを見た。布巾を肩にかけたまま、目だけで見た。


「……食えるようになったみたいだね」


「ああ」


 マルタは何も聞かなかった。カウンターの奥に戻って、器に煮込みをよそった。エールの杯と一緒にカウンターに置いた。


 蕪と干し肉の煮込み。蕪が崩れるまで煮込まれている。匙で掬うと、蕪が柔らかく割れた。口に運んだ。——マルタの味だ。塩気がちょうどいい。干し肉の出汁が蕪に染みている。


 全部食べた。エールを飲んだ。杯の底が見える。


「おかわりは?」


「……いい。——ツケの件だが」


「今月分は今月分。先月分は先月分。混ぜるな」


「……すまん」


「謝るならツケ止めな」


 マルタが布巾でカウンターを拭いた。拭き終わってから、ぽつりと言った。


「フリッツ、あんたが来ないとカウンターで寝てたよ」


「……猫は関係ないだろう」


「猫は人を見てるからね」


 灰色の猫がカウンターの端で丸くなっていた。片目を開けて、こちらを見て、また閉じた。


 エールをもう一杯頼んだ。ツケに足した。


---


 灰色猫亭を出た。


 空はまだ明るかったが、西の方から雲が出てきていた。風向きが変わっている。湿った匂い。——夕立が来る。


 歩き始めた。中層区の石畳を事務所に向かって。


 最初の雨粒が頬に当たった。


 ——冷たい。


 大粒の雨だ。一度に降り始めた。視界に雨の線が走る。石畳が濡れて光る。


 走った。


 雨が顔を叩く。水が目に入る。前髪が額に張りつく。石畳が滑る。


 ——雨。石畳。暗い路地。


 足が止まった。


 小さな泣き声。暗い。雨に濡れた壁。何かが——


 消えた。


 息が上がっている。立ち止まっている。雨が降っている。ここはレーベンの中層区だ。夕立だ。


 何だ、今のは。


 砂の記憶の残りか。——だが、砂と雨は違う。あの時は砂漠だった。雨は降っていなかった。


 何の記憶だ。


 考える間もなく、雨が強くなった。体が動いて走り出した。事務所の扉を開けて、中に滑り込んだ。


 髪から水が滴っている。外套の裾が重い。布で髪を拭きながら、息を整えた。


 ——今のは何だ。


 窓の外で雨が石畳を叩いている。夕立はすぐ止むだろう。花月の天気は移り気だ。


 煙草を巻いた。手は震えない。火をつけた。煙を吐いた。


 ……忘れた。何を考えていたか、もう思い出せない。


---


 夕立は小半時で止んだ。


 雲が割れて、夕焼けが石畳を赤く染めた。水溜まりに空が映っている。


 窓際で煙草を吸いながら、明日のことを考えた。


 ヘルマンに会いに行く。「対等にやろう」。——そう言うつもりだ。あの老人は俺の素性を知っている。俺の元上官から託されて、この街に俺を置いた。そこまではわかった。ならば——泳がされるだけの関係は、もう終わりにする。


 明後日はアンセルと会う。花月四日の情報交換以来、八日ぶりだ。外の目から見たものを聞く。


 動きが早くなる。——いや、動きを早くする。自分から。


 煙草の煙が夕暮れの光に混じって、窓から出ていった。


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