第24話「学者の影」
月が変わった。
花月一日。朝。窓を開けると、空気が違った。春の終わりの湿気が引いて、乾いた風が入ってくる。空は高い。雲は少ない。
屋台で焼き菓子を一つ買った。蜜と胡桃を練り込んだ、小さな平たい菓子。包みの中で、まだ温かい。齧ると、胡桃の香ばしさと蜜の甘さが口に広がった。——うまい。朝から甘いものを食べる自分に弁解の余地はないが、今日は許す。
商業区の古書店——レーネが見つけた店から少し離れた通りに、ベンチがある。荷運びの人足が休憩に使う場所だ。通りの行き止まりにあって、古書店の入口が斜めに見える。
ベンチに座った。懐から旅行記を出した。セレナード南部の修道士の手記。退屈な内容だが、今日はちょうどいい。本を読んでいる男は風景に溶け込む。
レーネは外壁区寄りの角にいるはずだ。赤い錠前の看板の錠前屋の前。男が古書店を出たら、どちらに向かうかを追う。——距離を取れ。見失っても構わない。
朝の商業区は人通りが多い。荷馬車が石畳を転がる音、店先の呼び込み、馬の嘶き。花月の始まりで、交易シーズンが本格化している。
旅行記を読みながら、古書店の入口を視界の端に置いた。
---
半刻が過ぎた。旅行記は退屈だが、修道士がセレナード南部の小さな村で食べた山羊の干し肉の記述だけはやけに具体的で、空腹を刺激する。——昼飯を食いそびれる予感がする。
人通りが増えた。昼に近づいている。
古書店の前を通り過ぎる人間を一人ずつ見ていた。老人、若い女、商人、職人。いずれも古書店には入らない。
旅行記の頁を繰った。視線を上げた。
男がいた。
通りの向こうから歩いてくる。中肉。三十代半ば。帽子を深く被っている。手に革の書類鞄を一つ。
心拍が上がるのを感じた。押さえた。旅行記の頁に目を落とした。——読んでいるふりをしろ。
男は通りの人波に混じって歩いている。歩き方を見た。軍人の歩き方ではない。だが、周囲を見る癖がある。二、三歩ごとに、目だけが左右に動く。訓練された警戒だ。完全に自然に見せようとしているが——身体が覚えている動きだ。
男が古書店の扉を開けた。入っていった。扉が閉まる。
旅行記を閉じた。——いや、まだだ。開き直した。焼き菓子の残りが紙袋の中にある。最後のひと欠片を口に入れた。胡桃の味。
待つ。
---
半刻ほどが過ぎた。
古書店の扉が開いた。男が出てきた。帽子の下の顔は見えない。——だが、手元が見えた。
脇に古い冊子を一冊抱えている。薄い、黄ばんだ紙の束。百年前の区画図か。
男が冊子を書類鞄にしまった。鞄の留め金を閉じる。——中身は見えなかった。だが、冊子を入れた後の鞄を片手で持ち上げる時、男の肩がわずかに傾いた。紙だけの重さではない。何か入っている。
男が歩き出した。通りの人波に混じって、商業区を横切る。港区の方角に向かっている。
レーネの位置からなら、見えているはずだ。あとはレーネに任せる。
男が通りの角を曲がって消えた。
立ち上がった。
---
古書店に入った。
薄暗い店内に、紙と革と古いインクの匂いが充満している。壁一面の棚に、年代物の冊子や巻物が並んでいる。奥のカウンターに白髪の老人が座っていた。丸い眼鏡をかけて、帳簿に何か書き込んでいる。
「いらっしゃい。何をお探しで」
「古い地図だ。レーベン近郊の、百年以上前の区画図。開拓時代のものがあれば見たい」
老人が眼鏡の上からこちらを見た。羽根ペンを置いた。開拓時代、という言葉に反応したのだろう。古書商にとっては、客の知識の深さが信用の判断材料になる。
「……ほう。あなたもですか」
「俺も?」
「ええ。さっきもお一人、同じものを探しに来られましたよ。あの方は三度目でしたかな」
「物好きが多いな」
「いやいや。あの方はかなり具体的な場所を調べていらした。好事家とは少し違いますな」
「どの辺りだ」
「レーベンの北東ですな。旧街道沿い、クロイツ丘陵の手前。開拓時代に入植地があった場所です。今は畑と森しかありませんが」
クロイツ丘陵。レーベンの北東。旧街道沿い。——頭に刻んだ。
「そこに何があったか、記録は残っているのか」
「ここにある文献ではわかりません。自治評議会の古い記録を当たれば、何か出てくるかもしれませんが。——お客様、失礼ですが、あの方のお知り合いで?」
「いや。だが同じものに興味がある」
老人がわずかに目を細めた。——疑っているのではない。好奇心だ。古書を扱う人間の、知識への関心。
——ブルーノの声が頭をよぎった。「おまえの名前が出た」。あの警告を受けた直後に、自分から名前を晒す。馬鹿げている。だが——仲介屋のヴェルナーという名前は、もう向こうに知られている。今さら隠しても意味はない。ならば先に出して、相手の反応を見る方がいい。
「もし次にあの男が来たら、伝えてもらえるか。同じものを探している仲介屋がいた、と」
「はあ。……お名前は」
「ヴェルナーでいい」
老人が頷いた。帳簿の隅に何か書き留めた。
店を出た。乾いた風が通りを吹き抜けていく。空は高い。午後の雲が、東の空から少しずつ広がり始めている。
---
夕方。赤い錠前の看板の前。
レーネが待っていた。
「先生、お疲れっす」
「どうだった」
「追えたっす。男は商業区を出て、港区の方に向かいました。途中で一度振り返って——あたし、とっさに荷馬車の陰に入ったっす。心臓止まるかと思いました」
「見られたか」
「たぶん大丈夫っす。馬車がちょうど通ったんで。——ただ、港区に入ってから路地に曲がられて、一度見失いかけたっす。大通りに出たとこでまた見つけて、宿に入るのを見ました。中くらいの商人宿。安宿じゃないっす」
仲介人はレーベンに滞在している。旅人ではない。腰を据えている。
「宿の名前は」
「『河岸の鶏亭』って書いてあったっす。港区の大通りから一本入ったとこっす。部屋まではわからなかったんすけど——入った後に二階の窓に明かりが点いたんで、二階じゃないかと」
河岸の鶏亭。港区の商人宿。二階の部屋。——記憶した。
「よくやった」
「また褒められた」
「褒めてない。——レーネ」
「なんすか」
「古書店で、俺が仕掛けをした」
レーネの足が止まった。こちらを見た。
「店主に、次にあの男が来たら『同じものを探している仲介屋のヴェルナーがいた』と伝えてくれと頼んだ」
レーネが目を見開いた。
「先生、それ大丈夫っすか。相手に顔と名前を教えたってことじゃ——」
「そうだ」
「なんでっすか」
「向こうは俺のことを知っている。ブルーノのところまで聞き回っていた。なら、こちらも知っていると示した方がいい」
レーネが口を閉じた。考えている。——こいつが考え込む顔は、最近になって見るようになった。以前は反射で動く方だった。
「相手がどう動くかで——」
「規模がわかる。仲介人を引っ込めるか、別の手を打ってくるか。反応の大きさが、連中の本気の度合いを測る物差しになる」
レーネが頷いた。完全に理解しているかはわからない。だが、理解しようとしている。
通りを歩いた。夕方の光が建物の影を長く引いている。商業区から中層区に向かう坂道を上がる。
---
灰色猫亭。夜。
マルタが鍋の蓋を開けた。
「花月だからね。メニュー変えたよ」
根菜と仔羊の赤ワイン煮。花月の季節料理だ。仔羊の肉が赤ワインで柔らかく煮えていて、蕪と人参が一緒にとろけている。香草の匂い。——旨そうだ。
皿に盛られた煮込みを、一口食べた。仔羊の脂が舌に広がる。赤ワインの酸味と香草の香りが追いかけてくる。蕪が甘い。——旨い。
レーネは先に帰った。「明日は朝から市場の手伝いがあるっす」と言っていた。俺は一人で、カウンターの隅にいる。
マルタが布巾でカウンターを拭きながら、横目でこちらを見た。
「あんた、最近忙しいのかい」
「まあな」
「忙しいのはいいことだよ。暇でぼうっとしてる日が多いと心配になるからね」
「余計なお世話だ」
「ま、食えるうちにちゃんと食べな」
煮込みを食べ終わった。皿の底に残った汁を、パンで拭って食べた。マルタの煮込みは汁まで旨い。
煙草入れを取り出した。ドルクに直してもらった蝶番が、滑らかに開く。煙草を一本巻いて、火をつけた。
煙が天井に上がっていく。
クロイツ丘陵。レーベンの北東。旧街道沿い。——仲介人が繰り返し調べている場所。百年以上前に入植地があった場所。今は畑と森。
何がある。何を探している。
仲介人は実在する。レーベンに腰を据えて、北東の特定の場所を繰り返し調べている。鞄は紙だけにしては重い。——ドルクの言った通りなら、見本か完成品を持ち歩いている。
わかっていないことの方が、まだ多い。
だが——こちらが動けば、向こうも動く。古書店の仕掛けは、小石を水面に投げ込んだようなものだ。波紋がどこまで広がるかで、水面の下に何があるかが見える。
動かないよりはましだ。少なくとも、誰かの手のひらの上で転がっているよりは。
煙草が短くなった。火を消した。マルタが麦酒を置いてくれた。頼んでいないが——花月の初日だからだろう。
「おごりだよ。月の変わり目くらいはね」
「……ありがとう」
麦酒を飲んだ。冷たくて、苦い。悪くない。




