第31話「変わった目」
花月九日。快晴。
空が高い。窓を開けると、風が通り抜けた。雲がない。青い空が建物の屋根の上に広がっている。二日も続いた雨が、ようやく抜けた。
深呼吸した。胸の奥まで空気が入る。
台所で音がした。鍋が火にかかる音。——レーネだ。
台所に行くと、レーネが立っていた。市場で買ってきた新玉葱を切っている。
「おはようっす。今日は炒め物作るっす」
「……ここは事務所だ」
「台所ついてるんだから使わないともったいないっすよ」
新玉葱と卵。油を引いた鍋に玉葱を入れる。焦げ目がつくまで放っておいて、卵を流し入れる。塩を振る。木べらで混ぜる。——玉葱の甘い匂いが事務所に広がった。花月の新玉葱は火を通すと甘くなる。
皿に盛った。黒パンを添えて。
「はい。食べてください」
匙を取った。口に運んだ。——甘い。玉葱の甘さと、卵の柔らかさ。塩気がちょうどいい。レーネの味付けは単純だが、素材が良ければ文句はない。
全部食べた。皿の底まで匙で掬った。
「……先生。全部食べた」
「ああ」
「……よかった」
レーネが小さく言った。皿を受け取る手が、少し震えていた。——こいつは、俺がどれだけ食べたか数えている。
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午前中。レーネが市場に出た後。
扉が叩かれた。三度。等間隔。軽い音。
——ヘルマン。
立ち上がって扉を開けた。小柄な老人が立っていた。外套を着ている。眼鏡の奥の目がこちらを見ている。片手に杖。もう片方に小さな風呂敷。
「お邪魔してもよろしいでしょうか」
ヘルマンが事務所に来たのは、初めてだった。
「……どうぞ」
椅子を出した。ヘルマンは外套を脱がずに座った。部屋の中を見回した。棚、机、窓、扉。——この老人も、出口の位置を確認する癖を持つ人間だ。
安茶を淹れた。湯温にこだわった。蒸らし時間も計った。——この老人に出す茶を、雑に淹れるわけにはいかない。
ヘルマンは杯を受け取り、一口飲んだ。
「ほう。——よい加減でございますな」
「……何用です」
ヘルマンが杯を置いた。眼鏡を拭いた。——重要なことを言う前の癖だ。
「単刀直入に申し上げます」
眼鏡をかけ直した。
「あなたの元部隊のことは——知っております。以前から」
沈黙。
安茶の湯気が、二人の間で細く立ち昇っていた。窓の外で鳥が鳴いた。
「……いつから」
「あなたがレーベンに来られる以前から。わたくしの旧友は、あなたのことをわたくしに託す際に、最低限のことは申しておりました」
旧友。——俺の元上官。俺をレーベンに送った人間。ヘルマンに俺を託した人間。
「なぜ今言う」
ヘルマンの目がこちらを見た。眼鏡の奥の、老人の目。
「わたくしが黙っていることで、あなたが壊れるのであれば——黙っている意味がございません」
「……壊れてはいない」
「さようでございますか」
ヘルマンはそれ以上追わなかった。風呂敷を開けた。上等な干し菓子が入っていた。
「手土産でございます。少し、お疲れのようでしたので」
杖を持って立ち上がった。
「何かございましたら、いつでも。場所は存じておりますので」
三度の軽いノックで来て、静かに帰っていった。
干し菓子を一つ口に入れた。蜂蜜と木の実。上等な品だ。
——ヘルマンが知っていた。最初から。では、あの老人が俺に仕事を回していたのは、俺の素性を知った上でのことだ。
「壊れるのであれば、黙っている意味がない」。——あの老人は、俺がこの三日間でどうなっていたか、知っている。ヘルマンの耳は、俺が思っているよりずっと遠くまで届いている。
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午後。市場の使い走りの少年が封筒を持ってきた。口頭の伝言は「巡礼宿の方から」。
封筒を開けた。短い文面。綺麗な字。
「先日、あなたの助手の方が外壁区でいくらか動かれたようでして、そのことが、然るべき方面に伝わっているようです。ご留意ください。——A」
封筒を置いた。
昨日のことが、頭の中で組み替わった。レーネの帰りが遅かった。息が上がっていた。靴の泥。赤っぽい泥。——中層区の石畳の泥ではない。外壁区の、リュッケ周辺の赤土だ。
「市場で聞いたんすけど」。——市場ではない。自分で行ったのだ。
レーネの手が耳のあたりに触れた。——あの癖だ。嘘をつく時の。
三日間止まっていた歯車が、噛み合って動き出す。レーネが外壁区で誰かに聞いた。その経路のどこかから、「ヴェルナーの助手がリュッケの辺りを嗅ぎ回っている」という情報が流れた。
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夕方前。レーネが事務所に来た。
蝶番を鳴らして入ってきた。片手に油紙の包み。
「先生、午後の市場で——」
「レーネ」
声を荒げてはいない。普通の声だ。
レーネが止まった。
「花月八日の午後。市場にいなかっただろう」
レーネの顔から表情が消えた。油紙の包みを持つ手が、わずかに強くなった。
「リュッケに行ったな」
「——」
「答えろ」
「……はい」
レーネの声が小さかった。俯いた。——それから、顔を上げた。
「先生が動けない時に、あたしにできること——」
「聞いていない。行ったか行かなかったかを聞いている」
「行きました。荷運び仲間のトビアスに頼んで、リュッケの辺りのことを聞いてもらいました」
トビアス。外壁区の荷運び。レーネの市場仲間だろう。
「そのトビアスが誰に聞いたか、知っているか」
「……知らないっす」
「お前が聞いて回ったことが、向こうに伝わっている」
レーネが固まった。
——叱らない。声を荒げない。こいつが動いたのは、俺が三日間動けなかったからだ。俺が倒れていなければ、こいつは動かなかった。これは俺のツケだ。
だが、事実は事実だ。レーネの行動が、組織の耳に入った。
レーネがこちらの目を見た。——そして、何かに気づいたように、半歩退いた。
「先生——」
「怒ってはいない」
「……目が」
「何だ」
「……いえ。なんでもないっす」
俺は何の顔をしている。わからない。鏡がない。——だが、レーネが退いた。こいつが俺の前で退いたのは初めてだ。
「わかった」
一呼吸置いた。
「次からは、俺に言ってから動け」
「……了解っす」
「それと。——お前が持ってきた情報は、使う」
レーネが顔を上げた。
「リュッケ周辺で測量をしている人間がいる。場所の特定が進んでいるということだ」
「……それって」
「何かを探している。系統的に。——お前のおかげでわかった」
レーネの目が揺れた。叱責と評価の、どちらが来るかわからない目。
「失敗から得た情報でも、情報は情報だ。無駄にはしない。——だが、次からは」
「先生に相談してから動く。わかったっす」
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レーネが帰った後。
快晴の空が、窓の外で赤く染まりかけていた。
ヘルマンが知っていた。アンセルが警告を寄越した。レーネが動いた。——三日間止まっていた世界が、一気に動き出している。
ドルクの声が頭に浮かんだ。「必要になったら言え」。
——まだだ。だが、近いかもしれない。
煙草を巻いた。手は震えなかった。火をつけた。煙を吐いた。
窓の外は快晴だ。花月の空が、高い。




