第30話「走った距離」
花月八日。薄曇り。
頭が痛い。
目を開けると、天井の染みが見えた。四つ。——事務所だ。机に突っ伏して寝ていた。首が固まっている。頬に何か——レーネの包みだ。冷えた魚の匂いが紙に移っている。
身体を起こした。視界がふらつく。安葡萄酒の瓶が机の上に転がっている。空だ。いつ空にしたか覚えていない。
窓を開けた。
——風。
湿った風ではない。乾いた、暖かい風。雨が上がっている。空は薄い雲に覆われているが、昨日までの低い灰色とは違う。雲の向こうに明るさがある。
深く息を吸った。雨上がりの空気は、埃と緑と石畳の匂いがする。——砂の匂いではない。
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蝶番が鳴った。
「先生、おはようっす」
レーネが立っていた。片手に油紙の包み。もう片方に水筒。朝の荷運びを終えてきたのだろう。肩に汗の染みがある。
「……来るなと言った」
「聞いてないっす」
包みを机に置いた。油紙を開けると、茹で卵が二つと黒パンが入っていた。
「昨日何も食べてないでしょ。レーネの包み、開けてないし」
「……よく知っているな」
「包みそのまんまっすから。わかるっすよ」
茹で卵を手に取った。殻を剥いた。白い表面に、ひびの跡が細かく残っている。市場の屋台の茹で方だ。少し硬めに茹でてある。
口に運んだ。噛んだ。——黄身の味がする。粉っぽくて、少し甘い。塩がほしい。
レーネが塩の包みを出した。
「はい」
塩を振った。もう一口。——食べられる。
二つ目には手を伸ばさなかった。黒パンを千切って口に入れた。硬い。噛んでいるうちに、麦の味が出てきた。
「先生」
「……何だ」
「何かできることないっすか」
レーネの目がこちらを見ている。——あの目だ。リュッケの夜から変わった目。「役に立ちたい」と言葉にはしないが、全身でそう言っている目。
「ない」
レーネの唇が一瞬引き結ばれた。すぐに戻った。
「……了解っす。じゃあ市場行ってくるっす。午後から屋台の手伝いがあるんで」
フードを被って、扉に手をかけた。——一瞬だけ止まった。振り返らなかった。
蝶番が軋んだ。
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一人。
茹で卵の殻が机の上に散らばっている。黒パンの残りを齧りながら、窓の外を見た。
薄い雲が動いている。風がある。通りを歩いている人間が何人か見えた。雨が上がった朝の、普通の光景。
昨夜のことを思い出した。安葡萄酒を飲みながら、声に出した言葉。——「俺の判断ミスで、あいつらは死んだ」。
声に出したのは初めてだった。十年。十年間、頭の中で何千回も回した言葉を、口から出した。酒の勢いだ。誰も聞いていなかった。——だが、口に出したところで何も変わらなかった。
死んだ人間は死んだままだ。俺の分析が間違っていた事実は変わらない。内通者が二重だったことも。部隊が壊滅したことも。
煙草入れを取り出した。蝶番が鳴った。紙を一枚取り出して、葉を乗せた。
——手が震えていない。
紙を巻いた。端を舌で湿らせた。火をつけた。煙を吐いた。
指先が動く。一昨日は煙草を巻けなかった。今日は巻けた。——それだけの違いだ。それだけの。
窓から煙が流れていく。風に乗って、薄い雲の方に消えた。
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午後。
レーネは戻らなかった。市場の仕事が長引いているのだろう。花月は仕入れが増える時期だ。
事務所の中を少し片付けた。空の瓶を棚の下に寄せた。レーネが昨日置いていった包みの焼き魚は冷え切っていたが、齧った。塩気が舌にある。蕪の煮付けは崩れかけていたが、噛んだ。——食べられなくはない。
仕様書の入った引き出しには触れなかった。
椅子に座って、煙草を吸った。二本目。灰皿に灰が溜まっていく。
何もしていない。だが、昨日までとは違う。昨日は「何もできない」だった。今日は「何もしていない」だ。——違いがあるかどうか、わからない。たぶん、ある。
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日が傾いた頃、扉が叩かれた。
叩き方でわかった。レーネは蝶番を鳴らして入ってくる。マルタなら声を先にかける。ヘルマンなら三度叩く。
二度。間を置いて。重い指の音。
「……開いてる」
ドルクが立っていた。
仕事着のまま。革のエプロンの裾に煤がついている。手に布の包み。腕には炭の匂いが染みついている。
「邪魔する」
「ああ」
ドルクは入ってきて、部屋を見た。空の瓶。散らかった机。窓際の灰皿。——何も言わなかった。
椅子を引いて座った。布の包みを机に置いた。開けると、干し肉と、小さな酒瓶が入っていた。
「かみさんが」
それだけ言った。干し肉は分厚く切ってある。妻の切り方だ。酒瓶は麦酒。工房の棚に置いてある備蓄だろう。
杯を二つ出した。注いだ。干し肉を千切って口に入れた。塩気と肉の味。噛むと顎が疲れる。——だが、食べている。
ドルクは干し肉を噛みながら、黙って麦酒を飲んだ。
沈黙。
いつもの沈黙だ。週に一度の晩酌と同じ種類の沈黙。——だが、今日のはいつもと少し違う。ドルクが工房帰りに、わざわざ事務所まで来た。いつもは俺が工房に行く。
「——昨日、工房の前を通ったな」
ドルクが言った。杯を置いて。
「……ああ」
「入らなかった」
「ああ」
ドルクは何も聞かなかった。腕を組んで、椅子の背にもたれた。
「預け物のことだが」
「……」
「必要になったら言え」
預け物。——工房の棚の奥にある、布に包まれた品。名前も用途も、ドルクは聞いていない。聞かない。ただ、「普通の品ではない」ことは知っている。
「まだだ」
「ああ」
ドルクは麦酒を飲み干した。干し肉の残りを包みに戻した。立ち上がった。
「かみさんが言ってた。飯食わせろと」
「……伝えておいてくれ。食ってる」
「嘘だな」
「……半分は本当だ」
「ああ」
ドルクが扉に手をかけた。振り返らなかった。蝶番が鳴った。
——あいつも、追わない人間だ。マルタとは違う種類の「追わない」だが。マルタは聞くだけ聞いて引く。ドルクは来て、置いて、帰る。
干し肉をもう一切れ噛んだ。塩気が舌に染みた。
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暗くなりかけた頃、蝶番が鳴った。
レーネが立っていた。息が少し上がっている。頬が赤い。
「遅くなったっす。すみません」
「市場か」
「はい。花月は忙しくて。荷運び終わってから屋台の片付けも手伝って——」
レーネの手が一瞬、耳のあたりに触れた。髪を直す仕草のようにも見えた。
靴の泥が少し多い。赤っぽい泥だ。——雨上がりはどこも泥だらけだ。気のせいだろう。
「先生、ドルクさん来ました? 干し肉の匂いするっす」
「ああ。さっき来た」
「……先生に干し肉持ってくるとか、ドルクさんらしいっすね」
レーネが机の上を見回した。空の杯が二つ。干し肉の包み。茹で卵の殻。——昨日よりはましな光景のはずだ。
「あ、そうだ。市場で聞いたんすけど」
「何だ」
「リュッケの辺りで、測量みたいなことやってる人がいるらしいっすよ。外壁区の荷運び仲間が言ってて」
リュッケ。——あの廃倉庫のある一帯だ。
「測量か」
「なんか、道具持って歩き回ってたって。役場の人じゃないっぽいすけど」
「……ふうん」
頭が回らない。情報として受け取った。だが、今は組み立てる力がない。——明日にしよう。
「先生、顔色昨日よりマシっすよ」
「……そうか」
「茹で卵、一個食べたでしょ。殻あるっす」
「ああ」
「明日も朝来るっす」
「来るなとは言っていない」
「言ったっすよ。昨日」
「……昨日は昨日だ」
レーネが少しだけ笑った。口の端が上がっただけの、小さな笑い。
「了解っす。じゃあ、おやすみなさい」
蝶番が鳴った。扉が閉まった。
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一人。
窓の外は暗い。薄曇りの空に星は見えない。だが、雨は降っていない。
煙草を巻いた。手は震えなかった。火をつけて、煙を吐いた。
砂の匂いは——まだ鼻の奥にある。消えてはいない。だが、今日は炭の匂いと、干し肉の塩気と、茹で卵の黄身の味が、その上に薄く重なっている。
少し眠れそうだ。
机の上に散った卵の殻を、掌で掬って屑籠に入れた。明日の包みの残りは、棚にしまった。
椅子の背にもたれた。目を閉じた。




