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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep09「旧い傷」

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第29話「灰色の日」

 花月七日。雨。


 灰色猫亭のカウンターに、空の杯が二つ並んでいた。


 朝。開店直後。まだ客はいない。窓の外は灰色だ。昨日から降り続いている雨が、通りの石畳を暗く濡らしている。空が低い。雲が建物の屋根に被さるように垂れ込めていて、陽の光がどこにもない。


 カウンターの端に座っている。壁を背にした席。いつもの場所だ。


 杯は安酒のものだ。昨夜、事務所で飲み残した瓶を持って、深夜にここに来た。マルタが裏口の鍵を開けてくれた。何も聞かなかった。杯を二つ出して、棚に戻って寝た。


 あれから何時間経った。窓が白んで、灰色になって、また灰色のまま。——雨の日は時間がわからない。


 奥で物音がしている。マルタが仕込みを始めた。鍋を火にかける音。包丁が板を叩く音。水を注ぐ音。——日常の音だ。毎朝聞いている音だ。


 安酒の瓶は空になっている。杯を置いた。水が欲しい。だが立ち上がる気力がない。


---


 しばらく座っていた。


 マルタが鍋の蓋を開けた。


 金属が石に当たる——


 ——盾が落ちた。


 石畳に。金属が石に当たる音。重い音。落としたのではない。手が離れたのだ。盾を持っていた人間の手が——


 走っている。走っている。煙が目を刺す。黒い煙。建物が燃えている。壁の向こうで何かが崩れた。砂が舞い上がる。


 「撤退しろ! 全員撤退——」


 俺の声だ。俺が叫んでいる。声が嗄れている。何度も叫んだあとの声だ。


 走っている。隣を走っていた人間が倒れた。見えない。煙で見えない。足元に何かがある。踏んだ。柔らかい。——人だ。


 「——隊長、右翼が——」


 「聞こえている! 退け!」


 退路。退路はどこだ。地図は頭に入っている。情報は俺が集めた。この道は安全だと俺が判断した。この道を進めと俺が進言した。


 ——この道は安全ではなかった。


 倒れている人間が増えていく。煙の中に人の形が見える。動いている。動いていない。区別がつかない。足が重い。息ができない。砂が肺に入っている。


 「——長——」


 声が途切れる。誰だ。名前が。名前が出てこない。顔が見えない。煙が——


 「おい」


 手。肩を掴む手。大きくて、硬い手。鍋を振る手。——違う。これは砂漠の手じゃない。


 「おい。あんた」


---


 マルタの顔が、目の前にあった。


 カウンターに突っ伏していた。いつの間にか。頬が木の天板に押しつけられている。冷たい。唾が口の端から垂れている。


 マルタがカウンターの向こう側に立っている。片手をこちらの肩に置いたまま、黙ってこちらを見ている。


 ——ここは灰色猫亭だ。


 身体を起こした。視界がぐらついた。手で目を擦った。頬に天板の跡がついている。


「……ああ」


「ああ、じゃないよ」


 マルタの声は低かった。怒っているのではない。——別の何かだ。


 布巾を置いた。カウンターの上の杯を片付けもせず、正面に立った。腕を組まずに。


「何があった」


 短い一言。


 マルタがこういう聞き方をするのは、初めてだった。いつもなら「どうしたんだい」か「何かあったかい」。世間話の延長のような問い方をして、相手に逃げ道を残す。


 今日の問い方には逃げ道がなかった。


「……何も」


 マルタは何も言わなかった。三秒ほどこちらを見て、それから背を向けた。鍋の方に戻った。


 ——追わない。


 そういう人だ。聞くだけ聞いて、答えが来なければ引く。無理に踏み込まない。


 鍋の蓋を開ける音がした。今度は——ただの音だった。金属の音。鍋の蓋。それだけだ。


---


 昼前。


 マルタが器を一つ、カウンターに置いた。


 根菜の汁物。蕪と人参と、干した豚肉の切れ端。湯気が立っている。匙が添えてある。


「食え」


「……」


「腹に何も入ってないだろう」


 匙を手に取った。汁を掬った。口に運んだ。


 昨日は何を食べても味がしなかった。干し肉も、干し杏も、塩気か酸味が舌に触れるだけで、それ以外は何もなかった。


 蕪が崩れるまで煮込まれている。人参は歯応えが残る切り方。干し肉の塩気が出汁に溶けている。——味がする。マルタの味だ。何度も食べた味。いつもの味。


 半分まで食べた。


 匙が止まった。


 器を押した。カウンターの上を滑って、マルタの方に寄った。


「……すまん。残す」


 マルタの手が一瞬止まった。布巾を持ったまま。


 それからカウンターを拭いた。何も言わなかった。器を下げた。


 ——マルタの料理を残したのは、初めてだ。


---


 午後。雨が止んだり降ったりしている。


 灰色猫亭の中は薄暗い。窓から入る光が弱い。蝋燭をつけるには早い。客が来る夕方まで、まだ時間がある。


 カウンターに座ったままでいた。何も考えていない。——いや、考えないようにしている。考え始めると、砂の匂いが戻ってくる。あの声が聞こえてくる。だから何も考えない。


 マルタが仕込みの合間に、水を一杯出してくれた。飲んだ。冷たくて、味がした。——水の味がすることに驚いた。


 しばらくして、マルタが背を向けたまま言った。


「帰る場所があるなら帰りな」


 静かな声だった。


 帰る場所。——事務所か。あの事務所に一人で戻って、壁を背にして座って、何をする。仕様書の入った引き出しを見て、また崩れるか。


 動かなかった。


 マルタはそれ以上何も言わなかった。鍋の底を木べらでかき混ぜる音だけが続いた。


---


 夕方前に店を出た。


 雨が弱くなっている。霧のような細かい雨が、空気に混じっている。通りの石畳が濡れて光っている。


 中層区の通りを歩いた。人が少ない。雨の日は皆、家にいる。


 ドルクの工房の前を通った。中から槌の音が聞こえた。規則正しい打撃。鍛冶の音。——ドルクは今日も炉に火を入れて、金属を叩いている。


 足が止まった。


 扉に手を伸ばそうとして——止めた。今の顔で入れない。マルタの前でさえ取り繕えなかったのに、ドルクの前で何ができる。あの男は言葉が少ない分、目が見える。


 槌の音を背中に聞きながら、通り過ぎた。


---


 事務所。


 扉を開けると、机の上に包みが置いてあった。油紙に包まれた惣菜。メモが添えてある。レーネの字だ。汚い字だ。


 「先生、市場で買ってきたっす。焼き魚と蕪の煮付けっす。食べてくだせえ。」


 「くだせえ」ではなく「ください」だろう。——何度言っても直らない。


 包みを開けなかった。椅子に座った。窓を開けた。湿った空気が入ってくる。


 棚を探した。安酒の瓶は昨夜で空にした。——別の瓶がある。いつか誰かの依頼の礼に貰った安葡萄酒。飲む気にならなくて放っておいたやつだ。栓を開けた。酸っぱい匂い。


 杯に注いだ。飲んだ。——酸っぱい。不味い。


 もう一杯。


---


 蝶番が鳴った。


「先生」


 レーネが立っていた。フードから雨の滴が垂れている。市場の夕方の片付けを終えてきたのだろう。靴が泥で汚れている。


「……包み、見ましたか」


「見た」


「食べてないっすよね」


 答えなかった。安葡萄酒の杯を置いた。目を合わせなかった。


「先生——」


「明日は来なくていい」


 レーネが黙った。


 目が合わない。目を合わせていない。——わかっている。窓の方を見ている。雨で暗くなった通りを。何も見ていない。


「……先生。何か、あたしにできること——」


「ない」


 短い。短すぎる。——だが、それ以上の言葉が出てこない。こいつに何を説明する。十年前の砂漠のことを。俺が書式を教えた若い連中のことを。俺の判断ミスで——


「了解っす」


 レーネの声が小さかった。


 扉が閉まる音。——閉まる直前に、一瞬だけ止まった。振り返ったのだろう。


 振り返るな。この顔を見るな。


 扉が閉まった。蝶番が軋んだ。


---


 一人。


 安葡萄酒を飲んだ。酸っぱい。不味い。——だが、飲んでいれば考えなくて済む。


 俺の判断ミスで、あいつらは死んだ。


 セレナード側の内通者がもたらした情報。俺はそれを信じた。分析した。この情報は信頼に足ると判断した。その判断に基づいて作戦を進言した。部隊は動いた。——罠だった。


 情報は偽物だった。内通者は二重だった。俺の分析は間違っていた。俺の判断で進言した作戦で、部隊は壊滅した。


 ——何人死んだ。数えるな。数えたら名前が出てくる。名前が出てきたら顔が出てくる。顔が出てきたら声が聞こえてくる。


 酒を飲んだ。酸っぱい。不味い。——頼むから効いてくれ。


 雨の音が窓を打っている。


 杯をもう一つ。もう一つ。——朝の灰色猫亭で見たマルタの目が浮かんだ。追わなかった目。聞くだけ聞いて、引いた目。あの目は怒っていなかった。——哀しんでいたのかもしれない。


 わからない。


 酒が残り少なくなった。


 窓の外は暗い。雨はまだ降っている。明日もたぶん降る。明日——明日、何をする。何もしない。何もできない。レーネに「来なくていい」と言った。マルタの汁物を半分残した。ドルクの工房の前を素通りした。


 ——全部、壊している。


 杯を置いた。机に突っ伏した。レーネの包みが頬に当たった。冷えた魚の匂いがした。


 目を閉じた。


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