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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep07「仕掛け」

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第23話「仕込み」

 萌月三十日。薄曇り。雲の切れ目から、時折陽が差す。


 レーネは午前中、市場の荷運びの仕事がある。午後から事務所に来ると言っていた。


 一人の朝だ。棚から蜜パンを出した。三日前に市場の隅の屋台で買ったものだが、まだ柔らかい。蜜がしっかり染みていて、歯を立てると甘さが口に広がる。——悪くない。安い茶を淹れて、蜜パンを齧りながら旅行記を読む。セレナード南部の修道士の手記。退屈な内容だが、この退屈さが朝の読書にはちょうどいい。


 旅行記を置いて、明日の計画を頭の中で組み立てた。


 花月の一日。古書店に仲介人が来る——かもしれない。来なければ出直す。来れば、初めて自分の目で確かめる機会だ。


 だが、見るだけでは足りない。何を見ればいいのか。仲介人の顔と体つきは、ヨーゼフや他の工房主の証言で把握している。中肉、三十代半ば、きれいな手。それだけでは「確認」にしかならない。


 もう一歩踏み込むには、技術的な目が要る。


 茶を飲み干して、立ち上がった。


---


 中層区。ドルクの工房。


 通りに入る前から、金属を叩く音が聞こえた。いつもの音だ。規則正しく、重い。途切れない。


 工房の扉は開いていた。炉の火が赤い。鉄の匂いと、焦げた炭の匂い。壁際に並んだ工具は前と同じ位置にある。ドルクの工房は、変わらない。


 奥の金床で、ドルクが鉄を叩いていた。俺が入ったことには気づいているだろう。だが、手を止めない。いつもの二人だ。隅の椅子に座って、待つ。


 しばらく見ていた。槌が落ちるたびに、火花が散る。鉄が赤から橙に、橙から暗い赤に変わっていく。ドルクの目は鉄だけを見ている。


 水桶に鉄を突っ込んだ。蒸気が立つ。ドルクが水を飲んだ。杯を金床の脇に置いて、こちらを見た。


「何だ」


「聞きたいことがある」


 ドルクが腕を組んだ。「聞く」の姿勢だ。


「学者の手をした男がいる。道具を作る側の人間ではない。だが、その男が完成した精密工具の出来を確認するとしたら——どこを見る」


 ドルクが眉をわずかに動かした。質問の意味を考えている。


「接合部の仕上げ」


「それだけか」


「刻印の深さ。均一かどうか。レンズがある器具なら、取り付け部分の嵌合精度。——道具を知らない人間でも、仕様書通りかどうかは比較で確認できる。見本があればな」


「見本を持ち歩いている可能性は」


「持っていなければ確認のしようがない」


 ドルクが椅子の横に立てかけていた金槌を取り上げた。柄を握り、重さを確かめるように軽く上下させた。考えながら手を動かすのは、この男の癖だ。


「つまり、そいつの荷物には完成品か、仕様書の写しが入っている。比較対象なしに品物を受け取る職人はいない。検品する側も同じだ」


「荷物の形から推測できるか」


「金属部品なら重さでわかる。書類だけなら軽い。両方持っているなら——片手で持つには少し重い鞄になる」


 ドルクが金槌を元に戻した。腕を組み直した。


「何をするつもりだ」


「見るだけだ」


「……ああ」


 ドルクの「ああ」だ。——承諾ではない。信じてもいない。だが、追及はしない。そういう「ああ」だ。


 昼飯を出してくれた。硬いパンと水。ドルクの妻が焼いたパンだ。昨日のものだろう。噛むと顎に力が要るが、小麦の味がしっかりしている。水と一緒に流し込む。職人の昼飯。


「世話になる」


「ああ」


 工房を出た。雲の切れ間から陽が差していた。


---


 午後。上層区。ヘルマンの両替商。


 二階に上がった。帳簿の山は相変わらずだ。窓の外は薄曇りだが、午後の光が少し強くなっている。


「ヴェルナーさん。お待ちしておりました。どうぞ」


 ヘルマンが茶を注いだ。上等な茶碗。今日は干し菓子が添えてある。——甘い。ありがたい。報告の前に一つつまんだ。


「報告がある」


「お聞きしましょう」


「ブルーノから情報が取れなくなった。組織の圧力が広がっている。商人ギルドの周辺にも連中が顔を見せている。荷の動きを探っている者がいるらしい」


 ヘルマンが茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。


「さようでございますか」


 いつもの反応だ。確認であって、驚きではない。以前ならこの反応を読もうとした。どこまで知っているのか、何を隠しているのか。だが——もう、読む意味がない。この老人が見せるのは、見せたいものだけだ。


「それと、俺の名前が出ているらしい。仲介屋のヴェルナーとして」


 ——半分だけ話した。ブルーノが言いかけた「別の名前」の件は、言わなかった。


 ヘルマンの眼鏡の奥の目が、一瞬だけ細くなった。茶碗を置いた。音を立てないように、静かに。


「注意が要りますぞ」


 茶碗を持つ手が、わずかに止まった。——名前が出ている。あの連中が俺を探っている。そのうえでの「注意が要る」だ。


「何の注意だ」


「それは——ヴェルナーさんがご自身でお考えになることかと」


 いつもの答えだ。具体的には言わない。知っているが教えない。——だが、今日はそれでいい。俺の方にも、言わないことがある。古書店の件。仲介人の行動パターン。明日の計画。


 お互いに手の内を見せない。初めて、この老人と対等な位置に立っている——と思った。錯覚かもしれないが。


「ヘルマン。前に言っていた『確認したいこと』の答えは出たか」


「もう少しかかります」


「そうか」


 追及はしない。だが、前とは理由が違う。前は、この老人を怒らせて情報が止まるのが怖かった。今は——この老人の答えを待っていたら、いつまでも動けない。それがわかったから、追及する必要がなくなった。


 立ち上がった。


「失礼する」


「お気をつけて」


 ——いつもより少し、力がこもっている。


 階段を下りた。春の午後の光が、上層区の石畳を照らしている。雲の切れ間が広がって、空が明るい。


---


 夕方。事務所。


 レーネが午後から来ていた。机の上を片付けている——片付けているというより、メモの山を別の場所に移動させているだけだが。


「先生のメモ、日付書いてないのが多すぎっすよ」


「俺なりの配置がある」


「ないっすよ。前も同じこと言ってたっす」


 否定できなかった。


 レーネが椅子に座り直した。揚げパンの残りを齧りながら——いつ買ったんだ——こちらを見た。


「で、明日の話。聞いていいっすか」


「ああ。明日、古書店に男が来る。——来るかもしれない。俺は古書店から少し離れた通りで待つ。旅行記でも読みながらな。お前は外壁区寄りの道を見張れ。男が出てきたら、どこに向かうか尾行しろ」


「了解っす」


「ただし、絶対に近づくな。距離を取れ。見失っても構わない。どの方角に向かったかだけでいい」


「わかったっす」


 一拍置いて、レーネが言った。


「先生。ヘルマンさんには?」


「……言ってない」


 レーネは黙った。揚げパンの最後のひと欠片を口に入れて、飲み込んだ。理由は聞かなかった。


 事務所の窓から、夕方の光が入ってきた。薄曇りが晴れて、西の空が橙色に染まっている。中層区の屋根が影になって、通りに長い線を引いている。


 干し肉と茹で豆を出した。二人分。レーネが「あ、茹で豆」と嬉しそうな声を上げた。こいつは豆が好きだ。


 食べながら、明日の動線を確認した。古書店の位置。通りの見通し。外壁区寄りの道の配置。レーネに地図を描いて見せた。——レーネが方向音痴なのは知っている。目印になる建物を教えておく必要がある。


「この角に錠前屋の看板がある。赤い錠前の形だ。そこが合流地点だ。男を見失っても、夕方にはそこに戻れ」


「赤い錠前。わかったっす」


 レーネが帰った。


 一人になった事務所で、翌日の動線を頭の中で描く。


 明日は花月の一日だ。月が変わる。——始まりには悪くない日だ。


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