表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep09「旧い傷」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/53

第31話「変わった目」

 花月九日。快晴。


 空が高い。窓を開けると、風が通り抜けた。雲がない。青い空が建物の屋根の上に広がっている。二日も続いた雨が、ようやく抜けた。


 深呼吸した。胸の奥まで空気が入る。


 台所で音がした。鍋が火にかかる音。——レーネだ。


 台所に行くと、レーネが立っていた。市場で買ってきた新玉葱を切っている。


「おはようっす。今日は炒め物作るっす」


「……ここは事務所だ」


「台所ついてるんだから使わないともったいないっすよ」


 新玉葱と卵。油を引いた鍋に玉葱を入れる。焦げ目がつくまで放っておいて、卵を流し入れる。塩を振る。木べらで混ぜる。——玉葱の甘い匂いが事務所に広がった。花月の新玉葱は火を通すと甘くなる。


 皿に盛った。黒パンを添えて。


「はい。食べてください」


 匙を取った。口に運んだ。——甘い。玉葱の甘さと、卵の柔らかさ。塩気がちょうどいい。レーネの味付けは単純だが、素材が良ければ文句はない。


 全部食べた。皿の底まで匙で掬った。


「……先生。全部食べた」


「ああ」


「……よかった」


 レーネが小さく言った。皿を受け取る手が、少し震えていた。——こいつは、俺がどれだけ食べたか数えている。


---


 午前中。レーネが市場に出た後。


 扉が叩かれた。三度。等間隔。軽い音。


 ——ヘルマン。


 立ち上がって扉を開けた。小柄な老人が立っていた。外套を着ている。眼鏡の奥の目がこちらを見ている。片手に杖。もう片方に小さな風呂敷。


「お邪魔してもよろしいでしょうか」


 ヘルマンが事務所に来たのは、初めてだった。


「……どうぞ」


 椅子を出した。ヘルマンは外套を脱がずに座った。部屋の中を見回した。棚、机、窓、扉。——この老人も、出口の位置を確認する癖を持つ人間だ。


 安茶を淹れた。湯温にこだわった。蒸らし時間も計った。——この老人に出す茶を、雑に淹れるわけにはいかない。


 ヘルマンは杯を受け取り、一口飲んだ。


「ほう。——よい加減でございますな」


「……何用です」


 ヘルマンが杯を置いた。眼鏡を拭いた。——重要なことを言う前の癖だ。


「単刀直入に申し上げます」


 眼鏡をかけ直した。


「あなたの元部隊のことは——知っております。以前から」


 沈黙。


 安茶の湯気が、二人の間で細く立ち昇っていた。窓の外で鳥が鳴いた。


「……いつから」


「あなたがレーベンに来られる以前から。わたくしの旧友は、あなたのことをわたくしに託す際に、最低限のことは申しておりました」


 旧友。——俺の元上官。俺をレーベンに送った人間。ヘルマンに俺を託した人間。


「なぜ今言う」


 ヘルマンの目がこちらを見た。眼鏡の奥の、老人の目。


「わたくしが黙っていることで、あなたが壊れるのであれば——黙っている意味がございません」


「……壊れてはいない」


「さようでございますか」


 ヘルマンはそれ以上追わなかった。風呂敷を開けた。上等な干し菓子が入っていた。


「手土産でございます。少し、お疲れのようでしたので」


 杖を持って立ち上がった。


「何かございましたら、いつでも。場所は存じておりますので」


 三度の軽いノックで来て、静かに帰っていった。


 干し菓子を一つ口に入れた。蜂蜜と木の実。上等な品だ。


 ——ヘルマンが知っていた。最初から。では、あの老人が俺に仕事を回していたのは、俺の素性を知った上でのことだ。


 「壊れるのであれば、黙っている意味がない」。——あの老人は、俺がこの三日間でどうなっていたか、知っている。ヘルマンの耳は、俺が思っているよりずっと遠くまで届いている。


---


 午後。市場の使い走りの少年が封筒を持ってきた。口頭の伝言は「巡礼宿の方から」。


 封筒を開けた。短い文面。綺麗な字。


 「先日、あなたの助手の方が外壁区でいくらか動かれたようでして、そのことが、然るべき方面に伝わっているようです。ご留意ください。——A」


 封筒を置いた。


 昨日のことが、頭の中で組み替わった。レーネの帰りが遅かった。息が上がっていた。靴の泥。赤っぽい泥。——中層区の石畳の泥ではない。外壁区の、リュッケ周辺の赤土だ。


 「市場で聞いたんすけど」。——市場ではない。自分で行ったのだ。


 レーネの手が耳のあたりに触れた。——あの癖だ。嘘をつく時の。


 三日間止まっていた歯車が、噛み合って動き出す。レーネが外壁区で誰かに聞いた。その経路のどこかから、「ヴェルナーの助手がリュッケの辺りを嗅ぎ回っている」という情報が流れた。


---


 夕方前。レーネが事務所に来た。


 蝶番を鳴らして入ってきた。片手に油紙の包み。


「先生、午後の市場で——」


「レーネ」


 声を荒げてはいない。普通の声だ。


 レーネが止まった。


「花月八日の午後。市場にいなかっただろう」


 レーネの顔から表情が消えた。油紙の包みを持つ手が、わずかに強くなった。


「リュッケに行ったな」


「——」


「答えろ」


「……はい」


 レーネの声が小さかった。俯いた。——それから、顔を上げた。


「先生が動けない時に、あたしにできること——」


「聞いていない。行ったか行かなかったかを聞いている」


「行きました。荷運び仲間のトビアスに頼んで、リュッケの辺りのことを聞いてもらいました」


 トビアス。外壁区の荷運び。レーネの市場仲間だろう。


「そのトビアスが誰に聞いたか、知っているか」


「……知らないっす」


「お前が聞いて回ったことが、向こうに伝わっている」


 レーネが固まった。


 ——叱らない。声を荒げない。こいつが動いたのは、俺が三日間動けなかったからだ。俺が倒れていなければ、こいつは動かなかった。これは俺のツケだ。


 だが、事実は事実だ。レーネの行動が、組織の耳に入った。


 レーネがこちらの目を見た。——そして、何かに気づいたように、半歩退いた。


「先生——」


「怒ってはいない」


「……目が」


「何だ」


「……いえ。なんでもないっす」


 俺は何の顔をしている。わからない。鏡がない。——だが、レーネが退いた。こいつが俺の前で退いたのは初めてだ。


「わかった」


 一呼吸置いた。


「次からは、俺に言ってから動け」


「……了解っす」


「それと。——お前が持ってきた情報は、使う」


 レーネが顔を上げた。


「リュッケ周辺で測量をしている人間がいる。場所の特定が進んでいるということだ」


「……それって」


「何かを探している。系統的に。——お前のおかげでわかった」


 レーネの目が揺れた。叱責と評価の、どちらが来るかわからない目。


「失敗から得た情報でも、情報は情報だ。無駄にはしない。——だが、次からは」


「先生に相談してから動く。わかったっす」


---


 レーネが帰った後。


 快晴の空が、窓の外で赤く染まりかけていた。


 ヘルマンが知っていた。アンセルが警告を寄越した。レーネが動いた。——三日間止まっていた世界が、一気に動き出している。


 ドルクの声が頭に浮かんだ。「必要になったら言え」。


 ——まだだ。だが、近いかもしれない。


 煙草を巻いた。手は震えなかった。火をつけた。煙を吐いた。


 窓の外は快晴だ。花月の空が、高い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ