幕間「走れる距離」
花月五日、夕方。
市場の片付けを終えて、帰り道を歩いていた。
足が痛い。朝の荷運びで踵をやった。昼の屋台で立ちっぱなし。午後は古書店と河岸の鶏亭を回って、事務所に戻って報告して、また市場に戻って夕方の片付け。——一日中動いていた。
レーネは安いブーツの底をすり減らしながら、中層区の石畳を歩いた。空は曇っていて、湿った風が吹いている。惣菜屋の前を通ったが、寄らなかった。朝の肉パイの残りが下宿にある。
頭の中に、先生の声が残っている。
「いい報告だった。助かった」
先生はああいう言い方をほとんどしない。「ああ」か「了解だ」か、たまに「よくやった」。でも今日のは違った。——褒めたのではない。本当に助かったのだ。あたしの目で見たものが、先生の役に立った。
その言葉を噛みしめたかった。なのに、その後に来たのが「もう見に行くな」だった。古書店も、河岸も。
——明日から、あたしの足で稼ぐ仕事がない。
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下宿の部屋。壁が薄い。隣の男が咳をしているのが聞こえる。
靴を脱いだ。足の裏が赤くなっていた。ブーツの底が減ってきている。そろそろ市場の靴直しに持っていかないと。
朝の肉パイの残りを齧った。冷えて皮が湿気っている。豆の食感がぼんやりしていた。——朝はぱりっとしていたのに。
窓際の椅子に座って、足を伸ばした。
先生の顔が変わっている。ここ数日。いつものぼやき顔ではない。もっと奥の方——暗い場所を覗き込んでいるような目をしている。言葉にできない。でも、顔を見ればわかる。
今朝、二つの国の話をしてくれた。あたしにわかるように、短く。でも、わかるように話した分だけ、先生が見ているものの端っこしか見えていないことが、逆にわかった。
アンセルさんとの話には、一人で行った。ヘルマンさんのところにも一人で行く。「判断は俺がする。お前は気にしなくていい」。——守ろうとしている。それはわかる。
でも、あたしに見えないものが増えている。
あの夜のことを思い出した。リュッケの倉庫。男が地面に横たわっていて、目が開いていて、口の端に白い泡。先生が「倉庫に戻るぞ」と言って、あたしは頷いた。——あの時から、先生の後ろではなく、隣にいたいと思った。
でも、隣に立てる場所が、少しずつ狭くなっている。
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窓を開けた。曇り空。街灯が石畳を照らしている。湿った風。明日は雨かもしれない。
あたしにできること。走ること。顔を覚えること。人に聞くこと。——足で稼ぐ仕事なら、たぶん誰にも負けない。
でも、二つの国の話は足では追えない。仕様書の書式がどうとか、ディナールの出所がどうとか、あたしにはわからない。先生の目が遠くなる時、あの目の先に何があるのかも。
——先生が動けない時は。
そこまで考えて、やめた。まだそんな時じゃない。
窓を閉めた。布団に入った。足がじんじんする。明日も朝の荷運びがある。
目を閉じた。——足が動く限りは、走る。それだけだ。




