幕間「盤上の石」
花月二日、夜。
帳簿の最後の頁に朱線を引いて、帳尻を確認した。今月の両替手数料の集計。数字は合っている。——この歳になると、数字だけは裏切らないものだと、つくづく思う。
ヘルマンは帳簿を閉じ、茶を注いだ。一人分。花月に入って最初の仕入れ。新茶ではないが、春の陽が強まる頃に摘まれた葉は香りが深い。蓋を開けると、紙とインクの匂いに混じって、甘い湯気が立った。
上層区の夜は静かだ。萌月の底冷えが消えて、窓の外の夜気が穏やかだった。衛兵の巡回の灯りが、通りの石畳を流れていく。
一昨日のことを、考えていた。
萌月三十日。ヴェルナーが報告に来た。商人ギルドの情報屋が口を閉ざしたこと。仲介屋のヴェルナーという名前が、組織の人間に知られていること。報告の内容自体は、想定の範囲内だった。
だが——あの若者は、何かを隠していた。
以前のヴェルナーは、こちらの反応を読もうとした。眼鏡の奥の目の動き。茶碗を持つ手の微かな停止。言葉を選ぶ間。——情報将校の習性だ。相手の反応から、もう一段深い情報を引き出す。
一昨日は、読もうとしなかった。報告を済ませ、反応を確認し、そして去った。追及もしなければ、答えを引き出そうともしなかった。
読む必要がなくなった、ということだ。
つまり——こちらの情報に頼らず動くと、あの若者は決めた。
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そして昨日、別の報告が入った。
花月一日。商業区の古書店で、ヴェルナーが自分の名前を晒した。「同じものを探している仲介屋のヴェルナーがいた」と、古書店の主人に伝えてくれと頼んだと。
わたくしの耳にも、入ってくることはある。古書店の主人から直接聞いたのではない。商いを通じてあの店と繋がりのある、別の人間からだ。
名前を晒した。
ヘルマンは茶碗を置いた。音を立てないように、静かに。
あの若者が何をしたか、正確に理解している。「こちらも見えている」ことを示す罠だ。情報屋が組織の圧力で口を閉ざした直後に、今度は自ら名前を差し出した。相手がどう反応するかで、組織の規模と本気の度合いを測る。
合理的な判断だ。かつて情報部にいた人間らしい仕掛けでもある。
だが——仕掛けは、相手が仕掛け通りに動く時にだけ機能する。引く者は引く。しかし、歯に毒を仕込む人間を使う組織が、名前一つで引くとは限らない。
引かなかった時に、あの若者は受け止められるのか。
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茶が、少しぬるくなっていた。
もう泳がせている、とは言えなかった。
萌月の終わりまでは——あの若者を泳がせていた。報告を聞き、反応を控え、必要な情報だけを与え、動きを見守っていた。盤の上に石を並べるように、局面を読み、次の一手を考える。それがわたくしの役目だった。
だが——あの若者は、もうこちらの手の届かない場所で動き始めている。
「もう少しかかります」と言い続けてきた。以前のヴェルナーは頷いていた。もう頷かないだろう。待たないと決めた人間の目を、一昨日の午後、見た。
使うのか、守るのか。——萌月の夜に考えた問いだった。まだ決めなくてよいと、あの時は思った。
今は、問いの形が変わっている。あの若者は、使われることを拒んだ。守られることも、望んでいない。自分で泳ぎ始めている。——わたくしが答えを出す前に、問いそのものが消えかけている。
引き出しを開けた。
封書は変わらずそこにある。封蝋も割られていない。
手に取った。前と同じ重さ。——だが、手の中にある感覚が、前とは違う。軽い紙のはずなのに、指先に重さがある。
まだ——
「まだ早い」と、前は迷わず思えた。今は——早いのか遅いのか、わからなくなっている。
戻した。だが、引き出しの縁から手を離すのに、前より少しだけ時間がかかった。
もう一つ、別の引き出しを開けた。返事のない書簡の控え。差し出してから十日になる。——いつもなら、七日で届く相手だ。返事が来なければ、「確認したいこと」の答えは出ない。答えが出なければ、ヴェルナーに伝えるべきことも伝えられない。
だが——あの若者は、もう待たない。
書簡を引き出しに戻した。
窓辺に立った。花月の夜は明るい。萌月の夜より星が近く見える。通りの街灯が石畳を照らし、遠く商業区の方角にまだ灯りが点いている。
盤を見下ろしているつもりだった。石を動かし、局面を読み、次の手を考えるつもりだった。
——だが、盤の上の石が勝手に動き始めたのだ。打ち手の手を離れて。
ぬるくなった茶を、飲み干した。
「さて——」
誰に向けた言葉でもない。この部屋には自分しかいない。帳簿の山が、黙って聞いているだけだ。




