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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep09「旧い傷」

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幕間「看板猫」

 花月十日、夜。


 最後の客が帰って、扉を閉めた。


 カウンターを拭いた。布巾が黒くなる。今日は客が多かった。花月は天気が安定しない分、雨が上がると人が出てくる。


 皿を洗った。鍋の蓋を閉めた。残った煮込みは明日の昼に出す。竈の火を落として、灯りを蝋燭一本にした。


 灰色の猫がカウンターの端で丸くなっていた。片目を開けて、こちらを見て、また閉じた。


「よく寝るね、あんた」


 猫は答えない。尻尾の先だけ、ぴくりと動いた。


---


 この猫は人を見ている。


 あたしがカウンターを拭いている時は、定位置で丸くなっている。知らない客が来れば棚の上に移る。常連が席に着けば、その近くまで寄っていって、知らん顔で毛繕いをする。


 あの男——ヴェルナーが来ると、カウンターの端に座る。あの男の手が届くか届かないかの距離。触れるわけでもない。ただ、そこにいる。


 四日間、あの男は来なかった。


 猫はカウンターの端で寝なかった。棚の上にいた。あたしの膝にも乗らなかった。——あの子なりに、何かを感じていたのかもしれない。ただの猫の気まぐれかもしれない。どちらでもいい。


 今日、あの男が来た。猫はカウンターの端に戻った。


---


 四日前の夜のことを考えた。


 裏口を叩く音で目が覚めた。真夜中だった。叩き方でわかった。弱い。だが規則正しい。——力が入っていないが、習慣で叩いている。あの男だ。


 鍵を開けた。立っていた。安酒の瓶を持っていた。目が合ったが、目が合っていなかった。こちらを見ているが、こちらを見ていない。


 何も聞かなかった。杯を二つ出して、棚に戻った。自分は寝た。——正確には、寝たふりをした。壁の向こうで杯を置く音が聞こえていた。


 朝になって、仕込みを始めた。鍋を火にかけた。包丁を使った。いつもの朝だ。カウンターの向こうにあの男が座っていること以外は。


 鍋の蓋を持ち上げた時に、あの男の身体が跳ねた。


 見たことのある反応だった。——昔、冒険者をやっていた頃に。長い仕事の後に酒場に戻ってきた仲間の中に、ああいう反応をする人間がいた。何かの音で、ここではない場所に飛んでいく。身体はここにあるのに、目がここにいない。


 カウンターに突っ伏していた。唾が口の端から垂れていた。——あんな顔のあの男を見たのは初めてだった。


 肩を掴んだ。「おい。あんた」


 戻ってきた。目の焦点が合った。ここに。灰色猫亭に。


 聞いた。——「何があった」。


 あたしらしくない聞き方だった。いつもなら「どうしたんだい」と聞く。逃げ道を残す。答えたくなければ答えなくていいように。それがカウンターの中の人間の仕事だ。


 あの日は逃げ道を残さなかった。——残す気になれなかった。


 「何も」、とあの男は言った。嘘だ。何もないわけがない。けれど、あの男が「何も」と言ったなら、追わない。追っても出てこないし、追えば壊れる。それは見ればわかった。


---


 汁物を出した。蕪と人参と干し肉。いつもの味だ。特別なものは何もない。あたしが毎日作っている、いつもの鍋の中身。


 半分、食べた。


 半分、残した。


 器を押して寄越した時に、指先が震えていた。本人は気づいていなかっただろう。あたしには見えた。


 ——あの男がうちの料理を残したのは、あれが初めてだ。


 ツケが溜まっても食べる。懐が寒くても食べる。どんなに遅い時間に来ても、出したものは全部食べて杯を空にする。あの男はそういう客だった。


 それが、残した。


 器を下げた。何も言わなかった。言うことは何もない。


---


 あの後、三日間、あの男は来なかった。


 猫は棚の上にいた。あたしはいつも通り仕込みをして、いつも通り客に出して、いつも通りカウンターを拭いた。


 レーネが来た。二日目の昼。「先生、来ましたか」。来ていない。「そっすか」。目が不安そうだった。何か買って帰ろうとしたが、何も買わずに出ていった。——あの子も、わかっている。わからないが、わかっている。


 ドルクが来た。三日目の夜。カウンターに座って、麦酒を一杯だけ頼んだ。「あいつ、来たか」。来ていない。「そうか」。麦酒を飲み干して帰った。——あの男も、追わない人間だ。追わないが、来る。来ることで何かを伝えている。


 四日目。


 夕方。扉が開いた。


 ——わかった。足音でわかった。重くない。だが、軽くもない。いつもの歩き方だ。壁を背にできる席に向かう。


 顔を見た。目だけで見た。


 ——戻ってきた。


 「食えるようになったみたいだね」。そう言った。それだけ言った。


 煮込みをよそった。蕪と干し肉。四日前と同じ鍋だ。同じ味だ。特別なものは何もない。


 全部食べた。エールを飲んだ。杯の底が見えた。


---


 蝋燭の灯りが揺れている。猫が寝息を立てている。


 あの男が何を抱えているか、知らない。知る必要もない。軍にいたことは知っている。そこで何かがあったことも、たぶん。——あたしの亭主も冒険者だった。帰ってこなかった。


 あの頃も仕込みをしていた。毎朝、鍋を火にかけた。裏口が鳴るのを待った。仕込みが終わっても待った。皿を並べて、布巾を畳んで、竈の火を落とした。——まだ待った。


 客が来て、帰った。鍋の中身が減って、また作った。季節が変わって、仕入れる野菜が変わった。


 裏口は鳴らなかった。次の朝も。その次の朝も。


 ——結局、鳴らなかった。


 そういうことは、ある。


 帰ってくる人間と、帰ってこない人間がいる。


 あの男は帰ってくる。四日かかるが、帰ってくる。それだけのことだ。


 カウンターの端に猫の毛が落ちていた。布巾で拭いた。


 蝋燭を消した。


 明日も仕込みがある。


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