第27話「両国の影」
花月五日。曇り。
窓の外が白い。低い雲が空を覆っていて、陽の光が拡散している。昨日の快晴が嘘のように、空気が重い。風はない。湿気を含んだ空気が、初夏に向かう街に停滞している。
レーネが肉パイを持ってきた。豆入りの、ずっしりした肉パイだ。市場の惣菜屋で朝一番に買ったらしい。皮がぱりっとしていて、中の肉と豆がほくほくしている。
「先生、朝っすよ」
「起きている」
「起きてるけど動いてないっす」
肉パイを齧った。豆の食感がいい。塩気と肉の脂が朝の腹にちょうどいい。
「レーネ。昨日のことで、少し伝えておくことがある」
レーネが肉パイを持ったまま、こちらを見た。
「アンセルから聞いた話だ。——この件に、セレナードの人間も関わっている」
「セレナードって……あのお坊さんの国っすか」
「教皇領だ。——アシュガルの仕様書、セレナードの金。二つの国の人間が、一つの事案に噛んでいる」
レーネの表情が変わった。意味を飲み込もうとしている。
「……先生。それ、でかい話っすよね」
「ああ。だから無理はするな。お前に頼むのは今まで通り——古書店と河岸の鶏亭の確認だけだ」
「了解っす。——でも」
「でも?」
「あたし、あのお坊さん……アンセルさんのこと、信用していいんすか」
「……いい問いだ」
信用、という言葉は使いたくなかった。取引だ。利害が一致する限りの。——だが、レーネにはそう言っても伝わらない。
「判断は俺がする。お前は気にしなくていい」
レーネが少し不満そうな顔をしたが、頷いた。肉パイの残りを口に詰め込んで、屋台の手伝いに出ていった。
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午後。事務所。
レーネが戻ってきた。午前の屋台手伝いを済ませてから、古書店と河岸の鶏亭の確認を回ってきたらしい。額に薄く汗をかいている。
「先生。古書店の件なんすけど」
「仲介人が来たか」
「来てないっす。——でも、別の人が来たって」
椅子から身を起こした。
「別の人間。どんな」
「おじいさんが言うには……三十くらいの男が来て、棚をひと通り見回して、何も買わずに出ていったって。客っぽくなかったって言ってたっす」
「何も買わず、棚を見回した」
「ええ。それと、帳場の辺りもちらっと見てたって。おじいさん、気になったんで覚えてたそうっす」
三十代。棚を見回す。何も買わない。帳場を確認する。——ただの客なら、帳場は見ない。
偵察だ。
仲介人本人は来なかった。代わりに、別の人間を送って古書店の状況を確認した。「仲介屋のヴェルナーがいた」という伝言が残されているかどうか。店の老人の態度。帳場周りの変化。——確認すべきことを確認しに来た。
つまり、伝言は仲介人に届いている。そして、引く気はない。引くなら偵察など送らない。状況を把握して、次の手を考えている。
「レーネ。古書店はもういい。これ以上おじいさんに関わらせるのは危ない」
「え……でも」
「仕掛けは機能した。反応があった。——これ以上は、おじいさんを巻き込む話じゃない」
レーネが口を閉じた。黙って頷いた。
「河岸の鶏亭は」
「あ、それも報告っす。今日、通ったんすけど——二階の窓、昨日まで布が干してあったんすけど、今日はなかったっす。窓も閉まってるし、灯りもなかったっす」
「布がなくなった」
「ええ。長期滞在の客が干す布って、先生が前に言ってたっすよね。それがなくなってるってことは——」
「引き払った可能性がある」
沈黙。
古書店に偵察を送った。宿からは引き払った。
——態勢を立て直している。名前を晒して仕掛けた。組織は偵察で確認した。そして拠点を移した。引くのではなく、こちらの視界から消えた。
次にどこから出てくるか——今はわからない。
——もう一つ。レーネが三日続けて古書店に顔を出している。偵察の男と行き違いになっていれば、顔を覚えられている。
「レーネ。しばらく河岸の鶏亭の確認もいい。古書店も河岸も、もう見に行くな」
「……了解っす」
「いい報告だった。助かった」
レーネが一瞬目を丸くした。
「あ……ありがとうっす。今日は市場の夕方の片付けがあるんで、そのまま帰るっすけど、明日の朝また来るっす」
「ああ」
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上層区。午後遅く。
ヘルマンの両替商。二階の執務室。窓から曇り空の灰色の光が入っている。
ヘルマンが茶を注いだ。いつもより少し待ってから注いだ。蒸らしを長くした上等な茶だ。
「ヴェルナーさん。お顔が少し違いますね」
「いつもの顔だ」
「いえ。——何か掴みましたか」
この老人は、いつも読む。茶碗を出す前に、相手の空気を読む。
「報告がある。——セレナード側も動いている」
ヘルマンの手が止まった。茶碗を持ったまま、眼鏡の奥の目がこちらを見た。
「ディナールは教皇領の公式予算から出ていない。非公式の資金だ。国としての動きではなく、国の中の誰かが動かしている金」
「……情報源を、お聞きしてもよろしいですか」
「聞いてもいいが、答えない」
沈黙。ヘルマンが茶碗を置いた。音を立てないように、静かに。
「さようでございますか。——ヴェルナーさん、独自の情報源をお持ちでございますか」
「最近、できた」
ヘルマンの唇が微かに動いた。笑ったのか、考えたのか。——読めない。この老人の表情を読むのは、いつも難しい。
「もう一つ。仕様書の書式はアシュガル軍の調達規格だ。金はセレナード。自決の毒は両方の情報部で使われているもの。——二つの国の影が、一つの事案に重なっている」
ヘルマンが眼鏡を外した。布で拭いた。——重要なことを言う前の仕草だ。だが、今日は少し長い。
「ヴェルナーさん。あなたの見立ては——正しいかもしれません」
手が止まった。
この老人が、こちらの推理を肯定するのを初めて聞いた。「さようでございますか」でも「もう少し待ってください」でもなく、「正しいかもしれません」。
「ヘルマンさん」
「以前お話しした件——確認したいことがあると申し上げた件でございます。返事が届きました」
前に聞いた。萌月二十八日。「確認したいことがございまして。少々、時間をいただければ」と、この老人は言った。あの時の「確認」の答えが出た。
「全てではございません。——ですが、一部がわかりました」
「何がわかった」
ヘルマンが眼鏡をかけ直した。窓の外の曇り空を一瞬見て、こちらに視線を戻した。
「今日はここまでにしましょう。——もう少し、整理してからお伝えしたいのです」
また待てと言われるのか。——だが、今日のヘルマンの表情は前と違う。逃げているのではない。考えている。
「わかった」
茶を飲み干した。ぬるくなっていた。
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事務所。夕方。
窓を開けた。曇り空の下、空気に湿気が増している。夕方の風が吹き始めて、雲が低く流れている。明日は雨かもしれない。
煙草入れを取り出した。ドルクに直してもらった蝶番が滑らかに開く。煙草を巻いて、火をつけた。
煙を吐きながら、頭の中を整理した。——あの老人が途中で切り上げるのは、まだ出すかどうか迷っている時だ。だが、夜に使いを出すなら、迷いを越えたということになる。
午後の会話で変わったのは、俺が独自の情報源を持ったことだ。この老人に頼っていた男が、別の線を持ち始めた。——出し惜しみをすれば、置いていかれる。そう判断したか。
仕様書はアシュガル軍の調達規格。金はセレナードの非公式資金。自決の毒は両国の情報部。仲介人は古書店から手を引き、宿を引き払った。組織は偵察を送り、態勢を立て直している。
二つの国の影が、一つのものの上に重なっている。——だが、その「一つのもの」が何かは、まだ見えない。
何を探している。何を作ろうとしている。何のためにこれだけの金と人を動かしている。
煙草が短くなった。火を消した。窓の外が暗くなり始めていた。
戸を叩く音がした。
立ち上がった。刃物の位置を確認してから、扉を開けた。
見慣れない中年の男が立っていた。両替商の制服ではないが、手が綺麗で、爪が短く整っている。帳簿を扱う人間の手だ。
「ヴェルナーさんでいらっしゃいますか。——ヘルマンが、お越しいただきたいと」
「……今からか」
「はい。夜分に恐れ入りますが、と申しておりました」
ヘルマンが使いを寄越した。——この老人がこちらを呼び出すのは、初めてだ。
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上層区。夜。ヘルマンの両替商。
裏口から入った。使いの者が灯りを持って案内してくれた。階段を上がる。
二階の執務室。帳簿の山はいつも通りだが、灯りがいつもより多い。蝋燭が三本。ヘルマンは執務室で夜を過ごすことがあるらしい。知らなかった。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「夜に呼ぶのは初めてだな」
「ええ。——申し訳ございません」
茶と、小さな皿が出てきた。干し菓子。杏と胡桃の砂糖がけ。上層区の菓子店のものだろう。——この老人が菓子を出すのも珍しい。
茶碗を受け取った。午後のものより香りが深い。別の茶葉を使っている。
「ヴェルナーさん。午後にお話しした件——返事の内容を、一部お伝えします」
「聞こう」
ヘルマンが茶碗を両手で持った。蝋燭の灯りが眼鏡に映っている。
「書簡に——十年以上前の出来事と、今レーベンで起きていることが、繋がっているかもしれない、と」
手が止まった。茶碗の上で。
「十年以上前」
「ええ。——詳しい内容は、まだ申し上げられません。わたくしも全容は把握しておりません。ですが——」
ヘルマンが茶碗を置いた。
「あなたが見つけた『二つの国の影』と、その古い出来事は、無関係ではないかもしれない」
沈黙。
蝋燭の炎が揺れた。窓は閉まっている。風はない。——揺れたのは、自分の息のせいだ。
十年以上前。——指の先が冷たくなった。頭の奥で、何かが軋んだ。砂と血の匂い。遠い記憶の縁が、ほんの一瞬だけ浮かんで、沈んだ。
——考えるな。
いや。
「ヘルマンさん」
「はい」
「もう少し——待つ」
ヘルマンの目が、ほんの僅かだけ広がった。——意外だ、という顔。
前にこの老人に「待ってほしい」と言われた時、俺は頷かなくなった。古書店に自分の名前を晒した。独りで動き始めた。この老人は、それを知っている。
だが——今は違う。答えが出ない問いに待てなかったのではない。答えが近づいている。だから待つ価値がある。
「ただし——全容がわかったら、俺に話してくれ。全てを」
「……お約束いたします」
約束。この老人が約束という言葉を使ったのも、初めてだ。
干し菓子を一つ口に入れた。杏の砂糖がけ。甘い。——甘い味が、頭の中の暗い場所に蓋をしてくれる。
茶を飲み干した。
「帰る」
「お気をつけて」
階段を下りた。裏口から通りに出た。
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帰り道。上層区から中層区へ。
曇り空の夜は暗い。街灯の灯りが石畳を照らしている。衛兵の巡回の松明が、遠くで揺れている。
歩きながら、考えた。——考えないようにしていたことを。
十年前。
アシュガル軍の、ある部隊。アンセルもそれを知っていた。——なぜだ。セレナードの人間が、アシュガル軍の書式を知っていても不思議はない。だが「ある部隊の」と特定できるのは、別の話だ。あの事件に、セレナード側も——
ヘルマンの書簡の相手もそれに触れた。俺一人の記憶の中にあったものが、外の世界と繋がり始めている。
考えるな、と思った。いつものように。
——だが、もう「今日ではない」とは言えなくなりつつある。
灰色猫亭の前を通り過ぎた。今日は寄らなかった。腹は減っている。だが、マルタの前で今の顔をする気にはなれなかった。
事務所に戻った。窓を開けた。湿った夜風が入ってくる。明日は雨だろう。
机の上に、アンセルの水筒が置いてある。今日は市場に行く余裕がなかった。まだ返していない。
煙草を巻いた。火をつけた。煙が天井に上がっていく。
——大きくなっている。俺が追いかけていたもの。手の届く範囲を超えて、広がっている。
だが——今は、手が届く人間がいる。アンセル。ヘルマン。レーネ。
一人ではなくなった。それが良いことなのかどうか、まだわからない。
煙草が短くなった。火を消した。窓を閉めた。
湿った空気の中、水筒の革の表面が、蝋燭の残り火を映して少しだけ光っていた。




