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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep09「旧い傷」

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第30話「走った距離」

 花月八日。薄曇り。


 頭が痛い。


 目を開けると、天井の染みが見えた。四つ。——事務所だ。机に突っ伏して寝ていた。首が固まっている。頬に何か——レーネの包みだ。冷えた魚の匂いが紙に移っている。


 身体を起こした。視界がふらつく。安葡萄酒の瓶が机の上に転がっている。空だ。いつ空にしたか覚えていない。


 窓を開けた。


 ——風。


 湿った風ではない。乾いた、暖かい風。雨が上がっている。空は薄い雲に覆われているが、昨日までの低い灰色とは違う。雲の向こうに明るさがある。


 深く息を吸った。雨上がりの空気は、埃と緑と石畳の匂いがする。——砂の匂いではない。


---


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす」


 レーネが立っていた。片手に油紙の包み。もう片方に水筒。朝の荷運びを終えてきたのだろう。肩に汗の染みがある。


「……来るなと言った」


「聞いてないっす」


 包みを机に置いた。油紙を開けると、茹で卵が二つと黒パンが入っていた。


「昨日何も食べてないでしょ。レーネの包み、開けてないし」


「……よく知っているな」


「包みそのまんまっすから。わかるっすよ」


 茹で卵を手に取った。殻を剥いた。白い表面に、ひびの跡が細かく残っている。市場の屋台の茹で方だ。少し硬めに茹でてある。


 口に運んだ。噛んだ。——黄身の味がする。粉っぽくて、少し甘い。塩がほしい。


 レーネが塩の包みを出した。


「はい」


 塩を振った。もう一口。——食べられる。


 二つ目には手を伸ばさなかった。黒パンを千切って口に入れた。硬い。噛んでいるうちに、麦の味が出てきた。


「先生」


「……何だ」


「何かできることないっすか」


 レーネの目がこちらを見ている。——あの目だ。リュッケの夜から変わった目。「役に立ちたい」と言葉にはしないが、全身でそう言っている目。


「ない」


 レーネの唇が一瞬引き結ばれた。すぐに戻った。


「……了解っす。じゃあ市場行ってくるっす。午後から屋台の手伝いがあるんで」


 フードを被って、扉に手をかけた。——一瞬だけ止まった。振り返らなかった。


 蝶番が軋んだ。


---


 一人。


 茹で卵の殻が机の上に散らばっている。黒パンの残りを齧りながら、窓の外を見た。


 薄い雲が動いている。風がある。通りを歩いている人間が何人か見えた。雨が上がった朝の、普通の光景。


 昨夜のことを思い出した。安葡萄酒を飲みながら、声に出した言葉。——「俺の判断ミスで、あいつらは死んだ」。


 声に出したのは初めてだった。十年。十年間、頭の中で何千回も回した言葉を、口から出した。酒の勢いだ。誰も聞いていなかった。——だが、口に出したところで何も変わらなかった。


 死んだ人間は死んだままだ。俺の分析が間違っていた事実は変わらない。内通者が二重だったことも。部隊が壊滅したことも。


 煙草入れを取り出した。蝶番が鳴った。紙を一枚取り出して、葉を乗せた。


 ——手が震えていない。


 紙を巻いた。端を舌で湿らせた。火をつけた。煙を吐いた。


 指先が動く。一昨日は煙草を巻けなかった。今日は巻けた。——それだけの違いだ。それだけの。


 窓から煙が流れていく。風に乗って、薄い雲の方に消えた。


---


 午後。


 レーネは戻らなかった。市場の仕事が長引いているのだろう。花月は仕入れが増える時期だ。


 事務所の中を少し片付けた。空の瓶を棚の下に寄せた。レーネが昨日置いていった包みの焼き魚は冷え切っていたが、齧った。塩気が舌にある。蕪の煮付けは崩れかけていたが、噛んだ。——食べられなくはない。


 仕様書の入った引き出しには触れなかった。


 椅子に座って、煙草を吸った。二本目。灰皿に灰が溜まっていく。


 何もしていない。だが、昨日までとは違う。昨日は「何もできない」だった。今日は「何もしていない」だ。——違いがあるかどうか、わからない。たぶん、ある。


---


 日が傾いた頃、扉が叩かれた。


 叩き方でわかった。レーネは蝶番を鳴らして入ってくる。マルタなら声を先にかける。ヘルマンなら三度叩く。


 二度。間を置いて。重い指の音。


「……開いてる」


 ドルクが立っていた。


 仕事着のまま。革のエプロンの裾に煤がついている。手に布の包み。腕には炭の匂いが染みついている。


「邪魔する」


「ああ」


 ドルクは入ってきて、部屋を見た。空の瓶。散らかった机。窓際の灰皿。——何も言わなかった。


 椅子を引いて座った。布の包みを机に置いた。開けると、干し肉と、小さな酒瓶が入っていた。


「かみさんが」


 それだけ言った。干し肉は分厚く切ってある。妻の切り方だ。酒瓶は麦酒。工房の棚に置いてある備蓄だろう。


 杯を二つ出した。注いだ。干し肉を千切って口に入れた。塩気と肉の味。噛むと顎が疲れる。——だが、食べている。


 ドルクは干し肉を噛みながら、黙って麦酒を飲んだ。


 沈黙。


 いつもの沈黙だ。週に一度の晩酌と同じ種類の沈黙。——だが、今日のはいつもと少し違う。ドルクが工房帰りに、わざわざ事務所まで来た。いつもは俺が工房に行く。


「——昨日、工房の前を通ったな」


 ドルクが言った。杯を置いて。


「……ああ」


「入らなかった」


「ああ」


 ドルクは何も聞かなかった。腕を組んで、椅子の背にもたれた。


「預け物のことだが」


「……」


「必要になったら言え」


 預け物。——工房の棚の奥にある、布に包まれた品。名前も用途も、ドルクは聞いていない。聞かない。ただ、「普通の品ではない」ことは知っている。


「まだだ」


「ああ」


 ドルクは麦酒を飲み干した。干し肉の残りを包みに戻した。立ち上がった。


「かみさんが言ってた。飯食わせろと」


「……伝えておいてくれ。食ってる」


「嘘だな」


「……半分は本当だ」


「ああ」


 ドルクが扉に手をかけた。振り返らなかった。蝶番が鳴った。


 ——あいつも、追わない人間だ。マルタとは違う種類の「追わない」だが。マルタは聞くだけ聞いて引く。ドルクは来て、置いて、帰る。


 干し肉をもう一切れ噛んだ。塩気が舌に染みた。


---


 暗くなりかけた頃、蝶番が鳴った。


 レーネが立っていた。息が少し上がっている。頬が赤い。


「遅くなったっす。すみません」


「市場か」


「はい。花月は忙しくて。荷運び終わってから屋台の片付けも手伝って——」


 レーネの手が一瞬、耳のあたりに触れた。髪を直す仕草のようにも見えた。


 靴の泥が少し多い。赤っぽい泥だ。——雨上がりはどこも泥だらけだ。気のせいだろう。


「先生、ドルクさん来ました? 干し肉の匂いするっす」


「ああ。さっき来た」


「……先生に干し肉持ってくるとか、ドルクさんらしいっすね」


 レーネが机の上を見回した。空の杯が二つ。干し肉の包み。茹で卵の殻。——昨日よりはましな光景のはずだ。


「あ、そうだ。市場で聞いたんすけど」


「何だ」


「リュッケの辺りで、測量みたいなことやってる人がいるらしいっすよ。外壁区の荷運び仲間が言ってて」


 リュッケ。——あの廃倉庫のある一帯だ。


「測量か」


「なんか、道具持って歩き回ってたって。役場の人じゃないっぽいすけど」


「……ふうん」


 頭が回らない。情報として受け取った。だが、今は組み立てる力がない。——明日にしよう。


「先生、顔色昨日よりマシっすよ」


「……そうか」


「茹で卵、一個食べたでしょ。殻あるっす」


「ああ」


「明日も朝来るっす」


「来るなとは言っていない」


「言ったっすよ。昨日」


「……昨日は昨日だ」


 レーネが少しだけ笑った。口の端が上がっただけの、小さな笑い。


「了解っす。じゃあ、おやすみなさい」


 蝶番が鳴った。扉が閉まった。


---


 一人。


 窓の外は暗い。薄曇りの空に星は見えない。だが、雨は降っていない。


 煙草を巻いた。手は震えなかった。火をつけて、煙を吐いた。


 砂の匂いは——まだ鼻の奥にある。消えてはいない。だが、今日は炭の匂いと、干し肉の塩気と、茹で卵の黄身の味が、その上に薄く重なっている。


 少し眠れそうだ。


 机の上に散った卵の殻を、掌で掬って屑籠に入れた。明日の包みの残りは、棚にしまった。


 椅子の背にもたれた。目を閉じた。


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