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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep08「取引」

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第25話「旅の者」

 花月三日。薄曇り。


 窓の外で、風が強い。中層区の通りに面した看板が揺れている。乾いた風だ。花月に入ってから空気が変わった。春の湿気が消えて、初夏の匂いが少しだけ混じっている。


 古書店に仕掛けを残してから、二日が経った。


 反応はない。


 仲介人は古書店に来ていない——昨日、レーネに確認を頼んだ。古書店の老人は首を振っただけだったという。来たら伝えますよ、と。


 河岸の鶏亭にも変化はない。レーネが遠目に確認した限り、二階の窓に灯りは点いていた。仲介人はまだあの宿にいる。動いていないか、あるいは別の経路で動いている。


 どちらにしても、こちらには見えない。


 事務所の椅子に座って、旅行記を開いた。セレナード南部の修道士の手記。退屈な内容だ——だが、今日はその退屈さが苛立つ。昨日まではちょうどよかったのに。


 待つのが下手だ。昔からだ。軍にいた頃も、張り込み任務は同僚に押し付けていた。分析と行動が自分の仕事で、じっとしているのは性に合わない。——そのくせ仕掛けておいて、自分で待つ羽目になっている。


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす」


 レーネが入ってきた。額に薄く汗をかいている。市場の朝の荷運びを済ませてきたらしい。片手に油紙の包みを持っている。


「今朝は魚があったっすよ。市場のおじさんが安くしてくれたんで」


 包みを開けると、焼き魚が二尾と黒パンが入っていた。川魚の小ぶりなやつだ。朝のうちに焼いてもらったのか、まだ少し温かい。


「……ありがたい」


「素直っすね。気持ち悪いっす」


 焼き魚を齧った。塩が少し多いが、身がしっかりしていて悪くない。黒パンと交互に食べる。レーネは自分の分をパンで挟んでほぐしながら、もぐもぐ食べている。食べるのが早い。


「先生。古書店の件なんすけど——」


「来てないだろう」


「……ええ。昨日の時点では、まだっす」


 沈黙。魚の骨を紙の上に出した。


「反応がないこと自体が、反応かもしれない」


「どういう意味っすか」


「仕掛けが伝わっていれば、仲介人の行動が変わる。来なくなった、というのも変化の一つだ。——ただ、三日おきの来店だとすれば、まだ間隔の範囲内でもある」


 レーネが首を傾げた。理屈はわかるが、落ち着かないのだろう。俺もだ。


「今日は?」


「散歩する。お前は午前中、屋台の方があるだろう」


「ええ。午後から動けるっす」


「午後に古書店をもう一度確認してくれ。それだけでいい」


 レーネが頷いて、焼き魚の最後のひと欠片を口に放り込んだ。


---


 商業区を抜けて、港区に向かった。


 散歩と言ったが、ただの散歩ではない。河岸の鶏亭を遠目に確認する——いつもの経路を変えながら。情報収集を兼ねた日常。軍にいた頃の習慣が抜けていないだけだ。


 風が強い。通りを吹き抜ける風に、荷馬車の幌がばたばた鳴っている。花月に入って交易シーズンが本格化し、港区の通りは荷の行き来で賑わっている。


 河岸の鶏亭の前を通り過ぎた。——通りの反対側から、視線だけを向けた。


 二階の窓。昼間は閉まっている。窓枠に布が干してある。長期滞在の客の仕草だ。——仲介人はまだいる。


 それだけ確認して、通り過ぎた。


 何も起きていない。何も変わっていない。——だが、何も起きていないこと自体が引っかかる。古書店に仕掛けを残して二日。仲介人が古書店を使い続けるなら、次の来店で名前を知る。使うのをやめるなら、こちらの存在を認識したということだ。どちらにしても、次の一手は向こうの反応を見るしかない。


 干し果物の紙袋の中を覗いた。杏が三つ。昼飯にしては頼りない。——苛立っている時は甘いものが食いたくなる。馬鹿みたいだ。


 港区を抜けて、商業区の市場の方角に足を向けた。


---


 市場。昼前。


 人通りが増えている。花月の交易シーズンで、各地から商隊が入ってきている。通りの両側に屋台が並び、声が飛び交う。馬の嘶き、車輪の音、鉄鍋を叩く音。


 干し果物の屋台で、杏と胡桃の干したものを紙袋に入れてもらった。昼飯の代わりだ。歩きながら齧る。杏の酸味が口に広がる。


 人波の中を歩いていた。


 ——足音。


 いや。足音がしない。


 雑踏の中で、一人だけ足音がしない人間がいる。


 立ち止まった。干し果物の紙袋を持ったまま、通りの人波を見る。石畳を行き交う人々の靴音。荷車を引く牛の蹄。子供の走る足。——その中に、音を立てずに歩いている人間がいる。


 石の上を影のように歩く。


 心臓が跳ねた。押さえた。


 振り返った。


 三歩後ろに、男が立っていた。


 旅装。帽子の下の顔。短く整えた髪。穏やかな目。——そして、帽子の影から覗く微笑み。


「お久しぶりです、ヴェルナーさん」


 アンセル。


---


 市場の隅。荷降ろし場の脇に、木箱が積まれている。二人分が座れる程度の隙間がある。通りからは人の流れに遮られて、目立たない。


 木箱に腰を下ろした。アンセルが隣に——一つ分の間を空けて——座った。


 見た。


 巡礼僧の灰色の外套ではない。旅慣れた革の上着。腰に短剣。靴は埃を被っているが、作りがいい。——商隊の護衛。セレナードから乾物や薬草を運ぶ商隊に紛れ込む形だろう。偽装としては自然だ。


 アンセルの手を見た。右手。——剣胼胝は変わらない。前と同じ位置に、同じ硬さの皮がある。


「商隊の護衛か」


「ええ。セレナードから薬草と乾物を運ぶ商隊に同行させてもらいました。護衛としては——あまり優秀ではないかもしれませんが」


「巡礼僧の次は護衛か。器用だな」


「器用とは思いませんが。——街の空気が変わりましたね。花月に入って、人が増えています」


 世間話をしている。二人とも、世間話をしている。——本題に入る前の距離の測り合い。


 干し果物の紙袋を差し出した。アンセルが一つ手に取った。杏の干したもの。


「ありがとうございます」


「……前に会った時、巡礼僧としてではなく話せるかもしれないと言っていたな」


 アンセルが杏を口に入れた。噛みながら、穏やかな目でこちらを見た。


「ええ。覚えていてくださいましたか」


「俺は記憶力だけが取り柄だ」


「ご謙遜を」


 沈黙。市場の喧騒が遠くに聞こえる。荷馬車が通り過ぎる音。屋台の店主が値段を叫ぶ声。


「ヴェルナーさん。少し、お話がしたいのですが」


「ここでは不味いか」


「ええ。——人の目が多すぎます」


 そうだ。市場の隅とはいえ、人通りはある。この男と腰を据えて話す場所ではない。


「明日。午前中に場所を伝える。中層区の外れに、人目のない場所がある」


「ありがとうございます。——商隊は港区の宿に逗留しています。朝、市場に出ていれば見つけられます」


 アンセルが立ち上がった。木箱から降りて、帽子を直した。


「それでは。——明日、お待ちしております」


「アンセル」


「はい」


「……旅装の方が似合うな」


 アンセルが一瞬、目を瞬かせた。それから、穏やかに笑った。巡礼僧の微笑みとは少し違う。もう少し——人間らしい笑みだった。


「お褒めにあずかり光栄です」


 人波に紛れて消えていった。足音はやはり聞こえなかった。


---


 事務所。午後。


 レーネが戻ってきた。午前の屋台手伝いの後に古書店を確認し、それから事務所に来たらしい。


「古書店、今日も来てなかったっす。おじいさんが『来たらちゃんと伝えますよ』って」


「そうか」


「……先生、なんか顔が違いません?」


「いつもの顔だ」


「いつもよりなんか……返事早くないっすか?」


 否定しようとして、やめた。嘘をつくほどのことでもない。


「今日、市場で知り合いに会った」


「知り合い?」


「前に巡礼団の仲裁をやっただろう。あの時の巡礼僧——アンセルだ。レーベンに戻ってきている」


 レーネが目を丸くした。


「あのお坊さんっすか。また巡礼っすか?」


「いや。今度は商隊の護衛として来ている」


「護衛……? お坊さんが?」


「巡礼僧ではない、ということだ」


 レーネの表情が変わった。意味を飲み込もうとしている。——こいつは最近、行間を読むようになった。


「明日、アンセルと会う。二人きりで話がある」


「あたしは」


「古書店の確認を続けてくれ。仲介人の来店があるかないか。——それと、河岸の鶏亭の前を通って、変化がないか見てくれ。それだけでいい」


 レーネが口を開きかけた。何か言いたそうだったが——閉じた。頷いた。


「了解っす」


---


 灰色猫亭。夜。


 マルタが鍋を出してきた。


「今日は春キャベツが入ったよ」


 豚肉と春キャベツの炒め煮。キャベツの葉が豚の脂で艶々に光っている。肉は厚切りで、脂身と赤身のバランスがいい。胡椒と塩だけの味付け。——シンプルだが、素材がいい。


 一口食べた。キャベツが甘い。豚の脂と混ざって、口の中でとろける。肉を噛むと旨味が出る。——旨い。花月の春キャベツは柔らかい。冬のキャベツとは別物だ。


 黙って食べていた。


「あんた、今日は目がきらきらしてるよ」


 マルタが布巾でカウンターを拭きながら、横目で言った。


「してない」


「してるよ。久しぶりに見たね、その顔。何かいいことでもあったかい」


「何もない。キャベツが旨いだけだ」


「嘘おっしゃい」


 マルタが笑った。それ以上は聞かなかった。この人はいつもそうだ。見えているものを指摘して、深入りはしない。


 炒め煮を食べ終わった。皿の底に残った汁を、パンで拭って食べた。


 煙草入れを取り出した。蝶番が滑らかに開く。煙草を一本巻いて、火をつけた。


 煙が天井に上がっていく。


 ——アンセルが戻ってきた。


 巡礼僧としてではなく。偽装を変えて。足音もなく。


 あの男が何者か——剣胼胝、足音のしない歩き方、巡礼僧から護衛への偽装の切り替え。密偵と見るのが自然だ。セレナードが密偵を送り直すほどの事態。前に来た時は噂を確認する程度だったはずだ。あの手帳に書いたことが本国に送られ、調査の結果、再び送り込まれた。つまり——セレナード側も、レーベンで何かが動いていることを認識している。俺一人が嗅ぎ回っている小さな話ではない。


 想像より、大きい。


 煙草の煙を吐いた。


 明日、アンセルと話す。密偵と元情報将校が、テーブルの下で手札を見せ合う。——互いに見せたい分だけを見せて、隠したい分は隠す。嘘をつく人間同士が、正直に話す。


 嘘つき同士が正直に話す場所は、意外と少ない。


 煙草が短くなった。火を消した。


 麦酒を一杯頼んで、飲み干した。冷たくて苦い。悪くない夜だ。


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