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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep08「取引」

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第27話「両国の影」

 花月五日。曇り。


 窓の外が白い。低い雲が空を覆っていて、陽の光が拡散している。昨日の快晴が嘘のように、空気が重い。風はない。湿気を含んだ空気が、初夏に向かう街に停滞している。


 レーネが肉パイを持ってきた。豆入りの、ずっしりした肉パイだ。市場の惣菜屋で朝一番に買ったらしい。皮がぱりっとしていて、中の肉と豆がほくほくしている。


「先生、朝っすよ」


「起きている」


「起きてるけど動いてないっす」


 肉パイを齧った。豆の食感がいい。塩気と肉の脂が朝の腹にちょうどいい。


「レーネ。昨日のことで、少し伝えておくことがある」


 レーネが肉パイを持ったまま、こちらを見た。


「アンセルから聞いた話だ。——この件に、セレナードの人間も関わっている」


「セレナードって……あのお坊さんの国っすか」


「教皇領だ。——アシュガルの仕様書、セレナードの金。二つの国の人間が、一つの事案に噛んでいる」


 レーネの表情が変わった。意味を飲み込もうとしている。


「……先生。それ、でかい話っすよね」


「ああ。だから無理はするな。お前に頼むのは今まで通り——古書店と河岸の鶏亭の確認だけだ」


「了解っす。——でも」


「でも?」


「あたし、あのお坊さん……アンセルさんのこと、信用していいんすか」


「……いい問いだ」


 信用、という言葉は使いたくなかった。取引だ。利害が一致する限りの。——だが、レーネにはそう言っても伝わらない。


「判断は俺がする。お前は気にしなくていい」


 レーネが少し不満そうな顔をしたが、頷いた。肉パイの残りを口に詰め込んで、屋台の手伝いに出ていった。


---


 午後。事務所。


 レーネが戻ってきた。午前の屋台手伝いを済ませてから、古書店と河岸の鶏亭の確認を回ってきたらしい。額に薄く汗をかいている。


「先生。古書店の件なんすけど」


「仲介人が来たか」


「来てないっす。——でも、別の人が来たって」


 椅子から身を起こした。


「別の人間。どんな」


「おじいさんが言うには……三十くらいの男が来て、棚をひと通り見回して、何も買わずに出ていったって。客っぽくなかったって言ってたっす」


「何も買わず、棚を見回した」


「ええ。それと、帳場の辺りもちらっと見てたって。おじいさん、気になったんで覚えてたそうっす」


 三十代。棚を見回す。何も買わない。帳場を確認する。——ただの客なら、帳場は見ない。


 偵察だ。


 仲介人本人は来なかった。代わりに、別の人間を送って古書店の状況を確認した。「仲介屋のヴェルナーがいた」という伝言が残されているかどうか。店の老人の態度。帳場周りの変化。——確認すべきことを確認しに来た。


 つまり、伝言は仲介人に届いている。そして、引く気はない。引くなら偵察など送らない。状況を把握して、次の手を考えている。


「レーネ。古書店はもういい。これ以上おじいさんに関わらせるのは危ない」


「え……でも」


「仕掛けは機能した。反応があった。——これ以上は、おじいさんを巻き込む話じゃない」


 レーネが口を閉じた。黙って頷いた。


「河岸の鶏亭は」


「あ、それも報告っす。今日、通ったんすけど——二階の窓、昨日まで布が干してあったんすけど、今日はなかったっす。窓も閉まってるし、灯りもなかったっす」


「布がなくなった」


「ええ。長期滞在の客が干す布って、先生が前に言ってたっすよね。それがなくなってるってことは——」


「引き払った可能性がある」


 沈黙。


 古書店に偵察を送った。宿からは引き払った。


 ——態勢を立て直している。名前を晒して仕掛けた。組織は偵察で確認した。そして拠点を移した。引くのではなく、こちらの視界から消えた。


 次にどこから出てくるか——今はわからない。


 ——もう一つ。レーネが三日続けて古書店に顔を出している。偵察の男と行き違いになっていれば、顔を覚えられている。


「レーネ。しばらく河岸の鶏亭の確認もいい。古書店も河岸も、もう見に行くな」


「……了解っす」


「いい報告だった。助かった」


 レーネが一瞬目を丸くした。


「あ……ありがとうっす。今日は市場の夕方の片付けがあるんで、そのまま帰るっすけど、明日の朝また来るっす」


「ああ」


---


 上層区。午後遅く。


 ヘルマンの両替商。二階の執務室。窓から曇り空の灰色の光が入っている。


 ヘルマンが茶を注いだ。いつもより少し待ってから注いだ。蒸らしを長くした上等な茶だ。


「ヴェルナーさん。お顔が少し違いますね」


「いつもの顔だ」


「いえ。——何か掴みましたか」


 この老人は、いつも読む。茶碗を出す前に、相手の空気を読む。


「報告がある。——セレナード側も動いている」


 ヘルマンの手が止まった。茶碗を持ったまま、眼鏡の奥の目がこちらを見た。


「ディナールは教皇領の公式予算から出ていない。非公式の資金だ。国としての動きではなく、国の中の誰かが動かしている金」


「……情報源を、お聞きしてもよろしいですか」


「聞いてもいいが、答えない」


 沈黙。ヘルマンが茶碗を置いた。音を立てないように、静かに。


「さようでございますか。——ヴェルナーさん、独自の情報源をお持ちでございますか」


「最近、できた」


 ヘルマンの唇が微かに動いた。笑ったのか、考えたのか。——読めない。この老人の表情を読むのは、いつも難しい。


「もう一つ。仕様書の書式はアシュガル軍の調達規格だ。金はセレナード。自決の毒は両方の情報部で使われているもの。——二つの国の影が、一つの事案に重なっている」


 ヘルマンが眼鏡を外した。布で拭いた。——重要なことを言う前の仕草だ。だが、今日は少し長い。


「ヴェルナーさん。あなたの見立ては——正しいかもしれません」


 手が止まった。


 この老人が、こちらの推理を肯定するのを初めて聞いた。「さようでございますか」でも「もう少し待ってください」でもなく、「正しいかもしれません」。


「ヘルマンさん」


「以前お話しした件——確認したいことがあると申し上げた件でございます。返事が届きました」


 前に聞いた。萌月二十八日。「確認したいことがございまして。少々、時間をいただければ」と、この老人は言った。あの時の「確認」の答えが出た。


「全てではございません。——ですが、一部がわかりました」


「何がわかった」


 ヘルマンが眼鏡をかけ直した。窓の外の曇り空を一瞬見て、こちらに視線を戻した。


「今日はここまでにしましょう。——もう少し、整理してからお伝えしたいのです」


 また待てと言われるのか。——だが、今日のヘルマンの表情は前と違う。逃げているのではない。考えている。


「わかった」


 茶を飲み干した。ぬるくなっていた。


---


 事務所。夕方。


 窓を開けた。曇り空の下、空気に湿気が増している。夕方の風が吹き始めて、雲が低く流れている。明日は雨かもしれない。


 煙草入れを取り出した。ドルクに直してもらった蝶番が滑らかに開く。煙草を巻いて、火をつけた。


 煙を吐きながら、頭の中を整理した。——あの老人が途中で切り上げるのは、まだ出すかどうか迷っている時だ。だが、夜に使いを出すなら、迷いを越えたということになる。


 午後の会話で変わったのは、俺が独自の情報源を持ったことだ。この老人に頼っていた男が、別の線を持ち始めた。——出し惜しみをすれば、置いていかれる。そう判断したか。


 仕様書はアシュガル軍の調達規格。金はセレナードの非公式資金。自決の毒は両国の情報部。仲介人は古書店から手を引き、宿を引き払った。組織は偵察を送り、態勢を立て直している。


 二つの国の影が、一つのものの上に重なっている。——だが、その「一つのもの」が何かは、まだ見えない。


 何を探している。何を作ろうとしている。何のためにこれだけの金と人を動かしている。


 煙草が短くなった。火を消した。窓の外が暗くなり始めていた。


 戸を叩く音がした。


 立ち上がった。刃物の位置を確認してから、扉を開けた。


 見慣れない中年の男が立っていた。両替商の制服ではないが、手が綺麗で、爪が短く整っている。帳簿を扱う人間の手だ。


「ヴェルナーさんでいらっしゃいますか。——ヘルマンが、お越しいただきたいと」


「……今からか」


「はい。夜分に恐れ入りますが、と申しておりました」


 ヘルマンが使いを寄越した。——この老人がこちらを呼び出すのは、初めてだ。


---


 上層区。夜。ヘルマンの両替商。


 裏口から入った。使いの者が灯りを持って案内してくれた。階段を上がる。


 二階の執務室。帳簿の山はいつも通りだが、灯りがいつもより多い。蝋燭が三本。ヘルマンは執務室で夜を過ごすことがあるらしい。知らなかった。


「お越しいただき、ありがとうございます」


「夜に呼ぶのは初めてだな」


「ええ。——申し訳ございません」


 茶と、小さな皿が出てきた。干し菓子。杏と胡桃の砂糖がけ。上層区の菓子店のものだろう。——この老人が菓子を出すのも珍しい。


 茶碗を受け取った。午後のものより香りが深い。別の茶葉を使っている。


「ヴェルナーさん。午後にお話しした件——返事の内容を、一部お伝えします」


「聞こう」


 ヘルマンが茶碗を両手で持った。蝋燭の灯りが眼鏡に映っている。


「書簡に——十年以上前の出来事と、今レーベンで起きていることが、繋がっているかもしれない、と」


 手が止まった。茶碗の上で。


「十年以上前」


「ええ。——詳しい内容は、まだ申し上げられません。わたくしも全容は把握しておりません。ですが——」


 ヘルマンが茶碗を置いた。


「あなたが見つけた『二つの国の影』と、その古い出来事は、無関係ではないかもしれない」


 沈黙。


 蝋燭の炎が揺れた。窓は閉まっている。風はない。——揺れたのは、自分の息のせいだ。


 十年以上前。——指の先が冷たくなった。頭の奥で、何かが軋んだ。砂と血の匂い。遠い記憶の縁が、ほんの一瞬だけ浮かんで、沈んだ。


 ——考えるな。


 いや。


「ヘルマンさん」


「はい」


「もう少し——待つ」


 ヘルマンの目が、ほんの僅かだけ広がった。——意外だ、という顔。


 前にこの老人に「待ってほしい」と言われた時、俺は頷かなくなった。古書店に自分の名前を晒した。独りで動き始めた。この老人は、それを知っている。


 だが——今は違う。答えが出ない問いに待てなかったのではない。答えが近づいている。だから待つ価値がある。


「ただし——全容がわかったら、俺に話してくれ。全てを」


「……お約束いたします」


 約束。この老人が約束という言葉を使ったのも、初めてだ。


 干し菓子を一つ口に入れた。杏の砂糖がけ。甘い。——甘い味が、頭の中の暗い場所に蓋をしてくれる。


 茶を飲み干した。


「帰る」


「お気をつけて」


 階段を下りた。裏口から通りに出た。


---


 帰り道。上層区から中層区へ。


 曇り空の夜は暗い。街灯の灯りが石畳を照らしている。衛兵の巡回の松明が、遠くで揺れている。


 歩きながら、考えた。——考えないようにしていたことを。


 十年前。


 アシュガル軍の、ある部隊。アンセルもそれを知っていた。——なぜだ。セレナードの人間が、アシュガル軍の書式を知っていても不思議はない。だが「ある部隊の」と特定できるのは、別の話だ。あの事件に、セレナード側も——


 ヘルマンの書簡の相手もそれに触れた。俺一人の記憶の中にあったものが、外の世界と繋がり始めている。


 考えるな、と思った。いつものように。


 ——だが、もう「今日ではない」とは言えなくなりつつある。


 灰色猫亭の前を通り過ぎた。今日は寄らなかった。腹は減っている。だが、マルタの前で今の顔をする気にはなれなかった。


 事務所に戻った。窓を開けた。湿った夜風が入ってくる。明日は雨だろう。


 机の上に、アンセルの水筒が置いてある。今日は市場に行く余裕がなかった。まだ返していない。


 煙草を巻いた。火をつけた。煙が天井に上がっていく。


 ——大きくなっている。俺が追いかけていたもの。手の届く範囲を超えて、広がっている。


 だが——今は、手が届く人間がいる。アンセル。ヘルマン。レーネ。


 一人ではなくなった。それが良いことなのかどうか、まだわからない。


 煙草が短くなった。火を消した。窓を閉めた。


 湿った空気の中、水筒の革の表面が、蝋燭の残り火を映して少しだけ光っていた。


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