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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep08「取引」

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第28話「旧い傷」

 花月六日。雨。


 窓を打つ水の音で目が覚めた。


 天井の染みを数えた。三つ。——いや、四つ。右端の小さいのを忘れていた。湿気で輪郭が広がっている。花月に入ってから何度かこの染みを見上げているが、数は増えていない。増えるはずがない。屋根が漏れているわけではないのだから。


 布団の中に手があった。冷たい。——昨夜の帰り道のことが、まだ身体の奥に残っている。ヘルマンの声。蝋燭の揺れ。「十年以上前の出来事と、今レーベンで起きていることが、繋がっているかもしれない」。


 ——考えるな。


 起き上がった。窓の外は灰色だ。雨が石畳を叩いている。中層区の通りに人影は少ない。雨の朝は静かでいい。誰の足音も聞こえない。


 台所の棚に黒パンが半分残っていた。硬い。齧った。安茶を淹れた。湯温にこだわる気力がない。茶葉を放り込んで湯を注いだだけだ。苦い。——まあ、朝はこれでいい。


 煙草入れを取り出した。蝶番が滑らかに開く。ドルクに直してもらった蝶番。煙草を巻いた。紙の端を舌で湿らせて、丁寧に仕上げた。火をつけた。煙を吐く。


 雨の音。煙草の煙。安茶。——日常だ。


 だが頭の中に、ヘルマンの眼鏡の奥の目が残っている。「お約束いたします」。あの老人が約束という言葉を使った。


---


 手持ちの情報を整理しようと思った。


 机の引き出しから、ヨーゼフの工房で写した仕様書の控えを出した。紙を広げて、煙草を灰皿に置いた。


 探知系器具の仕様。精度等級。筐体の素材指定。——何度も見た内容だ。だが、昨夜のヘルマンの言葉のあとでは、違う目で見えてしまう。


 仕様書の余白。数字の書き込み。


 指が止まった。


 ——7の数字に、横棒が入っている。


 1と区別するための横棒。欧風の書き方ではない。情報部の暗号教範で叩き込まれた書体だ。7に横棒、1に飾り。読み違えれば座標がずれる。座標がずれれば人が死ぬ。


 俺が教えた。


 新兵に。部隊に配属されたばかりの若い連中に。「7と1を読み間違えたら人が死ぬ。横棒を入れろ。癖をつけろ」。


 仕様書の余白の数字が、その書き方だった。


 ——あの部隊の人間が書いた。


 仕様書を持つ手が震えた。紙の端が揺れている。指先が冷たくなっていく。頭の奥で、何かが——


---


 砂の匂い。


 血の匂い。


 乾いた風が顔を叩いている。足元に砂。陽射しが白い。白すぎる。目を開けていられない。


 走っている。走っている——だが、どこに。


 「ヴェルナー、命令は——」


 声。誰の声だ。知っている声だ。名前が出てこない。出てこない。知っているのに。


 煙。黒い煙が立ち昇っている。建物の方角だ。——建物? 何の建物だ。


 走っている。膝が笑っている。息が上がっている。砂を蹴っている。


 倒れている人間。横向きに。腕が変な方向に曲がっている。顔が砂に半分埋もれている。——見るな。見るな。前を見ろ。


 「撤退——」


 声が途切れた。金属が石に当たる音。盾が落ちた音。


 「——先生」


 ——先生?


---


 床に座っていた。


 事務所の床。板張りの、硬い床。膝が折れて、崩れ落ちていた。壁に背中がついている。壁を背にする癖。——この癖だけが、体を支えていた。


 手が冷たい。指先に感覚がない。視界が白い——いや、白くはない。事務所だ。灰色の光。窓から雨の光が入っている。


 膝が震えている。止まらない。手も震えている。


 考えるな。


 ——機能しない。


 頭の中に砂の匂いがある。血の匂いがある。十年以上前の砂と血が、鼻の奥にこびりついている。「ヴェルナー、命令は——」と言った声の主の名前が、喉の手前まで来て、出ない。


 出さない。出したら——


 目を閉じた。呼吸を数えた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。


 ——雨の音がする。


 事務所の窓を打つ雨の音。外は花月の雨だ。砂ではない。砂漠ではない。ここはレーベンだ。


 呼吸が少しだけ整った。まだ震えている。だが、事務所の匂い——紙と埃と安茶の匂い——が、砂の匂いを少しずつ押し返している。


 記憶の残像が薄れかけた時、別の断片が一瞬だけ混じった。


 雨。石畳。夜。——小さな泣き声。暗い路地。


 消えた。


 何だ、今のは。——わからない。砂の記憶の破片か。別の何かか。区別がつかない。


 壁に背を預けたまま、目を開けた。天井の染みが四つ。——ああ、やはり四つだ。


---


 どれくらい座っていたかわからない。


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす。雨すごいっすね——」


 レーネが入ってきた。外套のフードに雨粒がついている。朝の荷運びを済ませてきたのだろう。片手に油紙の包み。


 ——立たなければ。


 壁に手をついて立ち上がった。膝がまだ少し重い。椅子に座った。


「……ああ」


「先生? 顔色悪くないっすか」


「寝不足だ」


 レーネが油紙の包みを机に置いた。開けると、市場のパンと干し果物が入っていた。


「朝の荷運びの帰りに買ってきたっす。先生、自分じゃ買いに行かないでしょ」


「……ありがたい」


 パンを手に取った。——食べられない。腹の底が詰まっている。口に入れても、噛めない気がした。


 パンを机に置いた。


「あとで食べる」


「……」


 レーネが何か言いかけた。口を開いて、閉じた。目がこちらの手を見ている。——震えは止まっているはずだ。止めた。


「レーネ。今日は市場の方に行け」


「え? でも——」


「依頼が入っているわけじゃない。行っても暇だ。屋台の手伝いでもしてこい」


「先生、あたし今日は午後まで空いてるっすよ。何か——」


「いいから行け」


 声が硬くなった。——わかっている。こいつに当たるべきではない。だが今は、人の顔を見ていたくない。


 レーネが黙った。靴の先を見て、それから顔を上げた。


「……了解っす。じゃあ、市場行ってくるっす」


 扉が閉まった。蝶番が軋んだ。


 一人になった。


---


 雨が降り続いている。


 午後。事務所の椅子に座ったまま、動けずにいた。


 仕様書は引き出しに戻した。もう見たくない。7の横棒。あの書き方を教えた部屋の匂い。若い連中の顔。——そこから先は考えない。考えてはならない。


 黒パンの残りを齧った。味がしない。安茶を淹れ直した。ぬるい。——どうでもいい。


 レーネが置いていった包みを開けた。干し杏が三つ。口に入れた。酸味が舌に触れた。——酸味は感じる。甘さはわからない。


 日が暮れた。雨は止まない。


 棚から干し肉を出した。齧った。塩気だけが舌にある。噛んでいるが、それだけだ。


 煙草を巻こうとした。


 手が震えて、紙が破れた。


 もう一枚。——また破れた。指の先が言うことを聞かない。こんなに手先が駄目になったのは、いつ以来だ。


 煙草入れを閉じた。蝶番が静かに鳴った。


「十年前」


 声に出していた。


 ——酒が欲しい。


 灰色猫亭に行けばいい。マルタが何か出してくれる。温かいものを食って、酒を飲んで、寝ればいい。


 だが——今の顔をマルタに見せられない。あの人は見える。見えてしまう。昨日も灰色猫亭を避けた。今日もだ。


 棚の奥に安酒の瓶があった。いつ買ったか覚えていない。半分残っている。


 杯を出した。注いだ。飲んだ。


 ——不味い。


 もう一杯。


 雨の音を聞きながら、安酒を飲んだ。味はしない。だが、頭の中の砂の匂いが、少しだけ遠くなった。


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